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徳川慶喜公。将軍退位後の地位、敬称。
江戸城開城までは一応、幕府の組織は存続していたと思います。 そして慶喜公は、将軍退位後も幕府においては最高権力者と思うのですが、幕府や朝廷は慶喜公を何と呼んでいたのですか。 例えば一橋大納言とか。 よろしくお願いします。
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征夷大将軍の辞任を申し出たのは,慶応3年(1867年)10月24日で,同じ年の12月9日の王政復古の大号令でそれが勅許されました。江戸城が開城したのはその翌年のことですから,それ以前に幕府はなくなり徳川慶喜は将軍ではありませんでした。 > 将軍退位後も幕府においては最高権力者と思うのですが 将軍退位後は幕府の組織は存続していたとしても幕府は存在しません。朝廷の官職としての内大臣はそのままでしたが,これも慶応3年12月9日の小御所会議で内大臣辞職と徳川家領の奉納がきまり,鳥羽・伏見の戦いにもつれ込みます。この時点では徳川宗家の家督権者で,(旧)幕臣にとっては上様,朝廷にとっては朝敵の単なる徳川慶喜です。戊辰戦争中の慶応4年(1868年)閏4月29日に徳川宗家の家督を譲ったので,これ以後は単なる徳川慶喜です。 なお,明治35年(1902年)には公爵に叙せられ,徳川慶喜家を興しました。
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- cactus48
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徳川慶喜は大政奉還後から明治維新になり、明治2年には隠居手当てを 元手に写真、猟、投網、囲碁、歌謡等の趣味に没頭していたと言われて います。その後明治34年に従一位勲一等公爵の称号を得て、貴族院の 議員を務められたとの記述があります。
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ご回答ありがとうございます。 公爵の称号を得てからは「公爵」と呼ばれたのでしょう。
- あずき なな(@azuki-7)
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公爵じゃないでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございます。 公爵を授けられてからは「公爵」と呼ばれたのでしょうね。
- oska2
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>江戸城開城までは一応、幕府の組織は存続していたと思います。 形式的には、存在していましたね。 大政奉還時点でも、政権を朝廷に返しただけで幕府組織は残っていました。 そもそも、征夷大将軍職は朝廷側官位の一つに過ぎません。 >将軍退位後も幕府においては最高権力者と思うのですが、幕府や朝廷は慶喜公を何と呼んでいたのですか。 幕府側関係者は、一橋さま・上様・公方さま・慶喜公です。 急進派朝廷側関係者は、慶喜です。 穏健派朝廷側関係者は、徳川殿・慶喜殿です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 人それぞれ、立場によって呼び方も変わって当然ですね。 南百年も昔の藩主の子孫を今でも「殿様」と呼んでいる集まりを思い出しました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「上様」以上の敬称はないですね。 鉄舟と西郷の会談、勝と西郷の会談では、「上様」と「慶喜」が飛び交っていたのでしょう。