ベストアンサー いい加減な気持ちが神を拝むのである 2015/01/10 13:00 真に神を信じるものは神を拝んだりはしない。 神を全く信じないものも神を拝んだりはしない。 いい加減に神を信じたいな~と願うものが神を拝むのである。 神に祈ったり、神に願ったり、神を拝んだりするのはこのよーないい加減な気持ちの現れに過ぎない。 つまり階層現象表面的定性化(いい加減さ)によって、人は神に祈ったり、神に願ったり、神を拝んだりするのである。 画像を拡大する みんなの回答 (5) 専門家の回答 みんなが選んだベストアンサー ベストアンサー a_hona ベストアンサー率21% (95/444) 2015/01/11 03:13 回答No.3 まあ、何を願い、祈るのかによって、それが崇高なものか低俗なものかに分かれるよね。 形式じゃなくて中身だと。 質問者 お礼 2015/01/12 11:40 そもそも神とは拝むものではありません。 非信非拝非願という言葉があります。 有瑠慶非信非拝非願 アルケーの神は信じるためのものではない、拝むためのものでもない、願うためのものでもない、 アルケーの神は感じることの出来るもの、理解することの出来るものである。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 8 その他の回答 (4) suzumenokox ベストアンサー率15% (35/229) 2015/01/12 03:48 回答No.5 「自力を尽くした後に他力にゆだねる。その最たるものが神なんだろうなぁ。」と思います。 質問者 お礼 2015/01/12 11:36 非信非拝非願という言葉があります。 有瑠慶非信非拝非願 アルケーの神は信じるためのものではない、拝むためのものでもない、願うためのものでもない、 アルケーの神は感じることの出来るもの、理解することの出来るものである。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 1 stmim ベストアンサー率24% (57/236) 2015/01/11 19:50 回答No.4 はっきり言って神様というのはフィクションです。 人間がつくったものです。 しかしながら、神様を信じることによってよりよく生きることができる人もいる。 神様との付き合い方は、ひとそれぞれです。 神様を拝むとか拝まないとかは、その人の自由です。勝手です。 他人がとやかく言う話ではありません。 神様を拝む人をどうこう言うのは大きなお世話です。 質問者 お礼 2015/01/12 11:38 どーやら、みな分かっていないよーだね。 神とは拝むものではありません。 「有瑠慶非信非拝非願」 アルケーの神は信じるためのものではない、拝むためのものでもない、願うためのものでもない、 アルケーの神は感じることの出来るもの、理解することの出来るものである。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 2 titelist1 ベストアンサー率25% (712/2750) 2015/01/10 14:28 回答No.2 >神を全く信じないものも神を拝んだりはしない。 これには同意します。 >いい加減に神を信じたいな~と願うものが神を拝むのである。 これも同意できます。 自分はこの部類だと思っています。 >真に神を信じるものは神を拝んだりはしない。 これには同意しかねます。 普通は真に信じていたら拝んでいます。 真に信じても拝んだりはしないのは、見上げたものです。 拝んでも拝まなくても同じだと悟っていることになります。 しかし、それは信じないで拝まないのとほとんど同じであると思います。 極論すれば天皇も神主も神を拝んでいますが、神を信じていないことになります。 質問者 お礼 2015/01/10 15:19 >>真に神を信じるものは神を拝んだりはしない。 これには同意しかねます。 これは間違い。 神の存在を信じ、その神を全面的に信用しているのであれば、その神に祈ったり、願ったり、拝んだりする必要は全くありません。 何故なら真に神を信じているのであれば、何もせずとも神は答えてくれることを十分知っているからである。 真に神を信じるものは神を拝んだりはしないし、また拝む必要もないのである。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 7 山田 太郎(@f_a_007) ベストアンサー率20% (955/4574) 2015/01/10 13:55 回答No.1 × 人は、そのいい加減さゆえに神に祈り、願い、拝むのである。 