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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人びとはなぜ神のことが分からないのか)

人びとはなぜ神のことが分からないのか

このQ&Aのポイント
  • 神などはいるもんかと言う。しかし、絶対な存在である神は存在の有無によっては決まらない。
  • 人間が神を作り出した存在と言う。しかし、もし神が人間によって作られたのであれば、神は人間の操り人形に過ぎない。
  • 神は精神であると言う。しかし、この有限で相対的な経験事象である人間の存在からは、絶対的な神の存在を理解することはできない。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.23

bragelonneさん こんばんは。 bragelonneジジイの挑発にのって、哲学カテで論争するつもりは、さらさらないですが、回答します。 私は既存宗教は肯定する立場です。はっきり言うとbragelonne哲学なるものは、各宗教を、無神論も含めて無理やり、一つにしようとする企てをする、急進的すぎる考えと思ってます。 しかし、神や仏という、超越的存在を認める点では、同じ立場です。 ジョン・レノンの Imagine に 「Nothing to kill or die for And religion too♪」(死んだり殺したり理由もない、宗教もない世界)を創造してごらん。 という歌詞があり、確かにこのカテのyuniko99さんが求めているような理想社会のようにも感じますが、私は現在という時点においては、この考えは時期尚早と思ってます。 私はbragelonneさんのような、宗教の一元化より多様性というものを尊重します。 世界はインターネットで結ばれグローバル化し、ひとつになるように思われますが、私は、このような世界だからこそ、世界中の各民族は、長い歴史により育まれた、文化的な独自性という個性を打ち出す多様的世界になるほうが良いと思っています。 この歴史の積み重ねという文化というものは、現在、影響が衰えていようが、宗教というものが密接に関わり切り離すことができないと思います。 日本においても、古くは日本の豊かな自然から生まれたと思われる「新道」、また飛鳥時代に朝鮮という海外から取り入れた「仏教」、安土桃山時代にザビエルが伝えた「キリスト教」など、これらの宗教は、海外から伝わったものは種という形でも、日本人の寛容な豊かな「土壌」に育まれ成長し、日本固有の宗教的花を咲かせているものと私は思います。 日本人の1%くらいしか信者のいない、キリスト教は根付いてないと反論する方もいるかも知れませんが、大浦天主堂を含む、長崎のキリスト教会群がユネスコの世界遺産に登録されたことに反対する日本人は、少ないと思います。 私は、何度も回答しているように神や仏という超越的なものを信じることは、「畏れ敬う」という謙虚なへりくだりの気持ちに自己が至るのに必要と思います。 そして、そのような気持ちで他人と接すれば、キリスト教の「愛」や、仏教の「慈悲」といった、思いやりの心が芽生えると思います。 そして他人からの「愛」や「慈悲」に触れた時、キリスト教では、神は心に宿るといわれ、仏教では「一切衆生悉仏性」と言われるように、相手の「心」に、神や仏が見えるのではないかと思っています。人は相手の心に神や仏を見て信仰に至るのかもしれません。 それゆえに、日本の「一期一会」の精神は大事にしなければいけないと私は思っています。 私が、科学に対し辛らつな発言を繰り返しているのは、確かに科学は人間の手で自然を改良し利便性を生み出すことは有効な手段です。しかし、現在の日本を見ると、科学の発達で利便性が行き届き、他人と手をそんなに借りなくても、孤独にさいなわれながらでも、個人でも生きてゆけるようになり、コミュニケーションが希薄化することです。 これは、17世紀にすでに、科学が発達し自然を支配することが進むと、科学技術を悪いことに使ったり、無駄な贅沢心を起こさせるという科学の発展に疑問を持つ人がいて、イギリスのフランシス・ベーコンは、著作「ノヴム・オルガヌム」で 「健全な理性と、本当の宗教が、それの調整に当たるから心配ない。」 としてますが、現在の社会においては、ベーコンの考えは古すぎ改めないのではないでしょうか。 bragelonneさんは神や仏という超越的存在と私という「縦の関係」を重視して質問を繰り返しているように私は思いますが、神や仏を信ずるなら、人間同士の他人という「横の関係」いわゆる、実践というものが大切で、信じるなら自然と出てくるものと思います。 いつぞや、bragelonneさんとの、このような、やり取りより、東日本大震災にボランティアに行っている無神論者のほうが、神や仏に近い人と言ったのは、この実践のことです。 bragelonne哲学の、お二階さんは取り壊し、江戸時代の長屋のような平屋立ての井戸付きにするべきと私は思います。 そして、江戸時代の職人のように、普段はまじめに働くが、お伊勢詣りに数ヶ月休養を取り、リニヤモターカー開発はやめ、江ノ島電鉄(江ノ電)を全国に張り巡らしで行く。 江ノ電のスピードメーター計を見たことありますか? 最高速度80キロのメーターです。東京の私鉄の電車だって、現在120キロのスピードで走っています。 こんなインターネット社会で高速で情報が飛び交う中、私は江ノ電に乗るとほっとしますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 各宗教を、無神論も含めて無理やり、一つにしようとする企て  ☆ 《ひとつにする》のではなく シュウキョウはすべて解体するつもりです。  ★ 宗教の一元化より多様性  ☆ シュウキョウは 肝心要のところでは 一元化というより《画一化》です。一人ひとりの顔を無くそうとするタクラミです。  多様性は 信仰によって現われ出ます。なぜなら 信仰は 非思考の庭として成っている動態であって 思考や感性として現われるのは 信仰そのものではなく まさに思考の緑野や感性の原野としてであるからです。  それに ブラフマンやらヤハヱ―やらアミターバ・ブッダやらと 名前にもその土地の文化が現われ まさに多様性を呈しています。  これを画一化するのは シュウキョウなのです。考えるの対象であるオシへをそのまま信じろと言うのですから 十把一絡げなのです。  ★ これらの宗教は、海外から伝わったものは種という形でも、日本人の寛容な豊かな「土壌」に育まれ成長し、日本固有の宗教的花を咲かせているものと私は思います。  ☆ というふうにシュウキョウが生き延びて来たのは わづかに前回に話題となった《秩序》の問題です。  取りあえずの集団にとっての秩序 これを優先させるときには 個人の信仰よりも集団に共通のオシへとそれをとおしての秩序の維持 これが よしと見なされて来たというこれまでの歴史です。もうそのシュウキョウの時代は おしまいです。    ★ 私は、何度も回答しているように神や仏という超越的なものを信じることは、「畏れ敬う」という謙虚なへりくだりの気持ちに自己が至るのに必要と思います。  ☆ そのためにシュウキョウは 百害あって一利なしです。みんな同じ顔をするために集まっているんでしょ? そんなものは要りません。  ★ そして他人からの「愛」や「慈悲」に触れた時、キリスト教では、神は心に宿るといわれ、仏教では「一切衆生悉有仏性」と言われるように、相手の「心」に、神や仏が見えるのではないかと思っています。人は相手の心に神や仏を見て信仰に至るのかもしれません。  ☆ ほらごらんなさい。信仰の問題です。シュウキョウよ さようなら。  ★ bragelonne哲学の、お二階さんは取り壊し、江戸時代の長屋のような平屋立ての井戸付きにするべきと私は思います。  ☆ それには ヒエラルキアとオシへから自由にならなくっちゃ。一人ひとりがです。旗振り役は 要らない。みなが一人ひとり自分で旗を振って行きます。  シュウキョウよ さらば。

