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寛容さが美徳とされている理由は?
タイトル通りになりますが、「寛容」や「相手を受け入れる」や「(思いやりを持って)相手を許す」という言葉が、良くハウツー本にありますよね。 でも、寛容さを持って相手に接したがために、結果的に自分にマイナスになる場合もあると思いました。 実際に聞いた話で言えば、 ・自治体の作業を行うため、メンバーをグループ分けした際、どこにも入れてもらえなかったトラブルメーカーを自分のチームに受け入れた。 その問題の人物とうまくやっていこうと、メンバー全員で努力したが、結局、その人物を中心にいざこざが起きてしまい、作業自体が滞り、リーダーである自分が責任を問わされた。 ・人の好き嫌いが激しい上司の下で働いていて、自分は彼に嫌われてるようだ。部署異動も可能だが、その上司とうまくやっていこうとしているため、それは考えていない。でも、同期と比べても、もう何年も出世から遠のいてしまっている。 このような話から、寛容さは必ずしも自分にプラスにならないと思うし、時には相手を切り捨てることが必要なのでは?と思うのです。 ではなぜ、寛容さが美徳とされているのでしょうか?
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「得」と「徳」の違いを考えればわかると思いますが。。。 質問者の言う「プラス」とは「得」の事で 利益に繋がる・・・という事ですよね? 利益ばかりを追求する姿は、はたして「美しい」モノでしょうか? 「美徳」とは、徳を「得る」のではなく、人へ徳を「与える」ような 美しい姿(行い)を言うのではありませんか?
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- yokihito005
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もはや、言わずもがな、、、ですが....再投稿です。 >キリストやカエサルは、寛容はあったけど、度量がなかったということになりますね。 いえいえ、度量を超えたものを示してくれたのではないでしょうか? イエスは男女や家族を超えて愛を示す(隣人愛)なかに救いがあると説く道筋で、献身と自己犠牲という修道方法を自ら示した、、、くらいのところをキリスト教では説いているのだと思います。カエサルは評判となったその寛容さで、ローマ皇帝を”発明”しました。中央ヨーロッパの平定を短期間で成し遂げたのも寛容であったからだと思います。政治家、征服者として敵に怨恨を残さず、我が意をし遂げるに寛容が有効であることを示したもっとも有名な人物だと思いますよ。カエサルの暗殺は、共和制から帝政へ大胆に舵を切ったカエサルを”暴走”と読み誤った同志によってなされたのですから(塩野七生「ローマ人の物語」より)。。 救世主、皇帝、それに対する我々一市民とでは、そもそも寛容、度量の尺度が違う、、、といったところでしょうか??
お礼
回答をありがとうございました。
- eroero1919
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#10です。 >近鉄が中村ノリを寛容に扱ったおかげで、チーム全体が迷惑をこうむっていました これは寛容であったものの、チームの責任者、つまり監督の器量が足らなかったからであろうと思います。まあ近鉄在籍中の中村ノリは日本人の中でも1、2を争うほどの長距離打者でしたから天狗になるのもやむを得ない部分があったと思います。 今回の質問者さんの件でいえば、そのトラブルメーカーの人が「hamu1030さんが決めたことなら仕方がない」と従うかどうかにかかっていました。おそらく、その人物はあなたのチームの中でも我を通していたのではないかと思います。これは、中村ノリがオリックスに在籍していたときと同じになってしまっていたのだと思います。中村ノリはオリックス在籍中、近鉄にいた頃ほどは活躍できずにいましたが選手層の薄いオリックスでは不動のレギュラーでした。ですからノリの天狗の鼻は高いままで、シーズン中のケガを公傷と認めなかったことや、年棒が大きく下げられたことを不満に出て行ってしまいました。 厳しいことをいえばトラブルメーカーを受け入れたのはhamu1030さんなのですから、何か起きた場合はhamu1030さんが責任を取らされるのは当然のことです。受け入れた以上、責任者であるhamu1030さんにはトラブルメーカーをさながら落合監督のようにコントロールする能力が求められたのです。そのトラブルメーカーは、自分を変えなければならないとは思っていなかったのでしょう。 >キリストやカエサルは、寛容はあったけど、度量がなかったということになりますね これはちょっと違うかなあと思います。イエスもカエサルも、人類の歴史に永遠に名前を残した人です。イエスに至っては、人類が人類である限りイエスを信じる人が絶えることはないでしょう。そういう歴史に名を残すような人物が度量がなかったとはいえないと思います。 むしろ、イエスやカエサルに度量がなかったというより、世の人々に彼らを理解するだけの度量がなかったのだと思います。イエスは世界で初めて「愛」を前面に出しました。それまで宗教者たちは「神はお怒りになっている」と警告していましたが、イエスは「神はあなたがたを愛している」といい、「憎しみあっても世の中は良くならない。