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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人びとはなぜ神のことが分からないのか)

人びとはなぜ神のことが分からないのか

このQ&Aのポイント
  • 神などはいるもんかと言う。しかし、絶対な存在である神は存在の有無によっては決まらない。
  • 人間が神を作り出した存在と言う。しかし、もし神が人間によって作られたのであれば、神は人間の操り人形に過ぎない。
  • 神は精神であると言う。しかし、この有限で相対的な経験事象である人間の存在からは、絶対的な神の存在を理解することはできない。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.23

bragelonneさん こんばんは。 bragelonneジジイの挑発にのって、哲学カテで論争するつもりは、さらさらないですが、回答します。 私は既存宗教は肯定する立場です。はっきり言うとbragelonne哲学なるものは、各宗教を、無神論も含めて無理やり、一つにしようとする企てをする、急進的すぎる考えと思ってます。 しかし、神や仏という、超越的存在を認める点では、同じ立場です。 ジョン・レノンの Imagine に 「Nothing to kill or die for And religion too♪」(死んだり殺したり理由もない、宗教もない世界)を創造してごらん。 という歌詞があり、確かにこのカテのyuniko99さんが求めているような理想社会のようにも感じますが、私は現在という時点においては、この考えは時期尚早と思ってます。 私はbragelonneさんのような、宗教の一元化より多様性というものを尊重します。 世界はインターネットで結ばれグローバル化し、ひとつになるように思われますが、私は、このような世界だからこそ、世界中の各民族は、長い歴史により育まれた、文化的な独自性という個性を打ち出す多様的世界になるほうが良いと思っています。 この歴史の積み重ねという文化というものは、現在、影響が衰えていようが、宗教というものが密接に関わり切り離すことができないと思います。 日本においても、古くは日本の豊かな自然から生まれたと思われる「新道」、また飛鳥時代に朝鮮という海外から取り入れた「仏教」、安土桃山時代にザビエルが伝えた「キリスト教」など、これらの宗教は、海外から伝わったものは種という形でも、日本人の寛容な豊かな「土壌」に育まれ成長し、日本固有の宗教的花を咲かせているものと私は思います。 日本人の1%くらいしか信者のいない、キリスト教は根付いてないと反論する方もいるかも知れませんが、大浦天主堂を含む、長崎のキリスト教会群がユネスコの世界遺産に登録されたことに反対する日本人は、少ないと思います。 私は、何度も回答しているように神や仏という超越的なものを信じることは、「畏れ敬う」という謙虚なへりくだりの気持ちに自己が至るのに必要と思います。 そして、そのような気持ちで他人と接すれば、キリスト教の「愛」や、仏教の「慈悲」といった、思いやりの心が芽生えると思います。 そして他人からの「愛」や「慈悲」に触れた時、キリスト教では、神は心に宿るといわれ、仏教では「一切衆生悉仏性」と言われるように、相手の「心」に、神や仏が見えるのではないかと思っています。人は相手の心に神や仏を見て信仰に至るのかもしれません。 それゆえに、日本の「一期一会」の精神は大事にしなければいけないと私は思っています。 私が、科学に対し辛らつな発言を繰り返しているのは、確かに科学は人間の手で自然を改良し利便性を生み出すことは有効な手段です。しかし、現在の日本を見ると、科学の発達で利便性が行き届き、他人と手をそんなに借りなくても、孤独にさいなわれながらでも、個人でも生きてゆけるようになり、コミュニケーションが希薄化することです。 