〇 ある者は、そのいい加減さゆえに神に祈り、願い、拝むのである。 「(私の知っている)人は、そのいい加減さゆえに神に祈り、願い、拝んでいる。」とは、あくまでも質問者の視点からある特定の人々のある特定の側面を取り出した感想でしかない。それは、その分析と総合のレベルから明らかに単称判断の域を出ていないことは明らか。「人は」という主語の前に「すべての」という言葉をつけても、つけなくても、同じことである。「人は」と言う主語で語られる場合は、以下の述語が「すべての人に共通に見出される事象」でなければならない。つまり、全称判断で語られるべきは本質の判断に限定されるべきである。個人の感想は、いかに「人は」という主語で語っても本質を語ったことにはならない。なぜなら、個人の感想には分析はあれど総合はないからである。付言すれば、総合という手続きを経ていない判断は、所詮は、単称判断にすぎない。個人の感想であれば、「ある者は、そのいい加減さゆえに神に祈り、願い、拝むのである。」と表現すべきである。特に、恣意性が強い感想であれば、なおさらである。 と、主語の使い方が今ひとつシックリときませんね。 質問者 お礼 2015/01/10 15:24 普遍的真理というものはある者に対してのみ成り立つのではなく、すべてのものに対して成り立つのである。 全宇宙的真理とはこのような真理を意味します。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 7 カテゴリ 学問・教育人文・社会科学哲学・倫理・宗教学 関連するQ&A ただの思い違い 無の潜在としての認識可能性において、その不完全性による階層現象表面的定性化(いい加減さ)によって、存在的有限性が生じる時、人間精神は宇宙の法則から自由であるなどと願ったりするが、本質的にはそれはただの幻想にすぎない。 思い違いだよね。 思い違い 無の潜在としての認識可能性において、その不完全性による階層現象表面的定性化(いい加減さ)によって、存在的有限性が生じる時、人間精神は宇宙の法則から自由であるなどと思い違いをするが、本質的にはそれはただの幻想にすぎない。 思い違いだよね。 まず初めに無ありきってことか 「色即是空、空即是色、この世の全ては無であり空である。」 我々が日々見たり、聞いたり、味わったり、感じたりするこの世の諸々の出来事は全て錯覚であり、我々がこれら諸々の出来事を単に階層現象表面的に定性化している、まあ簡単にいえば「いい加減」に認識している結果であり、もともとこの世界は無であり空であるとみなす考え方はいかがなものでしょうか。 天文学のお話。日本ではどのように考えられていた? OKWAVE コラム 神を冒涜する行為 神が想像上のものであるなら、 神を冒涜する行為を、 人間が勝手に想像することは可能だと思います。 が、もし神が実在していたとするなら、 人間が神を冒涜することなど、不可能だと思え るのですが。(神の視点では) それは、人間がどんな悪さをしたとしても、 所詮は、ひとつの自然現象に過ぎないように思 えるからです。 人間以外の動物が何をしようが自然現象に過ぎ ないのと同じだと思うのです。 自然現象には善も悪もないと思います。 人間は勝手に「自然」と「人工」を区別して考え ますが、神の視点に立てば、全てが「自然」に 過ぎないと思うのですが。 人間のみが「自然」に反逆できる存在だと捉え るのは、ある意味、人間の傲慢さの表れのよう に思えるのですが。 神を冒涜する行為について、思うことを教えて 下さい。 神とはなんでしょう? 『自然』や『生命』に『神』を思う人あれば 現象に『運命』や『意志』を感じ『神』を見る人あり 『ラブラスの魔』のごとき『神』を幻想する人もあり 『集合的無意識』の中に『神』を見いだす人もあり 『神』といってもいろいろあります 『神』とはなんでしょう? 有神論の方は『神とは現象に対してどのような存在なのでしょう?』 無神論の方は『人間はなぜ神を幻想してしまうのでしょう?』 という質問として受け取ってください 神は与えられるものではなく、自ら生み出すものである もしも神が人の心の中に宿うものであるなら、それは既成のものとして与えられるものではなく自ら生み出すものである。 この意味においてあらゆる既成の宗教に登場する神、聖書やコーランなどの経典に書かれた神は与えられた神であり、真に人の心に宿う神とは言えないのではないか。 脳内断裂の世界 かつて、あるブータン帰りの人が言うた。 宇宙は存在しない。 