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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人びとはなぜ神のことが分からないのか)

人びとはなぜ神のことが分からないのか

このQ&Aのポイント
  • 神などはいるもんかと言う。しかし、絶対な存在である神は存在の有無によっては決まらない。
  • 人間が神を作り出した存在と言う。しかし、もし神が人間によって作られたのであれば、神は人間の操り人形に過ぎない。
  • 神は精神であると言う。しかし、この有限で相対的な経験事象である人間の存在からは、絶対的な神の存在を理解することはできない。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.23

bragelonneさん こんばんは。 bragelonneジジイの挑発にのって、哲学カテで論争するつもりは、さらさらないですが、回答します。 私は既存宗教は肯定する立場です。はっきり言うとbragelonne哲学なるものは、各宗教を、無神論も含めて無理やり、一つにしようとする企てをする、急進的すぎる考えと思ってます。 しかし、神や仏という、超越的存在を認める点では、同じ立場です。 ジョン・レノンの Imagine に 「Nothing to kill or die for And religion too♪」(死んだり殺したり理由もない、宗教もない世界)を創造してごらん。 という歌詞があり、確かにこのカテのyuniko99さんが求めているような理想社会のようにも感じますが、私は現在という時点においては、この考えは時期尚早と思ってます。 私はbragelonneさんのような、宗教の一元化より多様性というものを尊重します。 世界はインターネットで結ばれグローバル化し、ひとつになるように思われますが、私は、このような世界だからこそ、世界中の各民族は、長い歴史により育まれた、文化的な独自性という個性を打ち出す多様的世界になるほうが良いと思っています。 この歴史の積み重ねという文化というものは、現在、影響が衰えていようが、宗教というものが密接に関わり切り離すことができないと思います。 日本においても、古くは日本の豊かな自然から生まれたと思われる「新道」、また飛鳥時代に朝鮮という海外から取り入れた「仏教」、安土桃山時代にザビエルが伝えた「キリスト教」など、これらの宗教は、海外から伝わったものは種という形でも、日本人の寛容な豊かな「土壌」に育まれ成長し、日本固有の宗教的花を咲かせているものと私は思います。 日本人の1%くらいしか信者のいない、キリスト教は根付いてないと反論する方もいるかも知れませんが、大浦天主堂を含む、長崎のキリスト教会群がユネスコの世界遺産に登録されたことに反対する日本人は、少ないと思います。 私は、何度も回答しているように神や仏という超越的なものを信じることは、「畏れ敬う」という謙虚なへりくだりの気持ちに自己が至るのに必要と思います。 そして、そのような気持ちで他人と接すれば、キリスト教の「愛」や、仏教の「慈悲」といった、思いやりの心が芽生えると思います。 そして他人からの「愛」や「慈悲」に触れた時、キリスト教では、神は心に宿るといわれ、仏教では「一切衆生悉仏性」と言われるように、相手の「心」に、神や仏が見えるのではないかと思っています。人は相手の心に神や仏を見て信仰に至るのかもしれません。 それゆえに、日本の「一期一会」の精神は大事にしなければいけないと私は思っています。 私が、科学に対し辛らつな発言を繰り返しているのは、確かに科学は人間の手で自然を改良し利便性を生み出すことは有効な手段です。しかし、現在の日本を見ると、科学の発達で利便性が行き届き、他人と手をそんなに借りなくても、孤独にさいなわれながらでも、個人でも生きてゆけるようになり、コミュニケーションが希薄化することです。 