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「若公家衆法度」とは?

思いつきでなんでも質問して恐縮ですが、wiki「禁中並公家諸法度」の説明の中に 「寛永8年11月17日(1632年1月8日)には、後水尾上皇の主導で、青年公家の風紀の粛正と朝廷行事の復興の促進を目的とする「若公家衆法度」が制定された。」とあります。 「朝廷行事の復興の促進」とありますが、どんな行事を復興させねばならなかったのですか、教えてください。 よろしくお願いします。

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  • fumkum
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回答No.3

NO2の回答について追記と訂正をしたいと思います。 和歌の古今伝授を突然持ち出したので、びっくりされたことだろうと思います。当時、古今伝授を受けることは、現在で言えば、文化勲章を授章し、学士院院長と芸術院院長を兼ねたような権威を持ったようなものです。当時の公家社会の学芸の中心は和歌ですので、和歌を第一に、多様な文芸の発展を促進し、公家文化の復興を果たすことになります。その中心に後水尾天皇上皇が存在し、京都の町衆と文化的な交流を通じて公家文化が町衆に享受され、さらに町衆を通じて武士にも流れ、京都・江戸の二つの中心を持つ寛永文化が花開くことになります。 後水尾天皇の事績をまとめると、公家社会の文芸復興の中心であり、親政・院政を通じて幕藩体制の枠組みの中での天皇・朝廷の秩序を形成・確立することだったとすることもできます。『若公家之御法度』に上げる、学問稽古と、行動禁止項目は、後水尾上皇の生涯追究した内容ということにもなります。 付言すれば、後水尾天皇を中心に復興された公家(宮廷)文化は、町衆、武士と享受されるわけですが、それが逆に雅なる公家(宮廷)文化への憧れを生み、天皇・公家は文化的な権威を江戸時代を通じて持つことになります。さらに江戸時代を超えて、現代でも三島由紀夫の「文化概念としての天皇」像に繋がっていきます。 *寛永文化は、元禄、化政文化に比して、認知度が低いですが、現在の高校の日本史の教科書でも、寛永期の文化、寛永文化として取り上げられています。 寛永文化 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E6%96%87%E5%8C%96 NO2の部分で説明を省略した部分があり、わかりづらい面があったことと思います。上記のように細くさせて戴きました。また、NO2の文末で、定理という単語を用いましたが、定説の方が適切ですので訂正させていただきたいと思います。 では、駕籠で。

kouki-koureisya
質問者

お礼

追加のご回答ありがとうございます。 「寛永文化」という用語は初めて聞きました。 大変参考になりました。 >付言すれば、後水尾天皇を中心に復興された公家(宮廷)文化は、町衆、武士と享受されるわけですが、それが逆に雅なる公家(宮廷)文化への憧れを生み、天皇・公家は文化的な権威を江戸時代を通じて持つことになります。 >さらに江戸時代を超えて、現代でも三島由紀夫の「文化概念としての天皇」像に繋がっていきます。 天皇・公家が、江戸時代を通じて、文化的な権威としての立場を貫いていけたこと、よく分かりました。 「定説」が適切であること、分かりました。

その他の回答 (2)

