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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人びとはなぜ神のことが分からないのか)

人びとはなぜ神のことが分からないのか

このQ&Aのポイント
  • 神などはいるもんかと言う。しかし、絶対な存在である神は存在の有無によっては決まらない。
  • 人間が神を作り出した存在と言う。しかし、もし神が人間によって作られたのであれば、神は人間の操り人形に過ぎない。
  • 神は精神であると言う。しかし、この有限で相対的な経験事象である人間の存在からは、絶対的な神の存在を理解することはできない。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.23

bragelonneさん こんばんは。 bragelonneジジイの挑発にのって、哲学カテで論争するつもりは、さらさらないですが、回答します。 私は既存宗教は肯定する立場です。はっきり言うとbragelonne哲学なるものは、各宗教を、無神論も含めて無理やり、一つにしようとする企てをする、急進的すぎる考えと思ってます。 しかし、神や仏という、超越的存在を認める点では、同じ立場です。 ジョン・レノンの Imagine に 「Nothing to kill or die for And religion too♪」(死んだり殺したり理由もない、宗教もない世界)を創造してごらん。 という歌詞があり、確かにこのカテのyuniko99さんが求めているような理想社会のようにも感じますが、私は現在という時点においては、この考えは時期尚早と思ってます。 私はbragelonneさんのような、宗教の一元化より多様性というものを尊重します。 世界はインターネットで結ばれグローバル化し、ひとつになるように思われますが、私は、このような世界だからこそ、世界中の各民族は、長い歴史により育まれた、文化的な独自性という個性を打ち出す多様的世界になるほうが良いと思っています。 この歴史の積み重ねという文化というものは、現在、影響が衰えていようが、宗教というものが密接に関わり切り離すことができないと思います。 日本においても、古くは日本の豊かな自然から生まれたと思われる「新道」、また飛鳥時代に朝鮮という海外から取り入れた「仏教」、安土桃山時代にザビエルが伝えた「キリスト教」など、これらの宗教は、海外から伝わったものは種という形でも、日本人の寛容な豊かな「土壌」に育まれ成長し、日本固有の宗教的花を咲かせているものと私は思います。 日本人の1%くらいしか信者のいない、キリスト教は根付いてないと反論する方もいるかも知れませんが、大浦天主堂を含む、長崎のキリスト教会群がユネスコの世界遺産に登録されたことに反対する日本人は、少ないと思います。 私は、何度も回答しているように神や仏という超越的なものを信じることは、「畏れ敬う」という謙虚なへりくだりの気持ちに自己が至るのに必要と思います。 そして、そのような気持ちで他人と接すれば、キリスト教の「愛」や、仏教の「慈悲」といった、思いやりの心が芽生えると思います。 そして他人からの「愛」や「慈悲」に触れた時、キリスト教では、神は心に宿るといわれ、仏教では「一切衆生悉仏性」と言われるように、相手の「心」に、神や仏が見えるのではないかと思っています。人は相手の心に神や仏を見て信仰に至るのかもしれません。 それゆえに、日本の「一期一会」の精神は大事にしなければいけないと私は思っています。 私が、科学に対し辛らつな発言を繰り返しているのは、確かに科学は人間の手で自然を改良し利便性を生み出すことは有効な手段です。しかし、現在の日本を見ると、科学の発達で利便性が行き届き、他人と手をそんなに借りなくても、孤独にさいなわれながらでも、個人でも生きてゆけるようになり、コミュニケーションが希薄化することです。 これは、17世紀にすでに、科学が発達し自然を支配することが進むと、科学技術を悪いことに使ったり、無駄な贅沢心を起こさせるという科学の発展に疑問を持つ人がいて、イギリスのフランシス・ベーコンは、著作「ノヴム・オルガヌム」で 「健全な理性と、本当の宗教が、それの調整に当たるから心配ない。」 としてますが、現在の社会においては、ベーコンの考えは古すぎ改めないのではないでしょうか。 bragelonneさんは神や仏という超越的存在と私という「縦の関係」を重視して質問を繰り返しているように私は思いますが、神や仏を信ずるなら、人間同士の他人という「横の関係」いわゆる、実践というものが大切で、信じるなら自然と出てくるものと思います。 いつぞや、bragelonneさんとの、このような、やり取りより、東日本大震災にボランティアに行っている無神論者のほうが、神や仏に近い人と言ったのは、この実践のことです。 bragelonne哲学の、お二階さんは取り壊し、江戸時代の長屋のような平屋立ての井戸付きにするべきと私は思います。 そして、江戸時代の職人のように、普段はまじめに働くが、お伊勢詣りに数ヶ月休養を取り、リニヤモターカー開発はやめ、江ノ島電鉄(江ノ電)を全国に張り巡らしで行く。 江ノ電のスピードメーター計を見たことありますか? 最高速度80キロのメーターです。東京の私鉄の電車だって、現在120キロのスピードで走っています。 こんなインターネット社会で高速で情報が飛び交う中、私は江ノ電に乗るとほっとしますよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 各宗教を、無神論も含めて無理やり、一つにしようとする企て  ☆ 《ひとつにする》のではなく シュウキョウはすべて解体するつもりです。  ★ 宗教の一元化より多様性  ☆ シュウキョウは 肝心要のところでは 一元化というより《画一化》です。一人ひとりの顔を無くそうとするタクラミです。  多様性は 信仰によって現われ出ます。なぜなら 信仰は 非思考の庭として成っている動態であって 思考や感性として現われるのは 信仰そのものではなく まさに思考の緑野や感性の原野としてであるからです。  それに ブラフマンやらヤハヱ―やらアミターバ・ブッダやらと 名前にもその土地の文化が現われ まさに多様性を呈しています。  これを画一化するのは シュウキョウなのです。考えるの対象であるオシへをそのまま信じろと言うのですから 十把一絡げなのです。  ★ これらの宗教は、海外から伝わったものは種という形でも、日本人の寛容な豊かな「土壌」に育まれ成長し、日本固有の宗教的花を咲かせているものと私は思います。  ☆ というふうにシュウキョウが生き延びて来たのは わづかに前回に話題となった《秩序》の問題です。  取りあえずの集団にとっての秩序 これを優先させるときには 個人の信仰よりも集団に共通のオシへとそれをとおしての秩序の維持 これが よしと見なされて来たというこれまでの歴史です。もうそのシュウキョウの時代は おしまいです。    ★ 私は、何度も回答しているように神や仏という超越的なものを信じることは、「畏れ敬う」という謙虚なへりくだりの気持ちに自己が至るのに必要と思います。  ☆ そのためにシュウキョウは 百害あって一利なしです。みんな同じ顔をするために集まっているんでしょ? そんなものは要りません。  ★ そして他人からの「愛」や「慈悲」に触れた時、キリスト教では、神は心に宿るといわれ、仏教では「一切衆生悉有仏性」と言われるように、相手の「心」に、神や仏が見えるのではないかと思っています。人は相手の心に神や仏を見て信仰に至るのかもしれません。  ☆ ほらごらんなさい。信仰の問題です。シュウキョウよ さようなら。  ★ bragelonne哲学の、お二階さんは取り壊し、江戸時代の長屋のような平屋立ての井戸付きにするべきと私は思います。  ☆ それには ヒエラルキアとオシへから自由にならなくっちゃ。一人ひとりがです。旗振り役は 要らない。みなが一人ひとり自分で旗を振って行きます。  シュウキョウよ さらば。