これは、17世紀にすでに、科学が発達し自然を支配することが進むと、科学技術を悪いことに使ったり、無駄な贅沢心を起こさせるという科学の発展に疑問を持つ人がいて、イギリスのフランシス・ベーコンは、著作「ノヴム・オルガヌム」で 「健全な理性と、本当の宗教が、それの調整に当たるから心配ない。」 としてますが、現在の社会においては、ベーコンの考えは古すぎ改めないのではないでしょうか。 bragelonneさんは神や仏という超越的存在と私という「縦の関係」を重視して質問を繰り返しているように私は思いますが、神や仏を信ずるなら、人間同士の他人という「横の関係」いわゆる、実践というものが大切で、信じるなら自然と出てくるものと思います。 いつぞや、bragelonneさんとの、このような、やり取りより、東日本大震災にボランティアに行っている無神論者のほうが、神や仏に近い人と言ったのは、この実践のことです。 bragelonne哲学の、お二階さんは取り壊し、江戸時代の長屋のような平屋立ての井戸付きにするべきと私は思います。 そして、江戸時代の職人のように、普段はまじめに働くが、お伊勢詣りに数ヶ月休養を取り、リニヤモターカー開発はやめ、江ノ島電鉄(江ノ電)を全国に張り巡らしで行く。 江ノ電のスピードメーター計を見たことありますか? 最高速度80キロのメーターです。東京の私鉄の電車だって、現在120キロのスピードで走っています。 こんなインターネット社会で高速で情報が飛び交う中、私は江ノ電に乗るとほっとしますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 各宗教を、無神論も含めて無理やり、一つにしようとする企て  ☆ 《ひとつにする》のではなく シュウキョウはすべて解体するつもりです。  ★ 宗教の一元化より多様性  ☆ シュウキョウは 肝心要のところでは 一元化というより《画一化》です。一人ひとりの顔を無くそうとするタクラミです。  多様性は 信仰によって現われ出ます。なぜなら 信仰は 非思考の庭として成っている動態であって 思考や感性として現われるのは 信仰そのものではなく まさに思考の緑野や感性の原野としてであるからです。  それに ブラフマンやらヤハヱ―やらアミターバ・ブッダやらと 名前にもその土地の文化が現われ まさに多様性を呈しています。  これを画一化するのは シュウキョウなのです。考えるの対象であるオシへをそのまま信じろと言うのですから 十把一絡げなのです。  ★ これらの宗教は、海外から伝わったものは種という形でも、日本人の寛容な豊かな「土壌」に育まれ成長し、日本固有の宗教的花を咲かせているものと私は思います。  ☆ というふうにシュウキョウが生き延びて来たのは わづかに前回に話題となった《秩序》の問題です。  取りあえずの集団にとっての秩序 これを優先させるときには 個人の信仰よりも集団に共通のオシへとそれをとおしての秩序の維持 これが よしと見なされて来たというこれまでの歴史です。もうそのシュウキョウの時代は おしまいです。    ★ 私は、何度も回答しているように神や仏という超越的なものを信じることは、「畏れ敬う」という謙虚なへりくだりの気持ちに自己が至るのに必要と思います。  ☆ そのためにシュウキョウは 百害あって一利なしです。みんな同じ顔をするために集まっているんでしょ? そんなものは要りません。  ★ そして他人からの「愛」や「慈悲」に触れた時、キリスト教では、神は心に宿るといわれ、仏教では「一切衆生悉有仏性」と言われるように、相手の「心」に、神や仏が見えるのではないかと思っています。人は相手の心に神や仏を見て信仰に至るのかもしれません。  ☆ ほらごらんなさい。信仰の問題です。シュウキョウよ さようなら。  ★ bragelonne哲学の、お二階さんは取り壊し、江戸時代の長屋のような平屋立ての井戸付きにするべきと私は思います。  ☆ それには ヒエラルキアとオシへから自由にならなくっちゃ。一人ひとりがです。旗振り役は 要らない。みなが一人ひとり自分で旗を振って行きます。  シュウキョウよ さらば。