無の潜在としての認識可能性において、その不完全性による階層現象 表面的定性化(いい加減さ)によって、存在的有限性が生じる時、 「無いとは分からないことが有」であって、本質的には存在しない。 彼は真理を探求しよーとブータンに行ったが、そこで得られたもんは真理ではのーて脳内神経断裂の世界やった。 ブータンは良質のアヘンを生み出すが、それは真理の探究の道具としては良質ではなかった。 その地にて彼の脳内神経は完全に断裂した。 脳内断裂した彼はその後、ビッグバン、ビッグバンとつぶやくよーになった。 神に抗え 神が人間を作り出したのは、自分を崇拝させるため。 自分の光を強めるため。 そのために我々は苦しみを与えられ無力を感じ、 神様助けてくださいと言わざるを得ない状況に陥れられているのだ。 われわれは神を賛美するための奴隷で良いのか。 何故自分の意思で生きようとしないのか。 自分を崇める者に永遠の命を与え、 崇めない者に不幸を与える。 そんな存在の操り人形で良いのか。 神を超え、新たなる高次元の存在として君臨し、 世界を導くべきは我々ではないか。 神の意志に抗い運命に抵抗すること。 神が人に与えた苦痛、恐怖、絶望を乗り越えるのだ。 それが真の自立であり生き残る手段である。 そのとき人類は新たなる高次元生命体として地上を永久に支配する。 そう思いませんか。 神様とは・・・ 神様とはすごいです。 上手に人間をお造りになったと思ってしまいます。 私は生まれも裕福で、お金にも困ったことがありません。 仕事をしても営業成績はトップです。 別に仕事をがんばったわけでもないです。 むしろいい加減に仕事をしています。 昔からくじ運も強いしお金もよく拾ったりします。 営業を必死でがんばっている人と代わってあげたいくらいです。いやそんな人に対して申し訳なくなってきますし、お金に困っている人などもほっとけなかったりするので助けてあげたり、募金に協力したりしています。 しかし!! 恋愛だけはてんでダメなのです。 神様は上手に人を作ったんだなぁ~と思いました。 私は金運や仕事運などより、愛情運を高めたいです。 恋愛してもいつも一人相撲なので、なんとかならないのでしょうか? 『善の研究』における神の概念 西田幾多郎の『善の研究』の第二編第十章に「実在としての神」という章があります。 この第二編は「真の実在」を規定する部分です。 「実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである」(第二編第二章) 意識現象は、刻々と移りゆくものである。 その意識の根底に不変の統一力(「統一的或者」)が働いている。 この「統一的或者」は、我々の思惟意志の根底にあるもので、同時に、宇宙現象における統一力でもある。 「神」が出てくるのは、そうした流れです。 「この無限なる活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根柢が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である」 さらにこの神は 「この点より見て神は無である」 「ただよく無なるが故に、有ならざる所なく働かざる所がないのである」 という存在でもあります。 西田の「純粋経験」の原理から導き出されたこの「神」の概念が、何度読んでもよく理解できません。 すでにお読みになり、ご理解していらっしゃる方に教えていただければ、と思っております。よろしくお願いいたします。 パン作りの霧吹きの加減 *パン作りの霧吹き* パンを発行させる前に「霧吹き」をしますよね。 あの「霧を吹く」加減がわかりません。 「気持ち程度」なのか 「表面が湿るくらい」なのか 「滴るくらい」なのか 教えてください(^-^* 神様についての疑問 ときとぎ宗教(とくにキリスト教)について疑問に思うのですが a )神は慈悲深いとされていますが、それならどうして人間は神の愛を感じられないのでしょか? b)神はどうしてイエスを最後に人間に語りかけるのをやめたのでしょうか?もう人間に興味がなくなったんでしょうか? c)天国にいくために善行をつむのは偽善なのでは?天国がなかったら その人は善行をつむ必要がないことになります。そんな人が天国にいくことなんておかしい気がしますが。 d)旧約聖書に見られる神の命令による民族浄化(聖絶)についてどうおもわれますか?旧約の時代のように現代に神が命じるとしたら、信者たちはまた同じことをするのでしょうか? d)神はアルファでありオメガであるといっていますが、ではなぜ人間に十戒のように人間に命令する必要があるのでしょうか?