bragelonne
質問者

補足

 江ノ電〔が基調となる〕社会にのぞみを見つつ これからの展開を前もって祝いつつ。⇒BA。

その他の回答 (32)

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.22

no.17の続きです。 >初めから 信仰の問題ではなくなっています。 私は信仰の問題ではなくて、信仰抜きで神様の存在を考える話だと思っていました。 経験世界というか現実世界というか、に神様が存在するのか?という話だと思っていました。それで生物進化の上から神の存在はどのように考えられるかという話も以前しました。 もし、信仰の問題ということですと話はすっかり違ってきます。 私は1人1神様説、つまり1人1信仰世界説です。 bragelonneがどんな信仰世界観を持とうとご自身の自由です。 そして、お互いにお互いの信仰世界観を尊重するべきであると考えます。 他人の信仰世界観に口をはさむべきでないと考えます。 ケチをつければ争いのもとだからです。 ただ、この説は問題があってつきつめて考えてみると欺瞞的になってしまう。 1人に1世界ということは、どれが本当の世界ということはないのか? 各人の心の中だけの空想の世界ではないのかと。 でも、空想だと認めるなら、それは信仰を捨てたことになります。 別の言い方をするなら他人の信仰世界を認めたとき、それは自分の信仰世界を捨てたことになる。 ですから、どこまでも自分の信仰をつきつめた時、他人と争うことになる。 bragelonneさんは遠慮なく正直に自分の信仰を告白している。 しかし、それは他人との争いのもとになる。 ここらへんが難しいところと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  哲学は あらゆる問題に首をつっこみます。世界のどんなものごとについても 普遍的な認識を得ようとします。それによって 人びとのあいだの意志疎通における混乱を交通整理します。  神あるいは〔神とわれとの関係としての〕信仰 これについても哲学は尻込みしません。  《認識とその対象》という視点を切り口として 神を定義づければ 次のように《非経験の場 ないし その認識にとってのあり方としての 非知なるナゾ》と成ります。  ○ 人間の認識にとっての対象を分類   経験事象     可知       既知       未知     不可知 (知り得ないと知った経験事象)   非経験の場 (有無を超えており因果関係から自由な場ないしチカラを想定)     非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  ☆ この《非経験の場 = 非知》は 神について誰もがみとめざるを得ない普遍的な定義です。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.21