愛し合おう」と呼びかけました。けれど、当時の大衆はローマ帝国からの独立を指導する強い指導者を望んでいました。その大衆の期待をあえてイエスは裏切ったので、彼は十字架にかけられました。 カエサルは、共和制ローマがもう制度疲労を起こしていて制度を抜本的に改革しなければならないと分かっていました。けれども、世の人々は世界が変わるのを受け入れられずにカエサルを暗殺します。しかし、結果としてカエサル亡き後に権力者となったオクタヴィアヌスはカエサルがやろうとした政策を行ってローマは共和制から帝政になったのです。カエサルの名前は、その名が皇帝を意味することとなって残りました。考えてもみてください、自分の名前が天皇と同じような意味を持つ言葉になったら凄いじゃないですか。そのくらいカエサルは凄い人物だったと思います。
お礼
>むしろ、イエスやカエサルに度量がなかったというより、世の人々に彼らを理解するだけの度量がなかったのだと思います。 分かりました。 ありがとうございます。
- yokihito005
- ベストアンサー率22% (103/467)
大雑把に言えば、人の言動、志向が利他的であるほど社会はうまく廻るから、、、とでも言えばいいんじゃないでしょうか。。人の世(社会)に良いから”美徳”であると。。 しかし、「寛容」はかならずしも献身や自己犠牲である必要はなく、”度量が広いこと”を示す広義の言葉だと思います。手元の辞書では、、「心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。」とありますから、定義の中に自己犠牲的要素はかならずしも含まれていない訳です。質問者さんの挙げた事例は”自分が犠牲になる”という”落ち”ですが、「寛容」の先に自己破滅するなら、それこそ自己責任だということでしょう。。そして、、、自己破滅はたぶん、おそらく、”美徳”には数えられないんじゃないでしょうか?? 始末の悪い”落ち”までセットにしてしまうから、「寛容が美徳」にクエスチョン(?)がついてしまうのでは?? さて、寛容を”度量”と置き換えれば、これはほぼ確実に自分に利する美徳になると思います。度量とは、自分の外の多様な価値観、人のありようを多く知るということですから、視野を広げ先見性を高めてくれるはずです。こうした文脈では「(むやみに)受け入れる」、「(見境なく)許す」ような盲目的行為はとても度量とは評せず、寛容とは言っても見せかけのものと言わざるを得ないでしょう。。。 ところで、仕事においては職責や契約(給与)が規範となって、個人の度量や献身を補填(あるいは不要に)してくれます。質問者さんの挙げた例でも、どこにも引き受け手のないトラブルメーカーを自分の部署に”封じ”たおかげで、会社全体としては重要部門における致命的なミスを回避できた(可能性がある)、、というシナリオもあるわけです。。いわゆる”ババを引く”ような”ローカル”な犠牲は管理職という職責に元から含まれる責務ですし、それに見合った給与を(普段から)得ているはずですね。。。
お礼
貴重なご意見をありがとうございます。 No.12さんの「度量」のお話によって、No.10さんへの返信にて書いた疑問が解けました。 キリストやカエサルは、寛容はあったけど、度量がなかったということになりますね。
「寛容」というのは物理的なものでなく精神的なものです。 自分の心がその状況を受け入れるといった内容ですね。 類似語で「寛大」という言葉があります。 共に心が広いことを表す言葉ですけれど 私はこのふたつの言葉はキッパリ分けて用います。 記載されている例は確かに「寛大」ではあります。 十分評価されて良い行いだと思いますよ。 しかし「寛容」かと問われれば残念ながら違います。 真実、寛容であれば後に不満や後悔の念は抱かないからです。 例え理不尽なことがあっても心の広い対応をして 一切不満を抱かない。 そんな人、カッコいいですね。 美徳と言われる所以です。 私には絶対に出来ませんけど。
お礼
貴重なご意見をありがとうございます。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
ズバリ一言でいえば、「誰でもできることではないから美徳」なんですよ。聖書にもこんなことが書いてあります、「兄弟に挨拶したからといってどれだけ優れたことをしているのか」と。 落ちていた財布を拾って、中にお金が入っていたのに警察に届けるから偉いんです。中の現金を抜き取ることは美徳になりません。 >寛容さは必ずしも自分にプラスにならないと思うし、時には相手を切り捨てることが必要なのでは?と思うのです それはそのとおりです。しかし寛容であることと何もしないことは別の話です。例えば、家出を繰り返す不良娘を叱らないのは親として不行届ですよね。「ウチは寛容な家風ですから」なんていう親が最近増えましたが、そんなのただ単に教育を放棄しているだけの話です。 トラブルメーカーを受け入れるのであれば、こっちの器量も問われます。その典型的な例がプロ野球の中日の落合監督と中村ノリでしょう。中村ノリは典型的なわがままでトラブルメーカーな選手でした。近鉄もオリックスもそれを寛容に受け入れていましたが増長させるだけでした。それで行き場がなくなったのですが、どこの球団も手を出さない中「どこにも行くところないんだろ?」と受け入れたのが落合監督です。ここは寛容の精神を発揮しました。しかし、受け入れたものの練習生扱いで自らの力で這い上がらないと一軍には入れないと毅然とした態度をとりました。おかげで、あの不良選手が頭を丸めて挙句の果てには中日との契約更改でも「契約してくれるならいくらでもかまわない」と一発サインさせるほど従順になりました(そもそも彼はオリックスのオファーが不満でオリックスを飛び出したのです)。これはやはり落合監督のほうがトラブルメーカーより一枚も二枚も上手だったということです。落合監督の凄いところは、昨シーズンあれほど活躍したにも関わらず中村ノリに対してレギュラーの確約を与えないところです。手綱を決して緩めないところはさすがです。