これは、17世紀にすでに、科学が発達し自然を支配することが進むと、科学技術を悪いことに使ったり、無駄な贅沢心を起こさせるという科学の発展に疑問を持つ人がいて、イギリスのフランシス・ベーコンは、著作「ノヴム・オルガヌム」で 「健全な理性と、本当の宗教が、それの調整に当たるから心配ない。」 としてますが、現在の社会においては、ベーコンの考えは古すぎ改めないのではないでしょうか。 bragelonneさんは神や仏という超越的存在と私という「縦の関係」を重視して質問を繰り返しているように私は思いますが、神や仏を信ずるなら、人間同士の他人という「横の関係」いわゆる、実践というものが大切で、信じるなら自然と出てくるものと思います。 いつぞや、bragelonneさんとの、このような、やり取りより、東日本大震災にボランティアに行っている無神論者のほうが、神や仏に近い人と言ったのは、この実践のことです。 bragelonne哲学の、お二階さんは取り壊し、江戸時代の長屋のような平屋立ての井戸付きにするべきと私は思います。 そして、江戸時代の職人のように、普段はまじめに働くが、お伊勢詣りに数ヶ月休養を取り、リニヤモターカー開発はやめ、江ノ島電鉄(江ノ電)を全国に張り巡らしで行く。 江ノ電のスピードメーター計を見たことありますか? 最高速度80キロのメーターです。東京の私鉄の電車だって、現在120キロのスピードで走っています。 こんなインターネット社会で高速で情報が飛び交う中、私は江ノ電に乗るとほっとしますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 各宗教を、無神論も含めて無理やり、一つにしようとする企て  ☆ 《ひとつにする》のではなく シュウキョウはすべて解体するつもりです。  ★ 宗教の一元化より多様性  ☆ シュウキョウは 肝心要のところでは 一元化というより《画一化》です。一人ひとりの顔を無くそうとするタクラミです。  多様性は 信仰によって現われ出ます。なぜなら 信仰は 非思考の庭として成っている動態であって 思考や感性として現われるのは 信仰そのものではなく まさに思考の緑野や感性の原野としてであるからです。  それに ブラフマンやらヤハヱ―やらアミターバ・ブッダやらと 名前にもその土地の文化が現われ まさに多様性を呈しています。  これを画一化するのは シュウキョウなのです。考えるの対象であるオシへをそのまま信じろと言うのですから 十把一絡げなのです。  ★ これらの宗教は、海外から伝わったものは種という形でも、日本人の寛容な豊かな「土壌」に育まれ成長し、日本固有の宗教的花を咲かせているものと私は思います。  ☆ というふうにシュウキョウが生き延びて来たのは わづかに前回に話題となった《秩序》の問題です。  取りあえずの集団にとっての秩序 これを優先させるときには 個人の信仰よりも集団に共通のオシへとそれをとおしての秩序の維持 これが よしと見なされて来たというこれまでの歴史です。もうそのシュウキョウの時代は おしまいです。    ★ 私は、何度も回答しているように神や仏という超越的なものを信じることは、「畏れ敬う」という謙虚なへりくだりの気持ちに自己が至るのに必要と思います。  ☆ そのためにシュウキョウは 百害あって一利なしです。みんな同じ顔をするために集まっているんでしょ? そんなものは要りません。  ★ そして他人からの「愛」や「慈悲」に触れた時、キリスト教では、神は心に宿るといわれ、仏教では「一切衆生悉有仏性」と言われるように、相手の「心」に、神や仏が見えるのではないかと思っています。人は相手の心に神や仏を見て信仰に至るのかもしれません。  ☆ ほらごらんなさい。信仰の問題です。シュウキョウよ さようなら。  ★ bragelonne哲学の、お二階さんは取り壊し、江戸時代の長屋のような平屋立ての井戸付きにするべきと私は思います。  ☆ それには ヒエラルキアとオシへから自由にならなくっちゃ。一人ひとりがです。旗振り役は 要らない。みなが一人ひとり自分で旗を振って行きます。  シュウキョウよ さらば。

bragelonne
質問者

補足

 江ノ電〔が基調となる〕社会にのぞみを見つつ これからの展開を前もって祝いつつ。⇒BA。

その他の回答 (32)

