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寛容(不寛容)
こんばんは。 神と、仏。 いずれが寛容で、いずれが不寛容でしょうか? それは相対的な問題でしょうか? それとも、このような問いが可笑しいでしょうか?
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「自分は全知全能だ」「信じろ」と言いながら、世界を 詳しく見ていくと物理法則に従った機械的なメカニズム しか見えてこない。 神や仏を信じるに値する「奇跡」など見当たらないのに、 「信じろ」と言うのは、とても不親切でわがままだ。
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- ks5518
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>まあ、おそらく「自分に対して(神や仏と、自分)」を基本に考えて、神や仏であれば、不平等な扱いなど無いだろうから、ということではないでしょうか。 えっ、、、この質問は、質問者様の自説ではないのですか? 誰かの問いに対するものなのでしょうか? >「自分に対して(神や仏と、自分)」を基本に考えて、神や仏であれば、不平等な扱いなど無いだろうから、 神や仏というものは、何かに対して賞罰を与えるというものではありません。 この賞罰については、何種類かあるのですが、たて分けて考えるべきです。 それは、働きが違うからです。 【仏】 仏性とは、そもそも衆生(人間)の生命の中に内在するものです。衆生(人間)の生命には、『十界互具』といって“地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏”といった十の境界が内在され、更にそれぞれの境界に十種を内在し100界となります。それらの境界の状態は滅するものではなく常に存在していて、何かの縁にふれ瞬間瞬間の生命の上に現れてくるものなのです。 『仏』というものは常に衆生とともに生きて、その衆生(人間)に対し“法”を説き、仏の境涯へと導く働きをします。 【神】 神というものは、衆生の思想に応じて、善神にもなり悪鬼にもなります。 この善神・悪鬼の働きは、大きくは自然界の働きを左右します。
お礼
ks5518様、ご回答ありがとうございます。 >「えっ、、、この質問は、質問者様の自説ではないのですか? 誰かの問いに対するものなのでしょうか?」 より、一般的?に(B様の表現をお借りすると)「より広く問い求めます」?というようなことで、ご質問しております。 (今回(も))ご回答者の皆さまのご回答に感謝しております。 >「神や仏というものは、何かに対して賞罰を与えるというものではありません。 この賞罰については、何種類かあるのですが、たて分けて考えるべきです。 それは、働きが違うからです。 【仏】 仏性とは、そもそも衆生(人間)の生命の中に内在するものです。衆生(人間)の生命には、『十界互具』といって“地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏”といった十の境界が内在され、更にそれぞれの境界に十種を内在し100界となります。それらの境界の状態は滅するものではなく常に存在していて、何かの縁にふれ瞬間瞬間の生命の上に現れてくるものなのです。 『仏』というものは常に衆生とともに生きて、その衆生(人間)に対し“法”を説き、仏の境涯へと導く働きをします。 【神】 神というものは、衆生の思想に応じて、善神にもなり悪鬼にもなります。 この善神・悪鬼の働きは、大きくは自然界の働きを左右します。」 ks5518様との、これまでのやりとりから、もしかすると、どちらかと言えば仏教を重視される方ではないか、と思っておりました。 そうしたご回答者個々、もしくはより広く一般に「信仰」というご回答でも構いませんが、そうしたものについて、小生が(事、細かに分け入って)ご意見などを申し上げることは、まさに「筋違い」ということであるように思います。
- ks5518
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>いずれが寛容で、いずれが不寛容でしょうか? どういった意味でしょう?? というのも、働きも違い、存在的内容がまるで違うからです。 しかしながら、関連性はあります。 何に対して寛容で、何に対して不寛容なのかが特定できないと回答のしようがありません。 もし、回答している方がおりましたなら、神や仏を超越している方ですね。(笑い)
お礼
ks5518様、ご回答ありがとうございます。 >「何に対して寛容で、何に対して不寛容なのかが特定できないと回答のしようがありません。」 まあ、おそらく「自分に対して(神や仏と、自分)」を基本に考えて、神や仏であれば、不平等な扱いなど無いだろうから、ということではないでしょうか。
- Mokuzo100nenn
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>それとも、このような問いが可笑しいでしょうか? 「可笑しい」(=面白い)ではなくて、「筋違い」です。 神と仏を天秤にかけてはいけません。
お礼