希望的観測という言葉には、字義通り観測者の希望が混じっている。これを想定と言い直すことで、それを除外することになる。つまり、観測者が望もうと望むまいと、神のあり方には関わらないということである。想定された神を信じるには、ある程度の期待が必要かと思い、希望的観測という言葉を用いたが、もし、神に希望するところがないとするならば、その想定されたいわば「無印の神」を信じる動機というのは何処にあることになるのだろうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いえいえ。《希望》が混じる混じらないにかかわらず 《観測》が 神のついては馴染まないのです。神にとって思考や想像は 基本的に別物であると考えます。  (ただし 想定し定義するときに とうぜんそのためには考えることをおこないます。枠組みのようなもので説明することになります。  ですが 神が何である・どうであるといったことについては いっさい考える・推測する・想像することは お呼びでありません。してもかまいませんが そのことが神を規定することはあり得ません)。  ★ つまり、観測者が望もうと望むまいと、神のあり方には関わらないということである。  ☆ そのことは そうですが 初めの想定ないし定義にはかかわりません。そして最初の想定から 人間が妥当と思うかぎりでやはり派生的な想定をも成します。  これも 想定という大前提の上に立ってでありその範囲内でのことです。その意味でゆるされます。少なくとも多くの人たちは ゆるされる範囲内だと思って 人間の自然本性〔ぷらす・アルファ〕の中に アートマンと呼ぶ霊我がやどるといったことを 派生的にどしどし想定して行きます。  ★ 想定された神を信じるには、ある程度の期待が必要かと思い、希望的観測という言葉を用いたが、もし、神に希望するところがないとするならば、その想定されたいわば「無印の神」を信じる動機というのは何処にあることになるのだろうか。  ☆ たしかに《無印の神》が わたしの考えでは 正解です。(そういう捉え方としてです)。  つまりは 《非知なるナゾ》であり これをわが心に受け容れたときには 自然本性+αとして《非思考の庭》が成ります。そういう想定〔の続編〕です。  非思考ないし非知が どこまでも有効です。  つまり言いかえると 《期待》も《希望》も《観測》もおこなってもかまいませんが そのことと神の定義とは何の関係もありません。《思考にあらず》がつらぬかれます。  ★ その想定されたいわば「無印の神」を信じる動機というのは何処にあることになるのだろうか。  ☆ どの民族のどの言語にも《かみ》という言葉が持たれているということ この事実に誰もが《わたし》としてかかわっている。これが もしそうとすれば 《動機》です。  つまり 《無印》と言いましたが――非知であり非思考であるからですが―― ただし《かみ》もしくは《かみについての一定の名》は わづかに《しるし》となります。  ブラフマンという神の名が 《無印の神》のシルシになります。《依り代・仮りのシルシ・補助線》として はたらきます。  ですから 神を受け容れるというのは 神もしくはその名を心に受け容れるということであり この受け容れは 人間の経験的な意志行為です。  なぜ受け容れるか? あるいは こばむか?  けっきょく《かみ もしくは その名》を生活の中で耳にしているという経験をとおして人びとは 神をめぐって何らかの意味合いをそれぞれ自由に持つようになります。   別の言い方をすれば この名をめぐってほかの人びとのいろんな経験を聞くにおよんで 言わば《神の香り》を嗅ぎ取るようになるのだと考えます。  なぜなら 一般に《おそれ》を感じるからです。  《絶対》といった概念によっても説明され得るわけですから その概念的な理解がきちんとは行かなくとも けっこう雰囲気やら香りをかもし出しているのを嗅ぎ取るようになると思われます。  このような《神という言葉》をめぐる・幼い時からの体験が 動機に成ると言えば成るのだと思われます。  * 《絶対》などの概念による説明が一定の理解をあたえるではないか?  そうですが その理解にしたところで けっきょく人間の知性を超えた場ないしチカラだとして理解することになります。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.20

用語に厳密さを持たすために、質問者が書き直す前の私の回答は、およそ質問者の神論に沿っていた、という理解で良いのだろうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 希望的観測  ☆ これが 問題だと思いました。  あとは 用語の厳密さや表現のニュアンスの問題だと考えます。  《想定》というふうにわたしは書き直します。  どうでしょう。  観測にしても想像にしてもいっさいの思考をおよぼすことはないかたちで 想定し 距離をもって神ないし信仰のことを捉えている恰好だと思います。