bragelonne
質問者

補足

 江ノ電〔が基調となる〕社会にのぞみを見つつ これからの展開を前もって祝いつつ。⇒BA。

その他の回答 (32)

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.12

No.5です。 >>◎アッラーについては、良くユダヤ教で言うところの神とキリスト教で言うところの神と同神であるといわれていますよね。 >☆ そうなんですが いえ つまりわたしの言いたいところは:   ひとつに 信仰としては 旧約聖書に示された神(エローヒームないしヤハヱー)が 新約・クリスチアニズムの神でありイスラームの神でもある。つまり その意味では 知られていると言えば知られている。 >もうひとつに ところが 聖典クルアーンの文章を加味すれば かなりその説明としては違って来る。と思います。  〔クルアーンの文章ではあいまいなところがあるようですが 次の一点。:  神について偶像をつくってはならない。偶像を拝んではならない。――こういうイマシメがあるとき ところがこのイマシメとしての(あるいはオキテとしての・もしくはオシへとしての)意味内容は じつは人間のことばで表現されているからには 神を仮りに示すもの=すなわち偶像であると考えられ得ます。彫像ではなく観念も 偶像たり得ます。  つまり 偶像を崇拝するなというオシへを守るなら オシへとしての偶像に従うことになってしまう。という矛盾が起きます。〕 ★★★★★★★★★★ ◎先日も質問を立てましたが、結局のところ古代エジプトより引き継がれた『神』が、ユダヤ教となり、キリスト教となり、AC600年頃サウジアラビアにおいてイスラム教が誕生しました。先ず、これらの『神』を定義付しなければいけない。そうでないと、同じ神か違う神かでは、議論が始まりません。若しくは『一神教』として扱うのか!? ◎いづれにせよ、これらの『神』というものに対する信仰(信仰の形態とでも言いましょうか)は、“自分自身以外に原因を求める”⇒『外道』であると言えます。対極にあるものは、仏教でいう『内道』があげられます。 >>◎このキリスト教的『信じる』は時には恐ろしい考えを生むこともあるらしく、盲信に近いものがあるみたいです。逆に言えば、敬虔なクリスチャンから見ると、日本人は理解できない点があるらしいです。 >☆ だとすれば 神のことが分かっていない。ことになります。  《文字で書かれていることそのもの・その内容が 神である》という錯覚だと思います。いわゆる原理主義ですね。  そしてこれは (3)の《神は精神である》というマチガイとそれほど違わないとも考えられます。聖句を精神で捉えたところが神であるといったかたちに行き着くから。 ★★★★★★★★★★ ◎この分の多くの事例は、プロテスタントに多く見られるようです。(※キリスト教の分派、詳細については私は詳しくは分かりません。) カトリック、東方正教会、プロテスタントなどは、信奉する『神』の存在は違うのでしょうか?? いわゆる、仏教でいうところの『本尊』の部分です。 “神は絶対である”とか、“神のお告げがあった”とか、少しスピリチュアルなオカルトチックな思想感も含まれるようですが、、、。 >>◎多くの日本人も同じでしょう。同次元だと思います。だって『仏』の説明すら出来ないもの。これを解決するためには、平安時代まで戻らないといけない。 >☆ ということは この質問が有効であり必然性があった。ということでしょうか。 ★★★★★★★★★★ ◎その通りです。だって、ここでこの時点で“存在する”、“存在しない”は別として『神』を定義づけしようとしているのですから。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >ということは 神とは何かについて きちんと自分の言葉で説明することができるようになると なおよいと考えます。 >>◎ 質問者様の結論を求めたいと思います。 >さらに、、、第四の『神』の存在。  仏教で説くところの『諸天善神』と『悪鬼』の事です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その方向でつとめたいと思います。  やり取りにしたがって追い追いすすめて行くことにします。  ★ 『諸天善神』と『悪鬼』  ☆ は ひとつの神の分身であるということでよいのではないでしょうか。  ★ 第四の『神』の存在  ☆ って何ですか? ★★★★★★★★★★ ◎ここでいう“第四の『神』”とは、一神教の『神』や神道でいうところの『神』とは違い、信仰の対象ではないが、仏教上で扱われている『神』の事です。 この『神』というのは人間の信仰、思想と連動して直接人間や環境に影響を及ぼすとされている存在です。 言い方として誤解を招くようでしたら、“第四の『神』”ではなく違った言葉でも良いと思います。しかし、設問の『神』というものは質問者様の意図するところでは、あくまでも信仰の対象であると考えますので、それらの神とは別であると言えます。何せ信仰の対象では無いのですから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 古代エジプトより引き継がれた『神』  ☆ 定説に近い見方だと思うのですが そしてアメンホテプ王には 一神教がありましたから エジプトの神のユダヤ人への《引き継ぎ》は 否定しがたいところなのですが でも ユダヤにとっての――と言いますか アブラムという男にとっての――神は まったく毛色が違うとも捉えています。  シュメールの神話から 創世記にはノアの大洪水などなどいくつかの話題が《引き継がれて》います。ですが これも 《神》の性格としてはまったく違うものとわたしは理解しています。  アブラハムと改名する前の名のアブラムにとって 神は――あるいは神とわれとの関係としての信仰は―― 《神が 先祖の土地を去って〔どこへとはまだ言わず〕行けと言われたから 行った》に始まります。  そして アブラハムぢいさんは 百歳あたりで・つまりは妻のサライもその歳あたりで 神の使いの言うとおりに 初めての子が生まれた。しかも神は この長子のイサクをいけにえにささげよと言う。やむなくそうしようとしたとき 神は もうよいと言って止めた。  つまり 言いたいことは 信仰は――つまりは人間にとって神は―― そのひとに固有の人生にあって固有の時に出会うものである。この主観ないし心の外には出かけない。のが 信仰である。ということを アブラハムは示しました。  ★ ◎いづれにせよ、これらの『神』というものに対する信仰(信仰の形態とでも言いましょうか)は、“自分自身以外に原因を求める”⇒『外道』であると言えます。対極にあるものは、仏教でいう『内道』があげられます。  ★ カトリック、東方正教会、プロテスタントなどは、信奉する『神』の存在は違うのでしょうか??  ☆ 神は ひとつです。普遍神しかありません。  その信仰からは ヒラメキが得られ何らかの神についての説明が得られます。これが オシへにもなって行きます。オシへとして取り扱う人びとが出て来ます。つまり シュウキョウ者です。信仰が 主観の外に出て行きます。  ★ “神のお告げがあった”とか  ☆ これは 主観の外に出かけなければ よいわけです。ヒラメキの問題だと思います。  ★ ◎その通りです。だって、ここでこの時点で“存在する”、“存在しない”は別として『神』を定義づけしようとしているのですから。  ☆ そして 定義はやはり必要なようです。  ★ ◎ここでいう“第四の『神』”とは[・・・]何せ信仰の対象では無いのですから。  ☆ そういうことでしたら 何らかの経験的な現象として伝えられて来ている事柄なのでしょうか。それは 別にすることが出来ますね。ナラハシや伝承の中のそれでしょうか。