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.33

>《存在するか存在しないか それを知ろうにも 知り得るか知り得ないかが 知り得ない》わけです。 存在するかしないか、と人間が知るか知らないかは全く別の問題だと思います。 仮に人間がまったく知り得ない事象というものがあったとして、それが存在するかしないかは、人間と無関係にどちらかだと思います。 人間が知り得るかどうかが、ある事象の存在の有無に影響をあたえるというのが理解できません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 仮に人間がまったく知り得ない事象というものがあったとして、それが存在するかしないかは、人間と無関係にどちらかだと思います。  ☆ これは まづ《人間がまったく知り得ない事象》という表現が あいまいです。  なぜなら それが確定したのなら 《人間がまったく知り得ないと知った事象》なのですから。つまりは 経験事象に属する不可知のことです。  それと  ★ それが存在するかしないかは、人間と無関係にどちらかだと思います。  ☆ これも まだ不明確だと考えます。  《人間と無関係に》かどうかにかかわらず 《どちらかだ》というのは のちのち《存在する》かもしくは《存在しない》かどちらかとして知られるようになると言っていると考えられるからです。  そして 《絶対》として説明されうる神については 不明確だけではなく マチガイです。  いづれ知られるようになるというのは 神についてあり得ないからです。《未知が既知になるもの(経験事象)》は 絶対ではなく非知でもありません。  ★ 人間が知り得るかどうかが、ある事象の存在の有無に影響をあたえるというのが理解できません。  ☆ そういうふうな分類や説明の仕方はしておりません。  《ある事象》とすでに言ったならば それは 経験事象のことです。  神は 経験事象を超えて・したがって《非知》として想定するというものです。  この非知という表現をそのまま使ってもよいわけですが 人びとは昔から 神はいるとか 神はいないとかというふうに 言い慣わして来ています。  だから 非知なるナゾとしての神について 《神はいる》派と《神はいない》派とに――表現として――分かれるかたちを採ることがおこなわれて来ている。というものです。  いづれの派をえらぶかは 人によってまったく自由です。なぜなら 有無を超えているのですから。それを 分かりやすいように 有るか無いかで どちらかをえらび仮りに表わしてみづからの信仰のかたちとする。そういうことです。  ★ 存在するかしないか、と人間が知るか知らないかは全く別の問題だと思います。  ☆ この命題は 多義的です。神についてなら いま上に説明したようなことを言っているのではないかと考えます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.32

なるほど、神を受け入れるという意味が理解された。神を認めたと言ってもよいだろうか。 本題にはいると、 1.非知であるということが分かり難いため。 2.歴史の事実として、様々な偶像が作られたり物語が語られてきたため。 3.神が精神であるというのを私はあまり聞いたことがないが、一種、精神に神が宿るというような表現を認めるならば、そのようなこと故ではないかと思う。 神のことが分からないのは、それが非知であると想定するからである。ある意味、非知なのだから分からなくて当然である。 もし、八百万の神のように、万物に宿ると想定したならば、日本人の多くは理解を示すだろう。 また、ブラフマンというのは哲学的にも高度な概念であり、普通の人々はその様なものを志向しないだろう。要するに、神のことが分からないのは難しいためである。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  《3》から行きます。:  ★ 3.神が精神であるというのを私はあまり聞いたことがないが、一種、精神に神が宿るというような表現を認めるならば、そのようなこと故ではないかと思う。  ☆ この問題は 意外と大きな妨げになっていると思います。  ヘーゲルが 《世界精神( Weltgeist )》というような言い方をしましたから あいまいになるでしょうし 《イデア》は 《精神》なのだというような捉え方が根強いように思われます。     信じる:非思考の庭:霊我:ヒラメキ(直観および直感)   -------------------------   考える:思考の緑野:精神:コギト   感じる:感性の原野:身体:センスス・コムニス(共通感覚)  自然本性というのは これら全体のことを言ってもよいかと思いますが 狭くは《身と心》を言うと思います。  すなわち 心(精神)とそして ぷらす・アルファとしての《霊我(アートマン)》とは 別である。なにしろ非思考なのですから。  人なる存在に神がやどると言うのなら 《精神に神が宿る》というのではなく 《精神と身体とに霊としてやどる》と言わなければならない。《非思考の庭》は けっきょくお化けのような場ですから。しかし それは《精神》とイコールだという見方は ただしくはない。と。  ★ 1.非知であるということが分かり難いため。  ☆ 分かりにくいですね。しかも 《神はいるもんか》というと それは違うと分かるものだとは思うのです。  神の存在証明が出来ないのと同じように 不在証明も出来っこないのですから。  ★ 2.歴史の事実として、様々な偶像が作られたり物語が語られてきたため。  ☆ これらはみな 《偶像》だとわきまえればよいわけです。仮りの説明であると。補助線としての説明なのだと。  ★ また、ブラフマンというのは哲学的にも高度な概念であり、普通の人々はその様なものを志向しないだろう。  ☆ 帝釈天(インドラ)と並ぶ梵天のことなんですけどね。  でも ですから 《かみ》と言って何だか感じる香りや感覚のことでよいわけです。  ★ もし、八百万の神のように、万物に宿ると想定したならば、日本人の多くは理解を示すだろう。  ☆ これはですね。生活感覚としてすでに信仰が持たれているのならば それでよいわけなのですが もう一歩すすめる必要はあります。  《わたしの神は こういうものです。これこれこういうふうに説明することが出来ます》と世界の人に説明すること これが求められていると考えます。時代の要請だと思います。そのためのこの哲学カテにおける質問になります。  《非知》をみとめてくれてありがとうございます。  世界の最先端をゆく哲学だと自負しています。普及が待ち遠しいです。  