回答No.19

bragelonneさん おはようございます。 教えてgooで50件もの、かなり回答を集めたようですが、まだ答えがでないのですか? キリスト教には、神の霊と、人の霊と、悪魔の霊が存在し、どの霊によるものか、分別するように、言われてますが、今回は人の霊で回答します。 なぜ、人が神を肯定したかの、ひとつに「秩序」というものがあると思います。アウグスティヌスも「秩序」という著作を書いてます。 この宗教的な「秩序」という考えは、時の権力者が国を治めるのに、昔は政治的に必須であったと思われます。 西洋ではキリスト教が採用されましたが、日本では神道や仏教が長らく採用され人口に膾炙しました。 しかし、政治と結びついたため、例えば西洋においては十字軍が起きたり、日本でも天皇を頂点とする、神道は第二次世界大戦を起こすという、政治的な負の側面がおこり、その罪を、政治ではなく宗教の方にかぶせ、あたかも宗教的思想が悪いのだという認識を引き起こしているものと思います。 なぜ、現在において宗教が衰え希薄になっているかは、私は、昔のように、国王や天皇を頂点とする「秩序」というヒエラルキーがいらなくなったのも、ひとつの原因ではと思ってます。 ちょっと脱線しますが、これは19世紀における西洋の事情を学んでいると面白いですが、キリスト教は20世紀の第二次バチカン公会議でガリレオを許すなど、宣教路線に舵を切りましたが、19世紀においては、古い考えに固執するキリスト教に市民は辟易として、ニーチェは神は死んだなどと発言しました。しかしこの当事の時代背景として、労働者階級が啓蒙思想を受け、権力者を脅かす存在となりつつあるという事情がありました。 マルクスやエンゲルスは、労働者階級を擁護するため、史的唯物論における共産党宣言を考えましたが、当時のドイツの国王ヴィルヘルム1世は労働者階級の火消しに躍起となり、マルクスの思想に結びつく、ヘーゲルの弁証法を隠蔽するために、ウィンデルバルトやリッケルトの新カント派やフッサールの現象学の新しい哲学を擁護したそうです。 ですから哲学の流行も「秩序」というものに結びついていると思われます。 教えてgooを含め、議論は出尽くしていると思いますので、ちょっと視点を変えた回答をしましたが、神様、仏様を信ずるかは、神の子とされるが、人間として生きたイエスや、仏様である仏陀、あるいは、イスラム教のマホメットが本当にいたということを信じるのが、信仰の第一歩ではと思います。 現在の科学万能の世の中で非科学的な奇跡を起こしたイエスなど信じないという人も多いでしょう。しかし、これらの数千年前に生きた人間が、本当に歴史的に生きた証拠はどこに求めますか?人間的解釈すると歴史的文献でしょうか?後世の人により捏造されているかもしれません。 それでも、人々が、数千年にわたり信仰するのは、人間としてあるべきの真理が書かれてあるため人々により子孫に伝えられ、上述のように単に権力者が求めた秩序の維持だけが原因ではないと思います。 科学万能主義の現在において、無神論の科学者も増えてますが、NHKのクローズアップ現代で放送されてましたが、博士課程を卒業しても就労先がなく、日本の最低賃金以下の、月1万5千円で研究室で研究しているポスドクがいるそうです。博士になったというプライドから、仕事として自分を落とすことが出来ないのでしょう。 また、STAP細胞事件の責任者であった、理化学研究所の笹井副センター長は、36歳で京都大学教授になったそうですが、神も仏も信じないエリートの末路を思わせます。 私は、宗教的、哲学的土台なしに学問の塔は建てられないと思ってます。 では、外出しますが、お礼をお待ちしてます。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます あめんほてぷ2000さん。ご回答をありがとうございます。  ★ 教えてgooで50件もの、かなり回答を集めたようですが、まだ答えがでないのですか?  ☆ そうさねぇ。わたしの答えは この趣旨説明の額面のままの問いに対する答えから先にすすんで とうぜんの如く 神についての妥当な想定的定義を問い求めそれを得ることです。  ですが いま特には この神論というのは 別の見方としては 人それぞれとの対話をとおして それぞれの人が自分の答えを見出すこと ここに照準を当ててみようというのが こちらにも挙げたキッカケであり動機です。  人一人ひとりが違うというように思い知らされたと言いましょうか。  ★ キリスト教には、神の霊と、人の霊と、悪魔の霊が存在し、どの霊によるものか、分別するように、言われてますが、今回は人の霊で回答します。  ☆ よく分かりませんが どうぞ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  なぜ、人が神を肯定したかの、ひとつに「秩序」というものがあると思います。アウグスティヌスも「秩序」という著作を書いてます。  この宗教的な「秩序」という考えは、時の権力者が国を治めるのに、昔は政治的に必須であったと思われます。  西洋ではキリスト教が採用されましたが、日本では神道や仏教が長らく採用され人口に膾炙しました。  