神がそのような完全な存在なら人間の行いに影響を受けるのは矛盾している気がするのですが。真に道徳的な存在は他人もそうであることを要求しないと思いますが。 e)神が世界を作ったなら、悪魔も神がつくったことになりませんか? そうでないなら神は世界を作り損ねたのでしょうか? 日本史の転換点?:赤穂浪士、池田屋事件、禁門の変に見る武士の忠義と正義 OKWAVE コラム いい加減な彼に私の気持ちを理解して欲しい 彼の誕生日に食事の約束をしていました。 にもかかわらず、彼は食事をすませてきました。 (友人と済ませたようです。) 私としてはそれならそうと事前にメールででも連絡くれればよかったのに‥と思い、 『いい加減な人』という印象を持ちました。 他にもいろいろ自分のことしか考えないで行動し、フォローもしない人という印象の彼ですが、 彼は私のことを好きだと言うし、まあ私も好きな部分もあるので続いています; お互い忙しく、なかなか会えないのでそこまで気にならないのもあると思います。 さて、もうすぐ私の誕生日なのですが 食事をしようと誘われました。 私は会うなり『食事は済ませてきた』と言ってみようかと思っています。 大人気ないことは十分承知しています。仕返し、という意味合いではなく、 どういう気持ちになるかを理解して欲しいからです。 私の『がっかりするから約束したことは覚えていて欲しいし守って欲しい。 無理なら始めからしないでほしい。』といった要望に、 彼は『好きな気持ちは変わらないんだけど‥。』と的外れなことしか返してきません。 根本的に分からないんだと思います。 彼は私に甘えたいのだ、すべてを許してくれる存在でいて欲しいんだと考えたのですが、 私はそういう関係は望んでいません。対等がいいと思っています。 話をしても分からない彼にはこういう荒療治?しかもう手はないかとも思っています。 本当に稚拙でくだらない質問ですが 彼に対等にみてもらえるのはこれが得策かどうか、 また他の方法があったら是非アドバイスいただきたいです。 地球の神様にされてしまいました 1月に地球の神様にされてしまいました それから3か月間、神様になれ、神様になれとしつこく承諾を求めて来ます 憑依現象も体験しましたもう10回くらい憑依されました 憑依されると口が勝手に喋りだします 地球の神様は神様になる承諾を僕に求めて殺そうとして来ます 心臓発作にもなりかけました もう3か月間こんな状態が続いています、 誰か霊能者の人いませんか? アカシックレコードに接続出来る霊能者の人がいれば僕が置かれている状態が 分かると思うんですが 仕事も満足に出来ない状態が続いてるので大変迷惑してます 神様が人殺しやろうとしてるんだからふざけたもんです 至急アドバイス求めます キリスト教で言う『神は愛なり』について キリスト教では『神は愛なり』と言っていますが、何故そう言えるのか、実感が湧きません。 神が愛であるということが実感できるような具体的な事柄を教えて戴きたいと思います。 人間の罪を購うために、父なる神がその子イエスをこの世に遣わし、イエスが十字架上の死をとげることによって、人間の罪を許したのが、神の愛の証拠だと言われても、信じる人には有難い話かも知れませんが、普通の人間にとっては、全く馬鹿馬鹿しい荒唐無稽の話としか思えません。 もし、神が全能であって、人間の罪を許そうと思うなら、なにもイエスを地上に派遣してイエスを死なせるなどとややこしい小細工をしなくても、いくらでも許せるのではないでしょうか? しかも、この話を信じた者は救われるが、信じない者は救われない、と言うのでは、なおさら、神はえこひいきの神としか思えません。 クリスチャンの方々から見れば、とんでもない、不遜な質問ですが、真面目に悩んでますので、信者さんの信仰告白的な話ではなく、信者でなくても、普通の人間でも神の愛を感じざるを得ないような、具体的な「事実・事柄」を教えて欲しいと思います。 勿論、人によって感じ方の差はあると思いますが、具体的な「事実・事柄」を教えて戴ければ、それを神の愛の表れだと感じられるような人間になれれば幸せだと思っています。 幽霊や神様ってホントはどうなのでしょうか? 幽霊とか神様って本当にいるのでしょうか? ラジオのチャンネルのように、周波数みたいなものがあうと、チャンネルが合う人たちは同じようなものを見たり聞いたりできるようですが!? それって・・・ 最近は右脳についてとりだたされていますが、もともと持っている右脳の影響であって、霊とか神様は人間の作り出したものって気がします。 僕は霊や神様を見たいと思いますがいっこうにあらわれてくれません。 でも、見たくないって人には現れます。 