bragelonne
質問者

補足

 江ノ電〔が基調となる〕社会にのぞみを見つつ これからの展開を前もって祝いつつ。⇒BA。

その他の回答 (32)

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.2

>人びとはどうして神のことが分からないのか? ・世界の宗教において、キリスト教、イスラム教等では『神』に対する崇拝である。 ・日本において、各地に大小様々な社があり、祀られているものは『神』である。 多くの日本人は、初詣をはじめとして様々な行事に神社へ詣でて祈願をします。 そういうことを考慮すると、“多くの人々は、『神』の存在を信じている”ということになる。ということは、“漠然ながらも『神』という存在を知っている(分かっている)”ということになる。 したがって、質問者様の設問は『愚問』ということになる。 若しくは、質問者様のいう『神』と多くの民が信奉する『神』が別の存在だとするとまた違ってくるが。 質問者様の見識からすれば、もう既に『神』というものが何であるか確定できるものであると思いますが。何も人間界まで降りてきて、どうこう言うまでもなかろうと思いますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 若しくは、質問者様のいう『神』と多くの民が信奉する『神』が別の存在だとするとまた違ってくるが。  ☆ そう決まったわけではありませんが この可能性はまだあると思うのです。  その例として みっつ挙げています。  ★ ・世界の宗教において、キリスト教、イスラム教等では『神』に対する崇拝である。  ☆ イスラームについては まだそれほどよくは知られていないと思います。  キリスト教については ところが:  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~  2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。  3. 神は 精神だと言う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この二つの疑問については まだ消されてはいないと思うのです。むろん《神を信じる》ということは言っているにはいますが。  でもその反証をひとつ挙げますと 人びとはよく《キリスト教を信じる》という言い方をするのです。オシへは人間が考えるものであって 無条件に受け容れる(すなわち信じる)ものではありません。やっぱりおかしなことがあるのだと思います。  ★ ・日本において、各地に大小様々な社があり、祀られているものは『神』である。 / 多くの日本人は、初詣をはじめとして様々な行事に神社へ詣でて祈願をします。  ☆  この点は おおよそその通りだと思っています。言いかえると 神のことをどう説明すればよいかはたぶん分からないだろうけれど 現実に信じているということはあり得ていると思われます。  ということは 神とは何かについて きちんと自分の言葉で説明することができるようになると なおよいと考えます。  そういう意味では もうひと押し この質問をとおして押してみたいと思っています。  取りあえずは 三つのおかしな事例をめぐって なお質問を続けたいと考えます。

  • lucky1267
  • ベストアンサー率44% (449/1019)
回答No.1

神 貧乏神・疫病神・福の神・救いの神などなどいますね。 だけど目に見えますか? たまに信仰(宗教)じみた方々が見えると言いますが、実際にはどうでしょう? 強いて言えば「神」 それは己の心の中にいるものではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 らっきー267さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  取っ掛かりは 取りあえず趣旨説明欄の三つの疑問 これが問題ですが すでに  ★ 強いて言えば「神」 / それは己の心の中にいるものではないでしょうか?  ☆ とおっしゃってもらっています。  ということは このことの確認から入るとよいでしょうか。  たぶん その命題についてさらに・つまり  ★ だけど目に見えますか?  ☆ というように目に見えないというだけではなく 神は《考える》の対象ではないと言う必要があると思います。  それは 趣旨説明欄の(3)《神は 精神である》のではないとはっきりさせる必要があるということだと考えます。  といった細かい確認をもこの質問でのやり取りをとおして おこなって行きたいと思っていますが どうでしょう。  げんみつに言うと 神は 心の眼にも見えないはずなのだと思います。  なお  ★ 貧乏神・疫病神・福の神・救いの神などなどいますね。  ☆ につきましては 人びとの心的現象や社会現象についてのナラハシの中に《神》という言葉で比喩的に表わしている場合があるのだと思います。  さもなければ――つまり ほんものの神だとすれば――それは ひとつなる神(普遍神)のそれぞれ分身なのだと捉えます。  そういう説明をもきちんとして行くのがよいと考えています。

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