お礼
貴重なご意見をありがとうございます。 今までの回答により、寛容と損得は別物だと分かりました。 でも、そこでまた新たな疑問なのですが、A氏がB氏に対し寛容に扱ったおかげで、C氏が迷惑をこうむることがありますよね。 ANo.10さんの中村ノリで言えば、近鉄が中村ノリを寛容に扱ったおかげで、チーム全体が迷惑をこうむっていました。 なので、1対1の関係における寛容は、まさにその効果があるかもしれないけど、全体を見回してみれば、その寛容は自己満足であって。 そして、この社会で1対1という関係はありえないのだから、寛容は美徳ではなく、むしろ、自分勝手や自己満足といった、悪い意味合いになるのではないかと思ってしまいました。
- green3103
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ANo.2です。お礼ありがとうございます。 お礼のコメントを読ませていただいたあと他の回答者様の回答をみましたが、ANo.8の方がベストアンサーのようです。 どうやら質問者様は「得」と「徳」を捉え違いしているというか混合されている…。 「得」を求めては「徳」はえられません。 僧侶などが「徳が高い」というのはメリットや何かを求めることを制御してるからでしょう。(「徳」に関しては西洋と仏教・儒教などで違うようなので徳とは何かとは限定はできないですけどね) 日本の「美徳」といえば…「切腹」ですよね。 「切腹が美徳」については賛否あるので控えますが、武士の世界では自らの命を断つことによって責任とることが究極の「徳」とされていたんでしょうね。あれは単なる個人の自殺とは違いますからね。 話は逸れましたがいずれにせよ、美徳とはメリットとは正反対のものですよ。寛容が美徳とされるのは自分に害があっても受け入れるなんてなかなか人はできないことだからでしょうね。 >自分自身が職場の人間関係に悩み、自分に寛容ささえ身につけば、それなりのメリットが返ってくるものだと思っていました。 なのに、メリットより精神的疲労が多く、「どういうこっちゃ??」と不思議に思い、このスレを立てたので・・・。 う~ん…自分のメリットのために「寛容」を身に付けるって…寛容精神とは間逆ですが…。なぜ寛容を身につければメリットを得られると思ったのでしょうか? >メリットより精神的疲労が多く… 当然でしょう…。どんなメリットを求めていたんでしょうか? 自分のメリットのためにいいことをするって…。 あれ、小さい頃クリスマス前になるとサンタさんにプレゼントもらうためにいい子にしてたクチですか?「いい子にしてるといいことあるよ」と言われて育つと、いいことしてるのにいいことがないと「あれ?」って思いますよね…。あのセリフ「見返りを求める」ことを覚えてしまう気がするな~…と子供ながらに思いました。よくないですよね。子供によかれと思って教えることが逆効果。 話それてすみません。 言葉は悪いですが、わかりやすい言葉をあえて出させていただくと、外面的には善い行為に見えても、それが本心や良心からではなく、虚栄心や利己心などから行われる行為は「偽善」といいます。 偽善も定義が広いですが、例えば自治体作業の場合、トラブルメーカーがトラブル起こして自分が怒られるかもしれないとわかっていても、受け入れられるのが寛容。これは、自分のためにするものではなくあくまで相手への思いやりのためです。寛容と博愛の精神です。 それが純粋に相手のためではなく「自分の評価のため」「よく思われるため」など自分への見返りを考えたことからきた行為であればそれは「偽善」というわけです。 また「寛容」を行った結果、思ったメリット(人からいい人だと評価されることですか)が得られないのは…また別問題で、それをしたからっていい評価がえられるわけではなく、人の評価は総合です。 上司の下で嫌われてるのにうまくやっていこうとするのはいいことですが、出世が遠のいているのは嫌われてる人と一緒にいるんだから自分が選んだ当然の結果。その結果を受け入れることがある意味で寛容ですが、そうでないならそれはただの「ゴマすり」的な発想です。 自分のためにいいことをする「偽善行為」は私もあります。皆あります。それについては恥ではありません。悪い事でもありません。良心の呵責の問題ですから善悪を問うものでもありません。 ですが偽善行為からくる「人を受け入れる行為」に至っては美徳を論議する余地ではないでしょう。 最後に…上司に嫌われてるのにも関わらず我慢してうまくやっていってるいることは人として評価するべきことですが、出世の評価は仕事内容で結果ださないとダメなのではないでしょうか。嫌われてる上司に好かれるようにするには寛容ではなく(これは立場が同等または上の者が使う表現だし)同調とか気遣いとかコミュニケーションではないですか?