回答No.11

★ 対象には理解できないでしょう。対象化できるもんではないから  ☆ というかたちで対象化しそれとして認識されています。どうでしょう。 そういうふうに対象化して認識できればですね。対象客体としてね。 人間ってそうしないと認識できないんですね。 その認識に仰せの神が論理とか観念で存在することができればね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  どちらかと言えば 論理のおあそびだったかも知れません。  でも この問いの場合には 基本的にそういう問題でもあります。  心にとってや境地としての神 の問題であるよりも――あるのですが―― どうやって説明するか? 誰が聞いても 納得できるような表現内容がもとめられている問題だと思います。    いつも言っていますが 世界の人びとに・そして取りあえず欧米の人間に分かるように説明することが 求められていると思います。  

回答No.10

自分自身であり、宇宙神羅万象万人万物でありますからね。 取り立てて対象化できないんですよ。 主格意識それ自身ですから、その主格意識が經驗認識した結果たるもの、対象には理解できないでしょう。対象化できるもんではないから

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 対象には理解できないでしょう。対象化できるもんではないから  ☆ というかたちで対象化しそれとして認識されています。どうでしょう。

回答No.9

創造者と被造物の関係だからです。 つまり人は神によって創造されています。 車や今ピューターは人が造りました。コンピューターや車はどこまで行っても人間によって造られた物ですね、これらがどんなに進化しても、造った人間を知りうる事はないのです。 同じように、造られた私たちは神の全てを知ることはできません。でも神が明らかにされた 部分は理解できるようです。 本物の神は実在され、全知性、全能性、偏在性、のすべてをお持ちの方で私たちが知り得る事はわずかの部分です。 人間の知性や思いの中に永遠を思う遺伝子が存在しますね、死んだらどうなるのかと考える 動物は人間だけです。 あなたの思いを本物の神様に向けて、求めてください。 神はあなたに答えをくださいます。答えをくださらない神は神ではありません。 私の神様は真実の神様ですからはっきりと答えをくださいました。 そのような遺伝子は偶然に獲得したものではありません、創造者なる神様によって組み込まれた脳力です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ つまり人は神によって創造されています。  ☆ そんなことは分かりません。分からないとも言い切れません。それが 神です。  ★ でも神が明らかにされた部分は理解できるようです。  ☆ いつ神が 何を人間に向けて明らかにしたのですか? めちゃくちゃです。  《〈神がこれこれを明らかにした〉と人間が言った》に過ぎません。  ★ 本物の神は実在され、全知性、全能性、偏在性、のすべてをお持ちの方で私たちが知り得る事はわずかの部分です。  ☆ そのように人間が 想定しているのです。  ★ 死んだらどうなるのかと考える動物は人間だけです。  ☆ だから どうであるかは 何とも決まりません。勝手に想定し想像するだけのことです。  ★ 私の神様は真実の神様ですからはっきりと答えをくださいました。  ☆ その《答え》は?  ★ そのような遺伝子は偶然に獲得したものではありません、創造者なる神様によって組み込まれた脳力です。  ☆ そのように想定しているだけのことです。  そういう創造主なる想定をしなくても 神は ひとに自然本性としての能力をあたえている。ということができます。  神が存在しなくても 人間は能力を持つということが出来ます。  

  • a_hona
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回答No.8

例えば、謎なるものの代表に混沌があるが、これは数えられたり、有無で判じたりはできない。これから、唯一絶対神や多神と言うものが生じたのでは無いかと私は考える。 唯一絶対神は謎ではない。何故なら、真に謎であるならば、それが絶対かどうかも、唯一であるかもわから無いはずだからである。 ここに質問者の説の矛盾がある。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ナゾについてはもちろん ナゾでなくても ものごとは 経験的なことかそうではないかの区別が問題であるはずです。  ★ 謎なるものの代表に混沌があるが、これは数えられたり、有無で判じたりはできない。  ☆ いえ。《混沌》というだけでは 何とも定まりません。  経験事象かそうでないかで区別します。初めにそういう区別をします。それ以外に ものごとを《神》の問題と関連させて 神の問題であるかどうかを判定するすべはありません。  ★ 唯一絶対神は謎ではない。何故なら、真に謎であるならば、それが絶対かどうかも、唯一であるかもわから無いはずだからである。  ☆ 《絶対》ということが たとえ概念説明で――相対との峻別によって――明らかにされても その中身がどうであるかは 人間にはついぞ分かるすべはありません。  分からないという証明も出来ないほどゆえ ナゾなのです。  《無限》で説明するのが いちばん分かりやすい。無限を半分にしたら そのどちらも じつは無限であった。というのが 無限であり絶対であり ナゾです。  そういう概念による理解は 人間はおこなっています。それでも 中身は分からないのです。  ところが 無限=絶対は そのもの以外には何もないと言えます。ほかに別のものがあったら 無限でも絶対でもないのです。  だから 絶対=無限は ただひとつなのです。  神は 普遍神であるよりほかに有り様がないのです。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.7