  • fumkum
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回答No.2

こんにちは 追記になりますが。 「寛永8年11月17日(1632年1月8日)には、後水尾上皇の主導で、青年公家の風紀の粛正と朝廷行事の復興の促進を目的とする「若公家衆法度」が制定された。」の部分ですが、11月発布の法度は、幕府により出されたもので、後水尾上皇の主導の「若公家之御法度」は、同じ寛永8年ですが、2月の発布です。幕府法度の第一条は、「師匠を相定め学問あるべき事」として、学問を修めることを公家に命じており、その後に行ないについての禁止事項があるという形です。 古今伝授についてですが、室町時代中期の宗祇から連綿と続いた(主に三条西家)伝授は、細川幽斉から八条宮智仁親王に伝授され、後水尾天皇に伝えられます。この後後水尾天皇から歴代の天皇への伝授の道筋が始まり、この伝授の流れを御所伝授と言います。さらに後水尾天皇は門跡・公家にも古今伝授を行ない、歌道の面では宗家・家元的な立場にあったと言えます。 後水尾上皇の院政については、当初幕府は反対であったのですが、寛永11年の徳川家光上洛を契機に、院政を認めたとされます。しかし、近年では割と早い時期から院政を認めていたとする考え方が出てきており、「若公家之御法度」なども、後水尾上皇の院政についての実態解明に示唆を与えるものだろうと思います。なお、律令体系からするとおかしなことですが、中世以来、院政が理想的な姿だとする公家社会の考え方があり、院政への復帰を盛儀ととする考え方があります。 繰返しになりますが、天皇、上皇、朝廷、幕府共に、公家に対して学問・家業への精励と、公家らしい行動を求める、強制する姿勢を一貫して取っており、公家の行動を統制し、朝廷秩序を形成して行くことが、この時代の朝廷社会に求められた課題とも言うべきものだった、つまり幕藩体制の中での朝廷社会の形成の過程だったと思います。 幕府と天皇・朝廷は対立関係にあったとされますが、そのような関係だけでなく、共通の課題に取り組み合う面もあったということです。 歴史学の手法は帰納法的で、多くは小さな事実を拾い上げ、そこに共通するものを見つけ出していく手法がとられます。幕府と天皇・朝廷は対立関係にあったとだけ見て行くと、現実と会わない面が出てきてしまいます。そのような時には、本当は小さな事実を積み上げて、新たな共通項を探し出す手法に戻っていくものです。演繹法的に大きい定理を置いて、歴史とは○○だとしてしまうと、事実と合わない面が出てくることがあります。歴史に限りませんが、定理は事実により否定され、事実により新たな定理に取って代わられます。近年発掘による新たな遺物の出土、書状等の文字資料などの発見によるだけでなく、従来の史料の解釈の変化などの事実により、歴史の変更が続いています。教科書のようなものは、定理により巨視的に歴史を見ていくことが、その性格上重要であると思います。しかし、それだけでない歴史の捉え方もあるのだと思うのですが。そのような面で、「思いつきでなんでも質問して恐縮ですが」とありますが、興味関心のなる事柄を知ろうとすることは大事なことだと思います。その尻尾について勉強させていただいて、自分なりの発見があり、感動があることに感謝しています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

思いつきの質問に、こんなに詳しく丁寧に回答してくださって真にありがとうございます。 >天皇も上皇も朝廷も、そして幕府も共に、公家に対して学問・家業への精励と、公家らしい行動を求める、強制する姿勢を一貫して取っており、公家の行動を統制し、朝廷秩序を形成して行くことが、この時代の朝廷社会に求められた課題とも言うべきものだった、つまり幕藩体制の中での朝廷社会の形成の過程だったと思います。 >幕府と天皇・朝廷は対立関係にあったとされますが、そのような関係だけでなく、共通の課題に取り組み合う面もあったということです。 ここが重要ですね。 よく解りました。 後水尾天皇の「院政」「古今伝授」「御所伝授」については分からない箇所が多いですが、これらは追々自分で調べてみます。 ここまで書き終えたところで#3のご回答を受けました。 #3のご回答は、後でゆっくり読ませていただきます。