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.31

no.27の続きです。 「非経験の場」は形而上世界と似ているところもあるけど、同じとは言えないことがわかりました。 ところで「非経験の場」は想定したもののもともと存在しない可能性もあるわけですよね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ところで「非経験の場」は想定したもののもともと存在しない可能性もあるわけですよね。  ☆ 捉え方がびみょうに違うと考えます。  《非知》は 知り得るか知り得ないかが 人間の能力では 知り得ないナゾです。  《存在するか存在しないか それを知ろうにも 知り得るか知り得ないかが 知り得ない》わけです。  したがって 《存在する可能性があるとか 存在しない可能性があるとか》の問題ではなく 《存在するという表現で非知を受け容れるか または存在しないという表現で受け容れるか》の問題になります。  やっぱり存在しなかったと あとになって分かるというようなナゾではないわけです。そんなものだったら ただの未知なるもの(経験事象)であるに過ぎません。未知が既知となったというに過ぎません。  神は どこまで行っても 非知です。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.30

説明してもらったが、残念ながら理解できなかった。 謎の何ものかの訪れとは一体どういうことだろうか。それを丸呑みするということはどういうことか。何かが来たのか。何かの感覚があったのか。それは主観内面におけることだろうか。 神が自らに宿ったとか、そういうニュアンスの事を言っているのだろうか。或いは神秘体験の一種だろうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 謎の何ものかの訪れとは一体どういうことだろうか。  ☆ よくこれまで 神がわが心の窓をノックするときとして説明していたものです。  別様に言えば 《神またはその一定の名前》が気に成って どうしようかとふと思う時 のような感じです。  ★ それを丸呑みするということはどういうことか。  ☆ 《おとづれ》を丸飲みするというよりは 神またはその名を丸飲みします。受け容れるという意味です。  つまり 気に成っていたわけですから。  そして ノックしているというように感じたなら それにこたえるという意味になります。  信仰の成る瞬間は 神の名を受け容れることについては 人間の側の意志行為ですが その相手は 非知であり非対象です。そのわづかなシルシとして 或る意味で親しんで来た神の名があるわけです。よし これを飲もうというように受け容れる行為になります。  平たく言えば よしこれに賭けようと思って――と言っても《これ》というのは 神の名だけであって何が何だか分からないのですが―― たとえば えいやあーっと言うかのように受け容れるという恰好です。  こばむという意志行為は そのまま神の名を棄てるものと思います。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.29