例えば一や多など、数によって定義できない存在も、想定する事ができるだろう。或いは、あるとか、無いとか言う有無によって判じられない事象も想定されうる。 故に、唯一絶対神や、多神などを、自分にとって特別なものとして据え置くには、知識の多い人にとっては早計なのだと考えられる。 神の事が分からないのではなく、それを信じたり、必要と感じたりしないということもあるだろう。 人々と一口に言っても、色々だという事もある。 また、神の事が分からないどころか、興味がない場合もあるだろう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 人々と一口に言っても、色々だという事もある。  ☆ この反論は 要を成しません。みっつの問題事例を挙げて問うているのですから。  ★ 神の事が分からないのではなく、それを信じたり、必要と感じたりしないということもあるだろう。  ★ また、神の事が分からないどころか、興味がない場合もあるだろう。  ☆ そうは行かない問題なのですが そういう場合には 放っておきます。  ★ 例えば一や多など、数によって定義できない存在も、想定する事ができるだろう。  ☆ ええ そうですよ。《数量や形を超えている――すなわち経験事象であることを超えている――何ものか》を想定することが出来ます。  ★ 或いは、あるとか、無いとか言う有無によって判じられない事象も想定されうる。  ☆ それは おそらく神のことを言おうとしているのなら 《事象》というのは 問題になります。たぶんダメでしょう。《事象》は経験的なものごとでしょうし 《象》は かたちという意味ですから。  そして《有無によって判じられない》というのは まだあいまいです。《不可知》という経験事象がその中に入りますから。《有無を超えている》とするべきでしょう。  ★ 故に、唯一絶対神や、多神などを、自分にとって特別なものとして据え置くには、知識の多い人にとっては早計なのだと考えられる。  ☆ 《有るか無いか分からない しかも分かるか分からないかが分からないナゾ》と定義すれば それは 人間にとって《ただひとつの神 つまり 普遍神》のことを言います。これは そのまま《唯一》ですし その特徴は 《絶対》であることです。  《多神》は この普遍神の分身だと捉えてください。  《特別なものとして据え置く》という意味がよく分からないのですが そのあとの《知識の多い人》であるかどうかに関係なく 神は 《特別なもの》ではありません。  人間に生まれその自然本性をそなえた存在ならば ふつうにそのナゾと相対しているというふうに条件づけられています。誰もがです。例外は ありません。有り得ません。そのナゾは 《絶対》なのですから。絶対をまぬかれる人間は いません。  よって あ_ほなさんも 神のことが分からない部類に入ります。  

noname#209980
noname#209980
回答No.6

「あなたの見方では 神の嫌うところなのでは」←俺は神に嫌われてもイイのです・・ 神に嫌われる事よりも しなきゃならない事を優先してるので・・

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆ (No.3お礼欄) 事実を例に挙げて批判をすることは 互いに民主的で自由な対話のふつうの中身としての問題だと思っています。  ご回答をありがとうございます。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.5