しかし、政治と結びついたため、例えば西洋においては十字軍が起きたり、日本でも天皇を頂点とする、神道は第二次世界大戦を起こすという、政治的な負の側面がおこり、その罪を、政治ではなく宗教の方にかぶせ、あたかも宗教的思想が悪いのだという認識を引き起こしているものと思います。  なぜ、現在において宗教が衰え希薄になっているかは、私は、昔のように、国王や天皇を頂点とする「秩序」というヒエラルキーがいらなくなったのも、ひとつの原因ではと思ってます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なおよく分かりませんが 二点思ったことを述べます。  ★ 神を肯定した  ☆ これは 個人にとっての――その主観の内からほんとうは外に出かけないはずの――信仰のほかに 集団にとっての・オシへとしてのシュウキョウ これを《肯定した》かどうかということだろうと考えます。  すなわち 集団としての秩序を保つためということです。かんたんに捉えるなら 社会生活上のナラハシやオキテあるいはつまり 実質的に法律にあたるかたちでいわゆる公権力が付与された(処罰をともなう)取り決めとしてのそれら この中に神ないしシュウキョウが要請されつつ入れられていた。といったことでしょう。  もう一点は:この秩序を曲りなりにも保っていたと思われるシュウキョウ〔のオシへとしての神〕が 人びとにとってよそよそしいものと成った。うとまれるように成った。それは なぜか?  これは 当然でしょうね。歴史としての必然だと言えます。  社会の共同自治というのは 個人としての自治(自己愛)どうしの――対立やいさかいを含む――関係過程でしかないゆえです。オキテや法律に頼るのは ほんとうの自治ではない。ぎゃくに言うと 神は 主観の内にしかない。  もうひとつに 秩序を曲りなりにも保とうとして来たシュウキョウ〔およびそれの政治との協働・わるく言えば癒着〕が いつまで経っても 二階建てのヒエラルキアの上にのっかって生きているゆえです。  一階の人びとと接するにも けっきょくお二階さんの顔を引っ提げて振る舞っている。直らない。ゆえです。  ★ 第二次バチカン公会議でガリレオを許す  ☆ ん? そうではなく ガリレオにあやまったのではないの?  ★ ニーチェ  ☆ 好かん。どうでもよろしい。ヘーゲルがすでに言っていた。  ★ ですから哲学の流行も「秩序」というものに結びついていると思われます。  ☆ その側面は どうでもよいと考えます。中身が問題。中身を問題にしていればよいという考えです。  ★ 神様、仏様を信ずるかは、神の子とされるが、人間として生きたイエスや、仏様である仏陀、あるいは、イスラム教のマホメットが本当にいたということを信じるのが、信仰の第一歩ではと思います。  ☆ 何だか ぢぢくさいことを言っていますね。よう分からんわい。  ★ それでも、人々が、数千年にわたり信仰するのは、人間としてあるべきの真理が書かれてあるため人々により子孫に伝えられ、上述のように単に権力者が求めた秩序の維持だけが原因ではないと思います。  ☆ 権力と秩序の問題とは別に哲学思想をあつかうこと これが 中身で勝負という姿勢だと思います。  権力をも問題にするのは その思考の方法や形式を取り上げて批判する場合です。  《真理》は 軽々と口にしてはなりません。定義や説明のある文脈において触れるべきです。つまり それが 神とは何か? です。あるいは 具体的な問題としては 神は何でないか? の問い求めです。たとえば 《精神ではない / 人間の創作ではない / 存在するしないはそれを人間が決めても無意味》などなどです。  ポスドクの問題は しらべておらず何とも言えない立ち場ですが ひとつには 本人は好きでやっているのだということも考慮に入れて見てやると かえってその人たちは 気が楽に成るのでは?  ★ 私は、宗教的、哲学的土台なしに学問の塔は建てられないと思ってます。  ★ 教えてgooを含め、議論は出尽くしていると思います  ☆ この二つの判断を合わせて考えるに goo のほうのやり取りを読んだとすれば 何がどう・かにがこうといった批評とそして自分の結論を述べてもいいのではないか。  つまり いやいや 議論の結着はおおむねついていると見るのなら ひとつに・まづ 自分の神論はこうであるとまとめた文章を明らかにすること もうひとつにそこからのさらなる前進をどう踏み出すかについて考え出すこと この二点を このいまの回答の中に盛り込んでいてもよかった。そこまでを要求します。  あなたは どうもスピードが何となくおそい。  わたしの応答に対して ツッコミが途絶えた場合には おおむね賛成したということなのか どうなのか。理論は 一つひとつ積み重ねて行くかたちを採ります。そうやって体系的にもなります。(どうしても体系的にすべきかと言うと そうではないでしょうが)。  そうした問い求めの軌跡を必ずしも明確にしていないところがあります。ここまで互いにやり終えたのなら ここからはこれこれこういう応用になるといったあゆみが 必ずしも見られがたい。物足りない。  けっきょくわたしへの批判が 足りないのではないか。まともにぶつかって来ない。物分りのよいぢいさんみたいに このあたりで手を打とうとでも思ってるんだろうか。

