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いい加減な気持ちが神を拝むのである
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まあ、何を願い、祈るのかによって、それが崇高なものか低俗なものかに分かれるよね。 形式じゃなくて中身だと。
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- suzumenokox
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「自力を尽くした後に他力にゆだねる。その最たるものが神なんだろうなぁ。」と思います。
お礼
非信非拝非願という言葉があります。 有瑠慶非信非拝非願 アルケーの神は信じるためのものではない、拝むためのものでもない、願うためのものでもない、 アルケーの神は感じることの出来るもの、理解することの出来るものである。
- stmim
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はっきり言って神様というのはフィクションです。 人間がつくったものです。 しかしながら、神様を信じることによってよりよく生きることができる人もいる。 神様との付き合い方は、ひとそれぞれです。 神様を拝むとか拝まないとかは、その人の自由です。勝手です。 他人がとやかく言う話ではありません。 神様を拝む人をどうこう言うのは大きなお世話です。
お礼
どーやら、みな分かっていないよーだね。 神とは拝むものではありません。 「有瑠慶非信非拝非願」 アルケーの神は信じるためのものではない、拝むためのものでもない、願うためのものでもない、 アルケーの神は感じることの出来るもの、理解することの出来るものである。
- titelist1
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>神を全く信じないものも神を拝んだりはしない。 これには同意します。 >いい加減に神を信じたいな~と願うものが神を拝むのである。 これも同意できます。 自分はこの部類だと思っています。 >真に神を信じるものは神を拝んだりはしない。 これには同意しかねます。 普通は真に信じていたら拝んでいます。 真に信じても拝んだりはしないのは、見上げたものです。 拝んでも拝まなくても同じだと悟っていることになります。 しかし、それは信じないで拝まないのとほとんど同じであると思います。 極論すれば天皇も神主も神を拝んでいますが、神を信じていないことになります。
お礼
>>真に神を信じるものは神を拝んだりはしない。 これには同意しかねます。 これは間違い。 神の存在を信じ、その神を全面的に信用しているのであれば、その神に祈ったり、願ったり、拝んだりする必要は全くありません。 何故なら真に神を信じているのであれば、何もせずとも神は答えてくれることを十分知っているからである。 真に神を信じるものは神を拝んだりはしないし、また拝む必要もないのである。
- 山田 太郎(@f_a_007)
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× 人は、そのいい加減さゆえに神に祈り、願い、拝むのである。 〇 ある者は、そのいい加減さゆえに神に祈り、願い、拝むのである。 「(私の知っている)人は、そのいい加減さゆえに神に祈り、願い、拝んでいる。」とは、あくまでも質問者の視点からある特定の人々のある特定の側面を取り出した感想でしかない。それは、その分析と総合のレベルから明らかに単称判断の域を出ていないことは明らか。「人は」という主語の前に「すべての」という言葉をつけても、つけなくても、同じことである。「人は」と言う主語で語られる場合は、以下の述語が「すべての人に共通に見出される事象」でなければならない。つまり、全称判断で語られるべきは本質の判断に限定されるべきである。個人の感想は、いかに「人は」という主語で語っても本質を語ったことにはならない。なぜなら、個人の感想には分析はあれど総合はないからである。付言すれば、総合という手続きを経ていない判断は、所詮は、単称判断にすぎない。個人の感想であれば、「ある者は、そのいい加減さゆえに神に祈り、願い、拝むのである。」と表現すべきである。特に、恣意性が強い感想であれば、なおさらである。 と、主語の使い方が今ひとつシックリときませんね。
お礼
普遍的真理というものはある者に対してのみ成り立つのではなく、すべてのものに対して成り立つのである。 全宇宙的真理とはこのような真理を意味します。
お礼
そもそも神とは拝むものではありません。 非信非拝非願という言葉があります。 有瑠慶非信非拝非願 アルケーの神は信じるためのものではない、拝むためのものでもない、願うためのものでもない、 アルケーの神は感じることの出来るもの、理解することの出来るものである。