お礼
>どうやら質問者様は「得」と「徳」を捉え違いしているというか混合されている…。 おっしゃる通り、混合していました。 >なぜ寛容を身につければメリットを得られると思ったのでしょうか? 仕事上での人間関係につまづいた時、ある占い師から、「あなたは今まで自分のことしか考えていなかった。これからは、広い心をもって、他人のために尽くせば、おのずと人があなたに集まります」と助言されたからでした。 その時には「なるほど」と思ったのですが、今思うと、「人に尽くせば人が自分に集まる」という考え自体が損得勘定なので、寛容とは別物だったんですね。
- sakura-333
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寛容さは和を保つために必要なのであって、個人の損得の問題ではありませんよね。 なので、寛容になるには人徳も必要です。 他者にために自分の得にならない事、下手をしたら損をする事だってあるのですから、美徳と言えるのでは?
お礼
貴重なご意見をありがとうございます。
- bekky1
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#2の方に一票。 >寛容さは必ずしも自分にプラスにならないと思うし、時には相手を切り捨てることが必要なのでは?と思うのです。 ではなぜ、寛容さが美徳とされているのでしょうか? 寛容、寛大であることがかならずしも、現世でのご利益にはならない だからかこその見返りとして「美徳」との見方をしてもらえるのです。 正直者は馬鹿を見るということと同じです。 正直者は必ずプラス、得をするというなら、誰も正直です。 去年の漢字は「偽」でしたね。 寛大な人は誰も、得をするというなら、誰もが目先の選択より、 我慢しての後の大きな収益でしょう。 でも、我慢しても必ず収益は上がらない。 賞味期限を守ってないものも、いいよイイヨと許すとか、 防衛庁の機器購入は極秘で好きなだけに寛大な国民とか。 だから、正直者は正しく、寛容は美徳であるとしないと ダーれもソレを遵守しない。 デ、最終的に最後の審判というような手段を思いつくのでしょうね。 デーモ、今まで誰も最後の審判を受けていないし、ホントウニ、喧伝されているようなものなのか、はたまた本当に天国、極楽はありがたいものなので、 究極たのしいのか、退屈なのかもわかりません。 美徳であるとされるようなものは、自己満足でもしないと やってられないようなものばかりだというのが真実でしょう。 自分はギリギリ悪いやつではないという、最低ラインは守りたいという、 ジコマンゾクですが。 麻痺するんでしょうね、まさに、ゆで蛙。
お礼
貴重なご意見をありがとうございます。
- kabako7777
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時と場合によりますね。 DVの彼氏を許す などは自尊心の低さからであり、心理学では「そんな人でも私といてくれる」との依存の状態です。 >「(思いやりを持って)相手を許す」 愛を持って許した場合は、マイナスになっても、仕方がないか で済ませれると思いますが、”自分はあの人に好かれたい” ”皆に優しい人と思われたい”などの利己主義な考えからの場合はマイナスになったら「私は許してあげたのに」と憤慨するんじゃないですかね。 またやはり全体を見る目が大切だと思います。 >寛容さが美徳とされているのでしょうか? 何はともあれ、極端ではなく、依存でもなく”許す”という行為を出来る人が少なくなって来ているのではないでしょうか。
お礼
貴重なご意見をありがとうございます。
- JOY-STICK
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こんにちは 寛容な人は不利益をこうむりやすいですよね。 おおどかな人は対人関係に余裕を持って挑めますが、そこに付け入られやすい。 けれど、寛容の反対は狭量だと思います。 狭量な人とは誰も付き合いたくない、余裕のある人が付き合いやすい。 だから寛容は美徳なのではないでしょうか。 と、思ったのですが調べたら寛容の反対語は厳格だそうで。 狭量の反対は寛大、だそうですね。 まあ、どちらにせよこせこせした締め付ける人よりは、大人(たいじん)の風格ある方がお付き合いにはよろしいようです。
お礼
貴重なご意見をありがとうございます。
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お礼
>「得」と「徳」の違いを考えればわかると思いますが。。。 確かに、寛容さが利益につながると思っていました。 寛容と損得は別物なのですね。