霊や神様が単体で意思をもっているのなら、なぜ僕の前にあらわれないのでしょうか? やはり・・・ 見たくないって人の深層心理が生み出した現象なんじゃないのかなって思ってますが、みなさんのご意見お聞かせください。 夫に浮気をされて、いつまでも信じられない気持ちや疑いを持つ気持ちがある 夫に浮気をされて、いつまでも信じられない気持ちや疑いを持つ気持ちがある人は 逆を言えば離婚せず円満に暮らしたいという現れですか? 私は神ですか?しかし、人間は神ではない。 馬鹿で、非常識で、アホで、間抜けで、有り得ない・・・そんな質問ですよね?これって。 常識的に言って、1人1人は、生きては死ぬだけの、ただの生物であり、 ただの人間ですよね。 だから、ぶっちゃけ、1人が例え、死のうが、地球上には60億人、日本には1億人もの大勢の人がいるのですから、1人が死んでも、別にどってことないわけです。そりゃ、悲しむ人もいたりしますが。 だから、1人がどんなに頑張ろうとも、政治家になって、総理大臣にでもならない限り、どこぞの社長にでもならない限り、日本や世界へ多大なる影響を与えることは無理なわけです。 その上で、とあるブログをまた発見しました。 また、というのは、一度検索して発見していたブログだからです。 そこには、創造主が貴方、とあります。 つまり、創造主=神は貴方、という意味だと思います。 しかし、常識的に言って、私だって、他人だって、ただの人間であり、神ではありません。 神とは?そりゃ、すごい人で、なんだってできる存在ですよね? つまり、私は神ではないということです。 また、他人だって、神ではないということです。 これらは、常識であり、ほぼ100%合っていると断言できます。 この意見に反対する人達は、ただの馬鹿な、非常識な人々でしょう。 キリスト教など、宗教知りませんが、彼らだって、神=偉大な存在だと捉えていて、人間は神ではないとしています。 以下、引用します。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー http://www.vcafe.jp/harukanaima/blog/entry-16343 神はサイコロで遊びたかった 2013年02月20日 23:35 カテゴリ : 基本的な理解の整理 「神は創造主なので、当然、「確率」というサイコロを創造できました。 そしてサイコロで遊べる世界、「確率の世界」も創造できました。 さらに神の壮大なところは、確率の世界をもっと楽しめるように、 神であることを忘れた自分までをも創ったことです。 「地球次元」、あるいは「人間」という体験は、こうして創造されました。 『創造主であることを忘れた創造主』、それがあなたです。 あなたは神、創造主の一つの視点を担っている存在です。 あなたは本来、無限に広大な存在です。 ですが、いまそれを忘れているのは「神の計画」によるものなのです。 「自分をもっと体験したい」という神の衝動によって、 自分が神であることを忘れたあなたが創られたのです。 すべてを忘れれば、すべてのものが初めて触れるものになります。 すべての体験が新鮮なまま、深く、詳細に味わえます。 神であることを、創造を、深く体験するためには、 神を、創造を、新鮮な驚きをもって深くつぶさに味わうためには、 神である自分を忘れる=「神ではない自分」、 創造を忘れる=「創造できない」 という体験が必要になります。 その体験をより強烈なものにしてくれるツールが、 「確率」という機能だったのです。 確率に翻弄されれば、 自らが創造主であることなど想像すらできなくなります。 確率に翻弄されるなど、 もっとも創造主らしからぬ振る舞いです。 どんなものでも思いのままに創造できる創造主にとって、 これほど楽しめる体験は他にありません。 神の計画ですから、当然、完璧に成功しました。 あなたは自らの無限の広大さを完全に忘れ、 「確率」というシステムは完璧に作動し、 確率に振り回される世界とあなたが完璧に創造されました。 あなたは神の計画に見事に協力してきたのです。 神は『「確率」という体験』を創造しましたが、 神自身は確率に振り回されることはありません。 なぜなら、 創造主は自分の創造したものに支配されることはできないからです。 「確率」は、創造主である神の計画によって、 その計画の通りに寸分違わず創造されたものです。 『神はサイコロを振らない(アインシュタインの言葉)』のです。 しかしながら、この地球次元の体験から確率性が排除できないのは、 単にそのようにデザインされているからです。 