Mokuzo100nenn様、ご回答ありがとうございます。 orz 小生、「ゴミ」呼ばわりされるのも(幼少時の「みそっかす」扱いの経験からか) 平静であるように努めなければなりませんが、 「筋違い」、これもなかなか、逆に「スジがいいねえ」と言われるようなことが皆無なだけに、的を射られたような感じがして、かえって清々しい、というように思うより他に、ありません。 >「神と仏を天秤にかけてはいけません。」 そうなんですねえ。 本質問へのご回答から、「神とは、自然の厳しさか」という見方を知りました。 (してみると、「神も仏もない」というような表現は、 「人間の理想の在り方を示したところの仏という存在は、実在しなくてもしょうがない」に比べ、「「自然の掟」たる「神」は否定しようがない」という理解により、、、「神が厳しいのは判った。仏は・・・理想論か(嗚呼)」という解釈になるかと思います。)
- hikaricom
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まず、言葉は定義しないとなりません。 神とは神であり、仏は人です。 神とは?個々の内にある永遠とか無限と言う概念。それが神です。 というと様々な宗教が唱える神の様子とかけ離れているでしょうか。 しかし、神とは無限であり、永遠の概念であり、且つそれが神という存在なのです。 永遠とか無限といった概念が存在しないと、人の思考はパンクしてしまいます。分からない、計り知れないものに対して何一つ考えることが出来ないでしょう。 宇宙といった広大な空間をまず捉えるなら、人はやはり未知なるもの、或いは空(くう)、又は無限の概念としてその宇宙を捉えるでしょう。 そこから、既知のものから推測し、更に観察をしより具体的な結論を導き出していく訳です。 さて、「仏」とは悟りを得た人の呼称です。 あなたのご質問は、「神」と「仏」とを比較してという前提ですが、そもそもこの前提に誤りがあるかもしれません。 神とは、概念ですが、仏は人です。 どちらが寛容か?どちらが不寛容か? 悟った人でも、腹を立てることはあるかも知れません。「仏の顔も三度まで」とはよくいったものですね(笑)
お礼
hikaricom様、ご回答ありがとうございます。 >「まず、言葉は定義しないとなりません。 神とは神であり、仏は人です。」 ありがとうございます。Ano.2様の「自然の掟」という捉え方が、小生には参考になっております。 >「神とは?個々の内にある永遠とか無限と言う概念。それが神です。 というと様々な宗教が唱える神の様子とかけ離れているでしょうか。 しかし、神とは無限であり、永遠の概念であり、且つそれが神という存在なのです。 永遠とか無限といった概念が存在しないと、人の思考はパンクしてしまいます。分からない、計り知れないものに対して何一つ考えることが出来ないでしょう。 宇宙といった広大な空間をまず捉えるなら、人はやはり未知なるもの、或いは空(くう)、又は無限の概念としてその宇宙を捉えるでしょう。 そこから、既知のものから推測し、更に観察をしより具体的な結論を導き出していく訳です。」 なるほど「合理的」ですか。 聖書の中にも、「王様が、心底、非力な民を憐れんだ」というような箇所が、あるようにも思うんですが、なにしろ、二千年以上も前の代物ですから、「経験的な発明」といったものが事情を変えてきた、ということもあるように思います。 >「さて、「仏」とは悟りを得た人の呼称です。 あなたのご質問は、「神」と「仏」とを比較してという前提ですが、そもそもこの前提に誤りがあるかもしれません。 神とは、概念ですが、仏は人です。 どちらが寛容か?どちらが不寛容か? 悟った人でも、腹を立てることはあるかも知れません。「仏の顔も三度まで」とはよくいったものですね(笑)」 ここまででも、小生は、この質問をしてみて良かった、と思っております。 また宜しくお願い申し上げます。
- hue2011
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どこの宗教の話をしているのかで違ってきますけど。 まあ一般的に神というのは、人間ではありません。 人間を創造したりした存在ですね。 だから科学者にはほとんど神が存在するのです。 なぜそこに固体が存在するのか、誰が気体にしているのかがわからないから、超存在を仮定しないと話が進まないからです。 特定宗教の信者であるという意味ではありません。 何かがないと、存在の意味がつかないのです。 その得体のしれない、自分を今ここに有らしめているものを、なんと呼ぶかが地域や人種で異なっているのです。 これは超絶した存在ですから、寛容も不寛容もありません。 自然の掟という形で現れます。 人間の世界の、人間が作ったルールや価値観でどうだこうだというのには一切かかわりません。 というかその次元には存在していないのです。 それを、人間の論理で類推しようと考えるのですね。 大洪水が起きたりスズメバチが北上したりするのは地球温暖化のせいである、これは環境を考えないで汚染してきた人間に対してくだされた神のバチだというような。 物理法則として研究しそれが類推できるようにしたりするのが学問です。 でも、自然は別に人間の決めた物理法則にしたがって動くのではなく、神のルールで動くんですよね。 仏は人間です。 人間が修行し、悩み、解決を考え考え、人にアドバイスしようとしているのが菩薩ですね。 ある段階に達してすべてを悟っている状態を如来と呼びますけど、これは理想の姿であって誰一人その位置にいったものはいないのですね。 そういう、人間の論理と悩みの上に立つ仏は、寛容であるのが普通でしょう。 宗派の話になってはいけないからぼかしながらいいますけど、善人なおもて往生をとぐ、なんていう発想をするのは仏の教えの上だからです。 ことによっては不寛容でしょうけど、仏が不寛容なものは、おそらく神の世界でも不寛容になるはずです。 いざ宗教になると、自分が正しい、あちらは間違っているという論争になりますので、寛容も不寛容もない、愚かな世界に落ちている人がたくさんいるというのが現状でしょう。