No.2です。 ★ ・世界の宗教において、キリスト教、イスラム教等では『神』に対する崇拝である。 >☆ イスラームについては まだそれほどよくは知られていないと思います。 ◎アッラーについては、良くユダヤ教で言うところの神とキリスト教で言うところの神と同神であるといわれていますよね。 >キリスト教については ところが:  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~  2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。  3. 神は 精神だと言う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この二つの疑問については まだ消されてはいないと思うのです。むろん《神を信じる》ということは言っているにはいますが。 ◎このキリスト教的『信じる』は時には恐ろしい考えを生むこともあるらしく、盲信に近いものがあるみたいです。逆に言えば、敬虔なクリスチャンから見ると、日本人は理解できない点があるらしいです。 >でもその反証をひとつ挙げますと 人びとはよく《キリスト教を信じる》という言い方をするのです。オシへは人間が考えるものであって 無条件に受け容れる(すなわち信じる)ものではありません。やっぱりおかしなことがあるのだと思います。 ◎多くの日本人も同じでしょう。同次元だと思います。だって『仏』の説明すら出来ないもの。これを解決するためには、平安時代まで戻らないといけない。 >★ ・日本において、各地に大小様々な社があり、祀られているものは『神』である。 / 多くの日本人は、初詣をはじめとして様々な行事に神社へ詣でて祈願をします。 >☆  この点は おおよそその通りだと思っています。言いかえると 神のことをどう説明すればよいかはたぶん分からないだろうけれど 現実に信じているということはあり得ていると思われます。 ◎たぶん日本人には分からないでしょう。逆に『神』が分かれば『仏』も分かるはずですから。 >ということは 神とは何かについて きちんと自分の言葉で説明することができるようになると なおよいと考えます。 ◎質問者様の結論を求めたいと思います。 さらに、、、第四の『神』の存在。 仏教で説くところの『諸天善神』と『悪鬼』の事です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◎アッラーについては、良くユダヤ教で言うところの神とキリスト教で言うところの神と同神であるといわれていますよね。  ☆ そうなんですが いえ つまりわたしの言いたいところは:   ひとつに 信仰としては 旧約聖書に示された神(エローヒームないしヤハヱー)が 新約・クリスチアニズムの神でありイスラームの神でもある。つまり その意味では 知られていると言えば知られている。  もうひとつに ところが 聖典クルアーンの文章を加味すれば かなりその説明としては違って来る。と思います。  〔クルアーンの文章ではあいまいなところがあるようですが 次の一点。:  神について偶像をつくってはならない。偶像を拝んではならない。――こういうイマシメがあるとき ところがこのイマシメとしての(あるいはオキテとしての・もしくはオシへとしての)意味内容は じつは人間のことばで表現されているからには 神を仮りに示すもの=すなわち偶像であると考えられ得ます。彫像ではなく観念も 偶像たり得ます。  つまり 偶像を崇拝するなというオシへを守るなら オシへとしての偶像に従うことになってしまう。という矛盾が起きます。〕  ◎このキリスト教的『信じる』は時には恐ろしい考えを生むこともあるらしく、盲信に近いものがあるみたいです。逆に言えば、敬虔なクリスチャンから見ると、日本人は理解できない点があるらしいです。  ☆ だとすれば 神のことが分かっていない。ことになります。  《文字で書かれていることそのもの・その内容が 神である》という錯覚だと思います。いわゆる原理主義ですね。  そしてこれは (3)の《神は精神である》というマチガイとそれほど違わないとも考えられます。聖句を精神で捉えたところが神であるといったかたちに行き着くから。    ◎多くの日本人も同じでしょう。同次元だと思います。だって『仏』の説明すら出来ないもの。これを解決するためには、平安時代まで戻らないといけない。  ☆ ということは この質問が有効であり必然性があった。ということでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   >ということは 神とは何かについて きちんと自分の言葉で説明することができるようになると なおよいと考えます。  ◎ 質問者様の結論を求めたいと思います。  さらに、、、第四の『神』の存在。  仏教で説くところの『諸天善神』と『悪鬼』の事です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ その方向でつとめたいと思います。  やり取りにしたがって追い追いすすめて行くことにします。  ★ 『諸天善神』と『悪鬼』  ☆ は ひとつの神の分身であるということでよいのではないでしょうか。  ★ 第四の『神』の存在  ☆ って何ですか?  ユングが 《第四の神》として悪魔を立て 三位一体に付け加えて 四位一体の神を言ったことがあったようです。  ただし もし善と悪とが互いに相容れないとすれば 相対立する善神と悪神とが一体であるというのは 矛盾です。ユングは よほど暇だったのでしょう。

noname#211632
noname#211632
回答No.4

存在しないから。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ということは 次の場合ですよね。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~  1. 神などはいるもんかと言う。  ――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことによって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうでしょう。

noname#209980
noname#209980
回答No.3

あなたも 神の事を知らない・・・ 他人に高飛車になる人を神は嫌うのに・・・ よーく歴史を紐解いてご覧・・!? 色んな事で 神は教えてくれてますよ・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ あなたも 神の事を知らない・・・  ☆ ですから 趣旨説明欄の三つのマチガイの事例については 間違わないほどには神のことを知っています。  ★ 他人に高飛車になる人を神は嫌うのに・・・  ☆ 事実を例に挙げて批判をすることは 互いに自由で民主的な対話のふつうの中身としての問題だと思っています。  けれども 《高飛車を神が嫌う》とは あなたはよくご存じで?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  よーく歴史を紐解いてご覧・・!?  色んな事で 神は教えてくれてますよ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そのように能書きだけ述べて 相手を落としめることは 高飛車とあまり変わらない。なら あなたの見方では 神の嫌うところなのでは?

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