そもそも「位置(”ここ”、”そこ”)」や 「運動(”ここ”から”そこ”への移行)」 「時間("このとき”、”そのとき”)」という、 二元性の世界に特有の相対的な現象自体が、創造された幻想なのです。 (さらに言えば、 「現象」という概念も、また「概念」も相対的な性質のものですが。) そして、 それらの現象の現われ方にも様々なバリエーションがあるので、 地球次元的な「位置」や「運動」、「時間」の実現のために、 「確率」という機能をこの次元に組み込んでいるのです。 すべては、『自分が創造主であることを忘れる』という体験を 可能にするためのデザインなのです。 『自分が創造主であることを忘れる』という体験の次元においてのみ、 「確率」が効果を発揮する、 『量子の不確定性(「不確定性原理」:量子物理学上の理論)』 という体験が可能となります。 ですから、 『量子の不確定性』も『神はサイコロを振らない』も、矛盾し合う概念ではなく、 それぞれ 『「確率」がその効果を発揮する次元』と『「確率」を創造した次元』 を説明しているのであり、 それぞれが認識している次元、解明しようとしている次元が 異なるだけなのです。 つまり、 どちらの考え方も成立する、言わば”正しい”ということです。」 神がいると信じる人がいるのは何故か? 神がいると信じる人がいるのは何故か? いないと思う理由↓ 私は無神論者ですが、その理由は神がいたとしたら、人間、動物には苦痛はなく、幸せしかないはずです。しかし私たちには苦痛があります。つまり絶対的な神はいない。 たとえいたとしても、役立たず↓ 毎日神にたいしてお祈りをしても、道路に飛び出せば確実に轢かれます。つまり神は、信じる者、信じない者の、どちらにも平等です。つまり信じようが信じまいが結果が同じ。 上記の事実を知らない人間はいません。(知らない人は宗教すら知らない白知の人です。) にも関わらず人は神を信じます。 何故でしょうか? 私は、理論的に考える瞬間があれば「神がいる」という考えは絶対に起こらないと思うのですが。。。 強迫観念があって、「神がいない」という考えに対して思考をやめてしまうのでしょうか。 メサイアコンプレックスとか、トラウマとか、精神的な欠落以外で神を信じている人はいるのでしょうか。 (宗教があった方が都合がいいとか、いると思った方が神秘的で気持ちがいいからと思っている様な完全には信じてない人は除きます。) 現在でも形而下に置けない「神」という存在について いわゆる人格をもった神と汎神論的な神が在られますが、 人格的神とは、人格を持たない(人に似ない)神においての化身、顕現なのでしょうか。 それとも、有格的な神こそが唯一なのでしょうか。 人格を持ちうるなら、真の実在、一者という観念と相克するのではないでしょうか。 またさらに、何らかの形や性質,分別を持ち得るなら、 我々が後天的に分別、自我を得るように、それらは事実であるとしても 本来的に真実的なものでは無いのではないのでしょうか(?)。 実証以前の論説ですが皆さんのお考えをお聞かせください。 (しかしこれは、ほとんど暴論かもしれません。) 注目のQ&A 「You」や「I」が入った曲といえば? Part2 結婚について考えていない大学生の彼氏について 関東の方に聞きたいです 大阪万博について 駅の清涼飲料水自販機 不倫の慰謝料の請求について 新型コロナウイルスがもたらした功績について教えて 旧姓を使う理由。 回復メディアの保存方法 好きな人を諦める方法 小諸市(長野県)在住でスキーやスノボをする方の用具 カテゴリ 学問・教育 人文・社会科学 考古学・人類学文学・古典歴史経済学・経営学心理学・社会学地理学美術音楽哲学・倫理・宗教学その他(人文・社会科学) カテゴリ一覧を見る OKWAVE コラム 突然のトラブル?プリンター・メール・LINE編 携帯料金を賢く見直す!格安SIMと端末選びのポイントは? 友達って必要?友情って何だろう 大震災時の現実とは?私たちができる備え 「結婚相談所は恥ずかしい」は時代遅れ!負け組の誤解と出会いの掴み方 あなたにピッタリな商品が見つかる! OKWAVE セレクト コスメ化粧品 化粧水・クレンジングなど 健康食品・サプリ コンブチャなど バス用品 入浴剤・アミノ酸シャンプーなど スマホアプリ マッチングアプリなど ヘアケア 白髪染めヘアカラーなど インターネット回線 プロバイダ、光回線など
お礼
そもそも神とは拝むものではありません。 非信非拝非願という言葉があります。 有瑠慶非信非拝非願 アルケーの神は信じるためのものではない、拝むためのものでもない、願うためのものでもない、 アルケーの神は感じることの出来るもの、理解することの出来るものである。