量子論に《本質・絶対・無》といった概念はなじむか?
または 量子論は ふつうの存在論を形成しうるか?
つぎにかかげる質疑応答をそのまま問いとします。
質問として成立すると思うのですが 対話の行方をめぐって第三者の視点をほどこし結論へとみちびいていただきたい。というのが 趣旨です。
主題は デカルトのコギトをめぐってですが 《思考(ないし認識)と存在》といったかたちになるかと思います。
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量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。
不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、
絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面
(仮想)的に有限的存在性を生じる。
観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。
本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が
有なのだ。
無(不確定性無限)の潜在としての認識可能性を含む、
現象表面的な仮説(=自我仮説(記憶(過去)=時間の流れ)
と空間仮説(予測(未来)=空間の広がり)の相補分化)
『何かあるかも知れない』という疑問(われ思う)として
の時空的広がりに対する、『本当は無いんだけどね』とい
う無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)
としての量子(感受表面~超弦)。
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ご回答をありがとうございます。
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量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。
不確定性原理からして、本質的に確定しない事で、
絶対化による無限不確定への発散を回避し、現象表面
(仮想)的に有限的存在性を生じる。
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☆(1) 《量子論的に》と《本質的に》というふたつの概念は 両立しますか?
(2) また同じく 《絶対化》とは何か? おそらくこの概念も 上記の《量子論》と両立しがたいのでは?
(3) 《有限的存在性》は すでにヒトとしてわたしがわたしであるとさとったわたしが その或る種の生物であることの存在をそのまま言い当てた言葉です。何が言いたいかと言えば そのような《わたし――人間――存在》といった自己到来の地点が 出発点に成る。ということです。そのあと 量子論といった世界認識にもおよぶ。こういう順序ではないのですか?
(4) ですからたとえば:
◆ 現象表面(仮想)的に有限的存在性を生じる。
☆ と認識するのは 何ですか? 誰がですか?
(5) その認識の主体(つまりその科学行為)は どこから発生(または派生?)したのですか? 量子の世界より先ですか 後ですか? または 同時ですか?
(6) 《不確定性原理》は 言わばこの・いま見て来ている《わたしなる存在》の中におさまっているもの(こと)ではないのですか?
(7) さらに畳み掛けるようにですが:
◆ 量子論的に有限的存在性は、観察される事で派生する。
☆ と認識するのは 誰ですか? あるいは そう言うよりは そもそもその《観察》という行為をおこなうのは 誰ですか? この観察の主体が 《本質や不確定性原理や》よりも先行しているのではないですか? つまり《わたし》です。
◆ 観察者を排除した外的に独立した存在性は在り得ない。
☆ (8) なるほど。《わたし》を観察者として立てていることは 分かりました。けれども だからと言って その《観察行為をおこなうわたし》の内と外ってどう規定するのですか?
(9) 先ほどは わたしの内に原理がおさまるというようなことを言いました(6)が それはその原理が外には及ばないとは言っていないのですし また内におさまるというのは わたしより先にそして別のものとして原理が運動しているとは見ないほうがよいと言うためでした。
◆ 本質的に無であるとは分からない(あやまつ)事が有なのだ。
☆ (10) これは 分かるようで分からない命題ですね。
それは まづ《本質的に》と言うのが 何を言っているのか定まりません。
(11) 《本質的に無である》 これも定まりません。
(12) おそらく もし先ほどからの《わたしなる存在》について言えば それは――生身のからだで生きるのは 限りある時間であり 心(精神)までも移ろいゆくものだと分かっているのですが そのものの源泉であるかのような《生命》を取り出すなら(類は或る意味で永続していますから) この生命は―― 《有であるか無であるかが分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》といった内容を言っているかに思えます。――これとの対比では どういうことが言えるか? ぜひお聞きしたい。
◆ 『本当は無いんだけどね』という無の射影(四次元ミンコフスキー空間における相殺面)としての量子(感受表面~超弦)。
☆(13) これは推測ですよね? 《射影》がです。
(14) もしそうではなく経験事象として確定しているのなら それはその《無》が どういう内容のものかをさらに説明しなければならないでしょう。《無》と言っているけれど それは経験事象であるとも言ったことになっています。そのことを説明しなければ話は始まりません。
(15) もしこの《無》も 《無であるかどうか分からない。分かるか分からないかが 人間には分からない》というのであれば それは 経験事象ではありません。《非知》です。――というように議論をはこぶのが ふつうの経験合理性だと考えられます。
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