  • fumkum
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回答No.1

こんにちは 戦国時代の公家には将軍(後に信長にも)昵近衆という存在があり、将軍に扈従する公家がありました。また、それと多く重なる公家で、陣参の公家(陣参衆)という存在もあり、実際に戦闘に参加することは少ないとはいえ、将軍(信長にも)に従がって従者を率いて従軍する公家も存在しました。日野、飛鳥井などの公家で、将軍から直接扶持を得たり、地頭と任じられ、御家人としての面も持った公家であり、代々昵近衆、陣参衆となる者も多くありました。戦国時代はこのような陣参衆だけでなく、多くの公家が京都を離れ、地方に流寓し、土佐一条氏、伊勢北畠氏、飛騨姉小路氏などの様に戦国大名かした公家もあり、さらに大内義隆の滅亡(陶隆房-晴賢-の乱・大寧寺の変)に際して巻き込まれて殺害された関白二条尹房など戦国の荒波は公家をも巻き込んでいました。その中で、公家であっても武士と同じように武芸に励み、武装する者もありました。また、多くの公家は家領を奪われ、零落した者も多く存在しました。 江戸時代に入っても、旗本奴達と同じで、戦国の遺風が残る中、公家にも「歌舞伎者」が存在し、大脇差をさして、異風な姿形で出歩き、夜な夜な町中を徘徊する公家のイメージとかけ離れた公家が存在し、公家社会では問題化します。問題は、上記のような行動だけにあるのではなく、公家の貧窮化により*公家の家職として伝えられてきた学問・技芸が、存続の危機にさらされたことにもありました。 そのため、豊臣時代にも「諸公家、諸門跡家々の道を嗜まれ、公儀御奉公を専らにせらるるべき事」との掟も定められ、江戸幕府成立後の『公家衆法度』でも次のような条文があります。 1、公家衆家々の学問、昼夜油断なきよう仰せ付けらるべき事 2、老若によらず行儀法度を背くの輩はきっと流罪に処すべし 3、略 4、夜昼とも指(さ)したる用なき所、町小路徘徊、堅く停止の事 5、略 この『公家衆法度』の発展として、『禁中並公家諸法度』が成立する訳です。つまり、公家関係の法度・掟は、公家に公家らしい行動と、家業への精進を求める一貫した姿勢があります。 *公家の家職として伝えられてきた学問・技芸=例えば、冷泉家の和歌(歌道)、西園寺家の枇杷、三条西家の香道など。 さて、『若公家之御法度』では、禁止事項として、「集団での寺社参詣、芝居見物(慶長17年の公家関係の年表に芝居見物の記述があります)、鞍太鼓の稽古、鉄砲の稽古、兵法の稽古、相撲見物、三線、遊戯、過差好み、馬・鷹の飼育、銭湯風呂、歯白」を具体的に挙げ、最後に「学問稽古の事」で締め括っています。「青年公家の風紀の粛正と朝廷行事の復興の促進を目的とする」の部分は、Wikiに『禁中並公家諸法度』の記述の事だろうと思いますが、『若公家之御法度』の条文自体は、「青年公家の風紀の粛正と家業・学問の復興の促進を目的」としていると考えた方が良いのだろうと思います。 ただ、学問の内容ですが、後水尾上皇の天皇在位時に、和歌・書道・音楽・連歌・有識・儒学・連句・詩文などを学ぶ「禁中御学問講」が実施され、一時は公家全体に参加するようになっています。また、『若公家之御法度』が発布された寛永8年4月には、「若衆稽古御会」と呼ばれる和歌会が開催され、翌年には40歳以下の公家が参加を強制されるようになり、欠席理由を調査されるなどになります。 さらに、寛永11年には家業の修養、精進、和歌以外の学問の学習が求められ、有職故実、歴史書、古典文学の読書、学問が奨励されるようになります。このように公家としての広い教養のもとに、家職に精励することが求められる一方、学問の精励を含め公家らしい行動が若い公家に求められたものが『若公家之御法度』であると思います。まt、『若公家之御法度』の発布は、『公家衆法度』『禁中並公家諸法度』などの公家に関する法度、掟などに底通する考え方に基づく内容でもあります。 以上、参考まで。 ところで、先日まで「駕籠」についての質問が存在していたように思うのですが、取り消されたのでしょうか。一応、町人・商人・村役などの(自家用の)乗物や駕籠として残されている駕籠は、法仙寺(宝仙寺・法泉寺)駕籠と呼ばれる種類の駕籠だと思われます。この法仙寺駕籠は、東京の中野にある宝仙寺の僧侶が使ったので名付けられたとも言われる駕籠で、下級の武士、豪商、医師などが用いたとされ、百姓、町人で用いることのできる最上の駕籠とされています。以下の写真が法仙寺駕籠です。 http://ks.c.yimg.jp/res/chie-ans-152/152/721/440/i320 http://homepage2.nifty.com/RYUUGEno66/ 駕籠に関する他の質問についても資料を集めたのですが、結論が出ない項目があって、文章化が進まないのですが、連休明けまで待っていただければ、このページに追記ができるのではないかと思います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

丁寧なご回答真にありがとうございます。 戦国時代の公家の実態から教えてくださったので、とても理解しやすかったです。 戦国時代の公家は、いったいどうして暮らしていたのだろうと思っていました。 「多くの公家が京都を離れ、地方に流寓し、土佐一条氏、伊勢北畠氏、飛騨姉小路氏などの様に戦国大名かした公家もあり、(略)」というようなことは、教科書には出てきませんので、よく分かりました。 そして、江戸時代に入っても、「歌舞伎者」の公家がいたのですね。 さらに、「公家の貧窮化により公家の家職として伝えられてきた学問・技芸が、存続の危機にさらされたことにもありました。」ということ、ここが重要だと思いました。 >…『若公家之御法度』の条文自体は、「青年公家の風紀の粛正と家業・学問の復興の促進を目的」としていると考えた方が良いのだろうと思います。 家業・学問の復興ということですね、よく解りました。 禁止事項の最後に“歯白”とあるのですが、これは“お歯黒せよ”の意味でしょうか。 Wikiで調べて見ますと、江戸期、皇族・貴族も“お歯黒”していたそうで、女性だけではないことに驚きです。 そういえば、明治天皇も幼少の頃、化粧してお歯黒だったのではないか、と思います。 後水尾上皇についても調べてみました。 幕府の干渉と圧迫(女帝への譲位、紫衣事件、春日局参内など)がいっぱいあったのですね。 修学院離宮も造営されたのですね。 上皇を取り巻く情勢に想いを巡らすと、造営したいという上皇の気持ちが少しは分かってきました。 歴史を大いに楽しむことができました。 ご教示に感謝申し上げます。

kouki-koureisya
質問者

補足

駕籠に関する質問を早々と取り下げてしまって真に申し訳ありません。 再度、質問しますのでよろしくお願いします。