(う、え、お)あたりがよくわからない。信仰の成る瞬間は、それまで感じてきたその香りなどとは全く関係がない、その瞬間だけは次元が違っているとはどういうことだろうか。日々、(ここで言う)神の片鱗を主観的にであれ感じ取る故に、信仰の成り立つ土台の様なものが形成されるのではないかと思ったが。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ 信仰の成り立つ瞬間とその前後の過程         ビフォー                     アフター   ・神なる言葉を知った・・・          ・・・非思考の庭が成った   ・神の香りをおぼえた・・・          ・・・信仰は動態としてある   →_____________○_________________→                   信仰の成立                 (ナゾの何ものかのおとづれ=非知)                +(これを人が受け容れる=意志行為)   ☆ よって  ★ 信仰の成る瞬間は、それまで感じてきたその香りなどとは全く関係がない、その瞬間だけは次元が違っている  ☆ そして:  ★ 日々、(ここで言う)神の片鱗を主観的にであれ感じ取る故に、信仰の成り立つ土台の様なものが形成されるのではないかと思ったが。  ☆ ビフォーに起きた心の軌跡としての歴史と内容は アフターにも引き継がれます。よいものはすべて保たれて行きます。  ただし そのあいだに起きた信仰事件としての一瞬は そういった人間にかかわる出来事やその観念とは 無縁です。  わづかに その一瞬において人間のことがかかわるのは その《神またはその一定の名》を心に受け容れようとするわが意志行為です。  でも その意志行為にも《思考はない》というのは どういうことか?  言わば《賭け》のごとく ブラフマンならブラフマンという神をわが身とわが心とに丸飲みするというのが その意志行為です。(吐き出す場合をふくめて)。  信仰を形成するのは 《非知なるナゾ》とそれを飲み込むわが意志行為です。  信仰の基礎は 生まれたときからそなわった自然本性の内なる《非思考の庭》です。つまり 人間には分からない。  すなわち人間に分かっていることは アミターバ・ブッダという名の神を受け容れたというわが意志行為だけです。    ただし そのアフターの過程において さまざまに捉えてみて どうもビフォーにおいておぼえていた神の香りは どうもこの信仰という動態に関係しているようだとか 思い浮かぶようになるのだと思います。  主観は活かされたと思うでしょうね。  その土台は 分かりません。非知です。義無きを以って義とす。  この非知なる義 もしくは 非義 これが どうも 普遍神であるようだなぁと思うようになると思います。そのような理解は 仮りのものですが。  あとは 能天気。  能天気であるゆえに ヒラメキがあたえられます。  神のことが分かったわけではないけれど たぶん・どうもこのヒラメキの内容は すでに考えるの対象としての理論や思想を形成するのではあって しかも おそらく人間の真実を表わしているのではないかと思うヒラメキが少なくない。むろん 勘違いもあるだろうけれど。  というような世界の見方が――能天気のあたまに――考えつくようになります。

回答No.28

神の事を云々考えるより、自分の事を考えたほうが賢明かと思われます。 自分の意思で存在していないあなたはまず、自分の事を考えたほうが良いのでは? 1、自分自身がどのように存在するようになったのか? 2、何のために生きるのか? 3、死後どうなるのか? 的確な答えを出すことができないなら、神について考えても意味がないと思うよ・・・

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ 質問者は 無類のイヂワル好きで 口のわるいことは天下一品です。以後お見知りおきを願います。  さて たば4316さんが  ★ 的確な答えを出すことができない  ☆ のではありませんか?  わたしは答えをわたしなりに出していますから 人びとが神のことが分からないのはおかしいではないかという問いを掲げています。  趣旨説明欄のみっつの疑問について それぞれ疑問ではないというご回答でしょうか?  疑問は疑問だが それほど問題にするのもおかしい。つまり   ★ 自分の事を考えたほうが賢明かと思われます。  ☆ と。  だとしたら それはまづ たば4316さんが先にその賢明さの中身を明らかにして やっぱりおまえ(=質問者)は間違っているではないかと話をすすめていただかないと なかなか応えにくいかたちになっているかと思うのです。  どうでしょう。