お礼
hue2011様、ご回答ありがとうございます。 >「どこの宗教の話をしているのかで違ってきますけど。」 はい。 >「まあ一般的に神というのは、人間ではありません。 人間を創造したりした存在ですね。 だから科学者にはほとんど神が存在するのです。 なぜそこに固体が存在するのか、誰が気体にしているのかがわからないから、超存在を仮定しないと話が進まないからです。 特定宗教の信者であるという意味ではありません。 何かがないと、存在の意味がつかないのです。 その得体のしれない、自分を今ここに有らしめているものを、なんと呼ぶかが地域や人種で異なっているのです。 これは超絶した存在ですから、寛容も不寛容もありません。 自然の掟という形で現れます。 人間の世界の、人間が作ったルールや価値観でどうだこうだというのには一切かかわりません。 というかその次元には存在していないのです。 それを、人間の論理で類推しようと考えるのですね。 大洪水が起きたりスズメバチが北上したりするのは地球温暖化のせいである、これは環境を考えないで汚染してきた人間に対してくだされた神のバチだというような。 物理法則として研究しそれが類推できるようにしたりするのが学問です。 でも、自然は別に人間の決めた物理法則にしたがって動くのではなく、神のルールで動くんですよね。」 なるほど。 「自然の掟」という表現は、小生にも判り易かったように思います。 しかし、 >「でも、自然は別に人間の決めた物理法則にしたがって動くのではなく、神のルールで動くんですよね。」 これは、いかがなものでしょう。 なるほど、勝手に間違えるのは人間のほう、なのかもしれないですけれど。 >「仏は人間です。 人間が修行し、悩み、解決を考え考え、人にアドバイスしようとしているのが菩薩ですね。 ある段階に達してすべてを悟っている状態を如来と呼びますけど、これは理想の姿であって誰一人その位置にいったものはいないのですね。 そういう、人間の論理と悩みの上に立つ仏は、寛容であるのが普通でしょう。 宗派の話になってはいけないからぼかしながらいいますけど、善人なおもて往生をとぐ、なんていう発想をするのは仏の教えの上だからです。 ことによっては不寛容でしょうけど、仏が不寛容なものは、おそらく神の世界でも不寛容になるはずです。」 ・・・「勝手に間違えて、そのまま間違っている状態で居るのは、辛い」ことから、そうした執着を捨てて、(「自然」の)あるがままを、仕方のないことだ、としよう」というような、ことかと思われます。 私が以前から感心していることに、パソコン関係で、何か不具合が生じた場合における「アップデート」や、「パッチ」の類が、それこそ当たり前に実行されていることが、あります。 法律の世界でも、「権利」は絶対ではなくて、長い間放置していると時効にかかったり、「他者の最低限度の生活を不可能にするような取り立て」なども、認められません。 はて、それらは実は、仏の知恵だったのか!? >「いざ宗教になると、自分が正しい、あちらは間違っているという論争になりますので、寛容も不寛容もない、愚かな世界に落ちている人がたくさんいるというのが現状でしょう。」 それは、神でも仏でもない、生身の人間が主張することでしょうから。 (といって、「主張するな」というのは本末転倒かもしれませんから、「(信教の自由の)主張にも「限界」があります」ということで、「オウムの愚」は、避けなければなりません)
補足
hue2011様、ありがとうございます。 読み返してみて、ご返事に不足があったと思われた箇所がありまして。 >「仏が不寛容なものは、おそらく神の世界でも不寛容になるはずです。」 法律論では「放置しておいてはならない基準」という考え方があり、 すなわち「本人、自身が、放置されることによって、取り返しのつかない結果を招来することが、ある程度、確実な場合」に、あるいは本人の意思に反してでも介入を行い、「取り返しのつかない結果の招来」を避け得る」 つまり、基本的には(あるいは(勿論「善意」の)介入を受ける)本人の問題ですから、本人自身の利益・不利益を念頭に置いて考える・「介入の必要性(必然性?)」ということについて、より厳格に考える、ということであります。 (勿論、いかなる「介入」も、本人の人権を侵害するようなものであっては、ならないでしょう)
- alulunomori
- ベストアンサー率16% (32/196)
基本どちらも寛容かと思いますが、ただ教えによって多少違って感じるのかも知れません。
お礼
alulunomori様、ご回答ありがとうございます。 質問が、あまりにも漠然としたものだったため、ご回答も難しかったかも。 基本寛容で、多少違って感じる程度。 そうですか。 「あえて、どちらかと言えば?」 どうでしょう。 (「「どちらか」とは、どういうことか」・・・ですよねえ)
お礼
psytex様、ご回答ありがとうございます。 はい。 「「どうしようもなく非力で、憐れで、愚かですらある民」を、どうにかして救ってやりたい」といった感じの、痕跡は、あるように思います。 (だから、現代福祉は、仮にそれを生業とする者でも「援助をする必要なんて無ければ、それに越したことはありません」と言う。法曹の世界でも「「飯のタネは無いか?」などとうろつくなかれ」というのがあったりします。)