回答No.18

人は弱いものだから。 自分の影(自我仮説との相補分化)に過ぎない存在を、 自分とは独立した先入的なものだと考えるぐらいだから、 その第一原因も必要になるのだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いちおうお応えしますが むなしさが先立つきょうこのごろ。  ★ その第一原因も必要になるのだ。  ☆ その想定が間違っているという物言いです。

  • stmim
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回答No.17

>1. 神などはいるもんかと言う。 > ――けれども いると言ってもいないと言っても何と言っても そのことによって神が決まるなどということはあり得ない。《絶対》なのだから。 人間がの言葉に存在を変更する力はもともとありません。どんなつまらないものでも人間の言葉によってないものがあるようになったり、ないものがあるようになったりはしません。ですから神の絶対は関係ありません。 > 2. 人間がこしらえたものに過ぎないと言う。 > ――けれども こしらえることが出来たなら 神は人間のあやつり人形になる。《絶対》ということを知らないから そんなお遊びをしている。 神は存在しないという立場から、神がどのように創作されたかを考えるとこのような言葉になる。存在しないという立場なのだから、神の絶対と言っても、存在しないものに絶対をつけても存在しないことに変わりはない。「神の絶対」というのは言葉の遊びになる。 > 3. 神は 精神だと言う。 > ――けれども 精神は 人間のもの。自然本性としてそなわったもの。《絶対》がどうして この有限で相対的でうつろいゆかざるを得ない経験事象であるのか。 神が存在しない立場から説明するなら、神は人間の精神の中に作り出した幻影。人間1人1人は有限の生命しかないが、その幻影を受け継ぐことで神は行き続けてきたとも言える。個別の人間は死ぬかもしれないが、人類が存続する限り(幻影たる)神は存続できるといえる。 > 人びとはどうして神のことが分からないのか?   人間にわかっているものなどごくわずか。大概のものはわからない。神についてもわからない数多くのものの1つでしかない。 わからない原因は情報あるいは確証がないから。 神に対する考え方が大雑把な気がします。 神に対する考えは少なくとも4つ(有神論、無神論、懐疑論、不可知論)あります。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (1)  ★ 人間(が)の言葉に存在を変更する力はもともとありません。  ☆ いえ それは分かりません。  人間のふと放った言葉が 他の人間に対して元気づけたり落ち込ませたりして 《存在を変更する》かのような影響を与えないとも限りません。  たしかに《存在を変更する力》はないかも知れません。けれども 取り返しのつかないことになってしまったら 間接的にはあたかも変更してしまったという気持ちにこちらが成らないとも限りません。  この場合 趣旨説明として言っているのは あくまでその発言によって《神が決まる》ということはない あり得ない です。  ★ どんなつまらないものでも人間の言葉によってないものがあるようになったり、ないものがあるようになったりはしません。ですから神の絶対は関係ありません。  ☆ ん? いえ――上に述べましたように―― 《神の絶対》のことだけを問題にしています。  (2)  ★ 神は存在しないという立場から、神がどのように創作されたかを考えるとこのような言葉になる。  ☆ 神をめぐって《神は存在しない》という立ち場を採ったということは 《無い神を心に受け容れた》ことです。そうでないと 《神が存在するか存在しないか》をこの経験世界における事象として扱ったことになります。初めから 経験事象として扱ったのなら 《無い神を受け容れた》という立ち場は 成り立ちません。初めから 信仰の問題ではなくなっています。  すなわち 《神がどのように創作されたか》は あくまで経験事象としてであって 人間がそのように《思考や想像》によって意志行為をおこなっているというだけの問題です。  初めっから 神を除外したお話です。  ★ 存在しないという立場なのだから、神の絶対と言っても、存在しないものに絶対をつけても存在しないことに変わりはない。「神の絶対」というのは言葉の遊びになる。  ☆ つまり 初めから 《思考や想像》の問題として成り立ったお話です。初めにおいて 神を除外しています。  (3)  ★ 神が存在しない立場から説明するなら、神は人間の精神の中に作り出した幻影。  ☆ このことが 初めから人間の《思考と想像》の問題だという意味です。それは 神ではありません。  ★ 人間1人1人は有限の生命しかないが、その幻影を受け継ぐことで神は行き続けてきたとも言える。  ☆ これも 《思考の緑野》という精神の領域だけの問題です。神は 精神ではありません。もしそうなら わざわざ神という言葉を出す必要がありません。  ★ 個別の人間は死ぬかもしれないが、人類が存続する限り(幻影たる)神は存続できるといえる。  ☆ 《幻影たる神》というのが 人間のあたまの中の問題でしかないということです。  神を人間のあたまという・限りある範囲に閉じ込めたというふうにも言えるかも知れません。つまりは 精神のお遊戯としてです。  それでは 神については まったく考慮の中にも意識の中にも入っていません。  ★ 神に対する考えは少なくとも4つ(有神論、無神論、懐疑論、不可知論)あります。  ☆ 《懐疑》も《不可知(知り得ないと証明し得て知った)》も 経験事象を扱う経験思考の問題です。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.16