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.27

no.22の続きです。   経験事象→  形而下 非経験の場→ 形而上 よく使われる言葉としては、このように理解すればよいですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  精確を期して辞書にあたってみました。:  ▲(コトバンク:形而上) ~~~~~~~~~~  https://kotobank.jp/word/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A-58854  デジタル大辞泉の解説  けいじ‐じょう〔‐ジヤウ〕【形×而上】  《「易経」繋辞上から》  1 形をもっていないもの。  2 哲学で、時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの。超自然的、理念的なもの。⇔形而下。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 引用はその中のひとつにとどめました。  わたしの定義では 《有無を超えていて 因果関係から自由な場ないしチカラ》ですが   ▲ 時間・空間の形式を制約とする感性を介した経験によっては認識できないもの  ☆ は 合っていると思います。また 《超自然的》も合致していると考えます。  問題は   ▲ 理念的なもの  ☆ です。どうですかねぇ。どうなんでしょう。  端的に言って 《イデア》は その核心の部分で非経験の場たる神に当たるかと言えば 当たる部分があるとこたえます。  ところが問題もあって イデアは 人間がこれを捉えあたかもその中身を理解した(または理解し得る)かのように解説するのではないかと考えます。  人間とこの世界は イデアの影であるとか何とかです。  基本的に言って 非経験の場は 絶対であり 経験世界とは絶対的なへだたりがある。です。  その意味では 非経験の場は《理念的なもの》であると最初に定義されるのは 困りますね。やっぱり思考にかかわっている概念は 困ります。《非知 そして 非思考》が基本なのですから。  《形而下》は 間違いなく経験事象のことを言っているはずです。  ただし 形而上とのツイ(対)で持ち出される場合には その形而上のほうについてやや警戒していなければならないというようなややこしさが付きまとうと思われます。    ので 形而上・形而下とも 極力使わないことにしています。

  • a_hona
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回答No.26

さらに例を持ち出すが、 吹き流れた風の向こうに永遠を見た、などと言う場合、彼は絶対の片鱗を感得した事になるのだろうか。 思ったのは、想定よりも先に、この様な感覚、質問者の言う香りが先立っているのではないかと言う事である。 その様な経験の積み重ねから、決して届かない場所、即ち非経験の場が想定されえたのではないだろうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 吹き流れた風の向こうに永遠を見た、などと言う場合、彼は絶対の片鱗を感得した事になるのだろうか。  ☆ 信仰としての非思考の庭は あくまで主観内面におさまります。(おさまると言ってよいかどうかさえが分からない想定に成るものです)。  ぎゃくにこの主観の内なる問題としてなら 何でも自由です。そしてそれが ほかの人たちにも当てはまるかどうか それは保証の限りではありません。  ただし 落としめているわけでもありません。神またはその名を心に受け容れるときのきっかけは 人によって千差万別です。あらゆることが きっかけに成り得ます。  まとめ:主観として《神を見た》なるたぐいの体験はつねにあり得る。と同時にそのことの普遍性は まだ保証されていない。永遠に保証され得ない。  ★ 思ったのは、想定よりも先に、この様な感覚、質問者の言う香りが先立っているのではないかと言う事である。  ☆ ええっとですね。  (あ) 《想定》は 時に関係なく誰がにも関係なく 考え方の上でそういう手続きがあったと見なしてよいであろうというものです。  (い) 神についての香りやおそれを催す感じなどは だいたいふつうに生活している場合には 信仰の成立に先立っていると考えられます。  (う) ただし 《神またはその名を心に受け容れる》瞬間は その前後に何が起きたか起きるかにいっさい関係なく成り立ちます。思考にあらずですし そのことはいっさいの経験的なものごととも関係がないことを表わします。  (え) 言いかえると 《吹き過ぎて行った風をとおして永遠なる感覚をおぼえ そこから絶対を知ったように思う》事件は 思考における理解としては大いに内容が重なっていますが それでも信仰の成る瞬間とはいっさい関係ありません。  (お) 信仰が成ったと思った瞬間のあとに あぁ この事件が起きたということは それまでに考えて来たことや感じて来たことと 内容が一致するところが多い・・・と捉え返すということはあり得ます。言いかえると 信仰の瞬間だけは 言わば次元が違っているということではないかと捉えます。  ★ その様な経験の積み重ねから、決して届かない場所、即ち非経験の場が想定されえたのではないだろうか。  ☆ それも ひとつの手続き上に経て来た過程であるかも分かりません。  ただし《想定》は すでにそういったいろんな経験内容からむしろ離れて(あるいは 離れる必要はなく 経験事実を抽象化して) こういうことではないかと煮詰めて行って得た内容だと考えます。  つまり 非経験の場は 単純なかたちでみちびけます。  経験的にものごとが有るか無いかを認識するのが つねなのですが この有る無しを超えているところを想像し想定すればよいからです。  (倫理をからめれば 善悪の彼岸といった想定になりますね)。  もうひとつ補強するのには ものごとの原因と結果の関係(あるいはそれらの多様な錯綜)からいっさい自由な場ないしチカラ これを想像し想定する。ということになります。  タイムスリップといったことを言いますが それよりもさらにまったく絶対的に次元の違う自由な場のことです。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.25

