- ベストアンサー
武田信玄と上杉謙信は本当にライバルだったのか?
現代ではライバルだったと言うことにされていますが 実際はどうだったのでしょうか? お互いに「小うるさいおっさんやな」ぐらいにしか思ってなかった感じでしょうか? 領地を接してて戦う武将たちなんてたくさん居ますのに 戦国は忙しくてお互いを意識してる暇なんて無かった気がします
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
ライバルといえばいえます。 たとえば、武田信玄が父の信虎を今川氏のもとへ追放した時、 それを「親不孝」とけなしたのが上杉謙信で、怒った信玄が、 もう論語(儒教の教科書)なんか読まん、と孝行の教えにそっぽ を向いたといいます。 さすがに、川中島の戦いはそれが原因ではなく、信州方面に侵 攻した武田軍に追われた諏訪などの領主が上杉側へ泣きついたた めです。儀によって助太刀というところがあった謙信も、その実 領地を家臣に分け与えなければならないので、川中島で信玄と5 度も対決しています(4度目が、有名な激戦でした)。 そのほか、両者は京の朝廷に使者を送って、官位や役職を金で 買っています。謙信が関東管領の役職をもらえば(実際は買収)、 信玄は出家して大僧正の地位を得ています。当時の武家は、意外 に朝廷との行き来を重視し、また遠くの大名とは親交をむすんで、 近くのライバルをけん制しました。有名な「敵に塩をおくる」を やってのけた謙信の逸話は、近くのライバルを痛めつけるどころ か助けたことで、男を上げたというわけです(事実は、塩の売買 を黙認した、というていどの話らしいです)。 結局、三河美濃攻略の途中で信玄は病死したため、上杉謙信と の確執は終わりますが、実際に戦い、現代の我々から見るとどう でもいいような官職競争に走り、手紙で親不孝だ、何をふん、と ののしりあったのですから、お互いライバルそのものでした。
その他の回答 (5)
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
気心の知れた同士で、定期的に川中島で合戦ごっこを する事で軍事教練をし、他国からの侵略に備えていたのです。
お礼
ありがとうございました
- mm058114
- ベストアンサー率30% (102/337)
一言で言うと、ライバル同志ではありません。 信玄は、領土拡大の野心がありましたが、 謙信に領土拡大意志はなく、 ただ、自国領を、そのままキープすれば良いと思っていました。 信玄が攻めてくるので、しょうがないから、応戦しているだけです。
お礼
ありがとうございます
- ks5518
- ベストアンサー率27% (469/1678)
>戦国は忙しくてお互いを意識してる暇なんて無かった気がします だから、逆に相手を意識します。 先ずは、今川・北条。 親族を嫁がせての三国同盟は有名です。 そして、今川は西t(愛知)へ、北条は東(関東)へ、武田は北(長野)へ。 桶狭間であり、桶川であり、川中島です。 むしろ、武田に余計な欲がなければ、上杉とは良い関係になっていたと思います。 まぁ、甲斐の国山梨だから、豊作の地が欲しかったのでしょう。 それにしても、ガクトの謙信はカッコいいなぁ~!!
お礼
ありがと
- Willyt
- ベストアンサー率25% (2858/11131)
謙信と信玄は他の武将間の対立とは少し質が違っています。謙信は正義を第一とする武将であり、信玄は権謀術策を弄しても敵を倒そうという武将で、信念を相容れないところがありました。特に謙信の方が信玄の遣り口に我慢ができなかったようで、信玄との戦いの前に寺社に提出した願文には必ず信玄のそのような遣り口を罵った文言が書かれています。一方の信玄の方は謙信に対してはそんな謙信に畏敬に近い感情を持っていたようで、勝頼への遺言では危機に陥ったときには謙信に頼れと言い残しています。このような関係だったので、憎み合う対立とはちょっと性質の違う関係だったようです。実際に勝頼が信長に攻められて存亡の危機に立ち至ったとき、息子の景勝は援軍の要請に応じただ一国援軍を送っています。本来なら北条が助ける筋合いのものなのですがね。
お礼
ありがとうございます
戦に勝ちたきゃまず敵を知れ、ということで 相手のことを調べて。 相手が英傑だとわかれば嫌でも意識するし、 お互いに英傑同士だとすれば、好敵手という 絆で繋がるのはおかしなことじゃないと思います。
お礼
ありがとうございます
お礼
ありがとうございます