人々が神を、人智の及ばぬ超越的存在と定めても、神自身はその定めに支配されない故に、この現実世界にも、もしかしたら存在し得るのかもしれない。もしかしたら私の隣にいるかもしれない、或いは心の中にいるかもしれない、いや、世界中の何処にでも遍在してるかもしれない。 もちろん、してないかもしれない。 「かもしれない」ので確定は出来ないが、神の自由さからしてみれば、上述のような希望的観測も可能なのではないか。 そして、その希望的観測によって見出されうる神を、信じてもいいのではないか。 こういうことだろうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  用語について厳密さを重んじるとすれば ふたつみっつ指摘してわたしの考えをのべます。  あっ というか その指摘箇所については書き直すかたちで 全体をまとめます。  ★☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~  人々は神を、人智の及ばぬ超越的(超経験的)存在と想定する。  じっさい 人智の及ばぬナゾであると定めても、神自身はその定めに支配されない。  その絶対としての自由自在性の故に神は、この現実世界にも、もしかしたら存在しているのかもしれない。やって来ているかも知れない。  もしかしたら私の隣にいるかもしれない、或いは心の中にいるかもしれない、いや、――非思考ないし霊としての存在ゆえに――世界中の何処にでも遍在してるかもしれない。  もちろん、してないかもしれない。  「かもしれない」ので確定は出来ないが、神の自由さからしてみれば、上述のような初めの〔超経験的な存在だという〕想定からの派生的な想定も可能なのではないか。  そして、このような派生的な想定にもとづくかぎりで 初めに想定された神を、われわれは一人ひとりがそれぞれ信じている。すなわち 受け容れている。すなわち そのまま神を・または神の名を心に受け容れているか または そんなものは要らんと言って棄てているかである。  つまり 棄てている場合も――《要る》といって受け容れるにしても《要らん》といって棄てる場合にも いかに人間が規定したり扱ったりしたとしても 神は何ともないのだから―― じつは背中を向けて神を受け容れていることになるのである。  このように神を受け容れている――つまり その名をだけでよい――そのことを 《信じる》つまりは《信仰》と呼んでいる。  名は ただのシルシである。だって 非思考なのだから 概念があっては むしろおかしい。  しかも このように名を――プラスのかたちにしろマイナスのかたちにしろ――受け容れることにおいて人は じつに神をめぐる・たとえば《きよらかなおそれをいだく》という効用を持つようになる。  これは 《絶対》のあたえる効用である。それは ひとを元気づける。などなどである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • a_hona
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回答No.15

では、仮に神が人間の理性による理解をこえたものであるとして、人間には把握し難いものであるとしよう。 要するに人智を超えているという解釈である。 その、人智を超えたものを神と定めて、それは人智の及ばない謎であるとしよう。 それで、その次はどうなるのか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  その次はですね。ここが 《絶対》のおもしろいところです。  ★ 人間には把握し難いものである / 要するに人智を超えている / 人智の及ばない謎である  ☆ のですが これらの《規定》もが じつは 神には何の影響をも与えません。《絶対》ですから。  ひょっとすると 神は そのようにまで《人智を超えており 経験世界をも超えている》とすると この経験世界に自由にやって来ている・・・かも知れない。となるのではないでしょうか。なってもおかしくない。  人智にさえどこかに――と言っても《霊》ですから やはり《非思考》なのですが――やどっているかも知れない。  つまりは ブッダター(仏性)の説が出て来るわけです。アートマン(霊我)が 仮りに神学として説かれてもおかしくはない。  したがって No.14のけいえす5518さんへのお礼欄にて その《神 ないし神とわれとの関係》を世界の人びとは どう――仮りに――捉えたかを示しました。  こういう展開になります。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.14