B様、こんばんは。 このご質問を見て、 やはり「信教の自由」という問題なのだという、感慨を得るのは、可笑しいでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 おかしい。  そんなことは 言わずと知れた大前提。  ご回答をありがとうございます。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.24

人智を超えたものは山ほどあるだろうが、一般に人は人智を超えたものをおそれる。古代に比べて現代はそれほどでもないかも知れないが、神も例外ではない。 神の名を巡る人々の様々な経験というのは、具体的にはどういう事を言うのだろうか。神の香りとは一体なんの事か。 例えば季節の変わり目に風が吹く。 この風にある者は神を感じたとしよう。これは一つの経験である。上述の経験とはこの様な事をいうのか。 またある者は、この同じ風に吹かれ、季節の変わり目になる風だと感じ、それ以上何も思わなかったとしよう。これも一つの経験である。風が吹くと言う一つの事象について其々の経験があるわけである。 神の名についての様々な経験というのは、この様に人それぞれにあるもので、中には神と言う呼称が流通しているのを認めても、神を感じないという者もあるのではないだろうかと考えるが。それともそう言う事ではないのだろうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 人智を超えたものは山ほどあるだろうが  ☆ ここでは 《非経験の場 = 非知なるナゾ》に限っています。  最初のお約束としては 《絶対》であることが前提です。  ★ 一般に人は人智を超えたものをおそれる。  ☆ 神をめぐる《おそれ》は 何が何だか分からない不安にかられ危険が及びはしないかという恐れもありますが この香り・このうつくしさ・この神々しさは何だ――昔なら かしこし――と言って抱いたところの畏れもあります。    ★ 例えば季節の変わり目に風が吹く。 / この風にある者は神を感じたとしよう。これは一つの経験である。  ☆ これは 神についての《かしこき(可畏き)》感じでしょうね。  ★ またある者は、この同じ風に吹かれ、季節の変わり目になる風だと感じ、それ以上何も思わなかったとしよう。これも一つの経験である。  ☆ それはそれだけのことです。  もしそれによって おれは神は要らんわいという選択をしたのなら それも神を無い神として受け容れたということです。  ★ 神を感じないという者もあるのではないだろうか  ☆ もちろんです。そして 事態が変わることはありません。  いまの神論が そのまま持ちこたえています。

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