No.12です。 >ということは 神とは何かについて きちんと自分の言葉で説明することができるようになると なおよいと考えます。 >>◎ 質問者様の結論を求めたいと思います。 ◎質問者様の結論を求める前に、私の私感を先ず述べたいと思います。 ・『神』の存在について⇒存在する。これは対外的なものです。 ・『神』に対する信仰について⇒否定します。これは仏教的立場から言えば、『神』を信仰の対象とはしません。 多くの日本人は、家は檀家としてある寺(宗派)に属していて、家には“神棚”を設けて『神』を奉ります。「これが日本の仏教。」と言われてしまえばそれまでですが、これではクソミソ一緒です。ご利益なんか出るはずはありません。“主”はどっちなんでしょう。本尊すら理解できないのですから、神も仏も分からないのでしょう。 ◎私の結論としては、先の回答で書いたように、“第四の『神』”としての存在です。 そして、一番肝心なのは“人間の仏性を開きゆく信仰”だという事です。 ※※ここでは、信仰自体の質問ではないため、あくまでも『神』の定義を導くための回答としたいと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ・『神』の存在について⇒存在する。これは対外的なものです。  ☆ えっとですね。神は 人間の理解を超えていますから――絶対なのですからそうなります―― 存在すると言っても 存在しないと言っても 構いません。それでも 神は神なのです。これが 神です。⇒趣旨説明の(1)。  ですから そのようなナゾの神について 信じると言っても信じないと言っても 神はやはり神です。  ★ ・『神』に対する信仰について⇒否定します。これは仏教的立場から言えば、『神』を信仰の対象とはしません。  ☆ 《信じない》場合は 《信じないとして神とわれとの関係が――絶対的に――出来ている》のです。  ふつう認識には何らかのものごととしての対象というものがあります。  けれども 信仰にはナゾがあるだけです。だから 考える・認識するとは言わずに 非思考として 信じる(ナゾを受け容れる)と言います。  しかもナゾを受け容れない(信じない)という場合にも その否定という姿勢においてナゾと接しているわけです。いやと言っていますが 受け容れているわけです。人間が 絶対を否定することは――言葉では言えますが―― 出来っこありません。それが 神です。そうでなければ 神ではありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ◎私の結論としては、先の回答で書いたように、“第四の『神』”としての存在です。  そして、一番肝心なのは“人間の仏性を開きゆく信仰”だという事です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ けいえす5518さんには 次の見解をお示しします。:  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 普遍神は ひとつなのです。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.13

残念ながら、説明を理解できなかった。確かに私は、質問者の説による神を分かっていないのだろう。 しかしおそらく、質問者の説明を理解できなかったのは私だけではないはずである。 無限を二つに割っても無限だった、と言う例えにしても、それが神の説明につながる過程が分からなかった。無限を二つに割っても無限だった。→ほう、そうなのか。で、終わってしまう。それの何が謎なのかが理解出来ない。 神は包括者であると言われる事がある。これなら分からなくはない。この包括者であるという説が全てだとは思わないが、一定の理解を示す事ができる。ここから神の普遍性が述べられる事についても理解はできる。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 無限を二つに割っても無限だった。→ほう、そうなのか。で、終わってしまう。それの何が謎なのかが理解出来ない。  ☆ そのように概念説明は出来るけれど いざその無限とやらを見せてくれと言われても どうすることも出来ません。ナゾです。絶対です。人間にウムを言わせません。神もそうです。  神が 無限であり絶対なのです。  つまりは 経験世界における有る無しを超えており その因果関係からは何の影響も受けません。  中身がどうであるのか。ナゾなのです。  という意味は  ★ 神は包括者である / 神の普遍性  ☆ などの説明は あくまで仮りのものです。神という正解にたどりつくための補助線です。しかも人間が勝手に引いたものです。  つまりは このような仮りの説明としての《包括者》や《普遍性》といった概念によっては一切規定されないのが 神です。  まづ ナゾがあるのです。  群盲象をなでるのごとく 人間はいろんな補助線を引きます。仮りの説明を得ようとします。  たとえば 《神は 真理だ》という場合 おそらく人間としては誰もが みとめると思われます。無神論者であっても むやみに否定はしないと思います。  少しでも分かったようになりたいからです。でも 間違ってはいないと思っても 真理なる概念による理解が 神のことだと言えば それは 的外れです。  ですから 《非思考》だとも言っています。思考にあらず。あるいは 義無きを以って義とす。  神は ナゾです。どういうナゾか? と聞いても・あるいはそのように問い求めても 答えは人間には無理です。  しかも人間にとって どういうわけか 神という言葉はどの民族のどの言語にも持たれています。  神は 理性による理解を超えていますので まづそのことを理解してください。

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