無天で将官に昇った堀井富太郎中将(南海支隊長)
大東亜戦争で、東部ニューギニアのオーエンスタンレー山脈(最高峰4,000メートル)を越え、直線距離にして220キロを陸路で侵攻するポートモレスビー攻略作戦を担わされ、悲惨な運命を辿った「南海支隊」があります。
南海支隊長の堀井富太郎陸軍少将(戦死後に中将)は、作戦の前から
「こんな無茶な作戦はない。補給もなしでどうやって作戦を達成するのか」
と悲惨な結末を見抜いていた優れた軍人だったようですが(※)、ポートモレスビー攻略作戦は堀井少将の言う通りに南海支隊11,000人の過半が戦病死(餓死)する悲惨な結末となりました。
ポートモレスビー作戦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%93%E3%83%BC%E4%BD%9C%E6%88%A6
(※)「遠い島ガダルカナル PHP文庫 半藤一利/著」による
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31511939
さて、堀井富太郎陸軍中将(陸士23期、陸軍大学校を卒業しない『無天』組)は、詳しい履歴
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/colonel06/horii.html
を見ますと、
* 中尉時代に、東京外語学校へ派遣されて支那語を専修している。<異色の経歴>
* 少佐時代に、水産講習所(戦後は東京水産大学、現 東京海洋大学)の配属将校となっている。大尉時代に、陸大副官を務めている以外は、一貫して隊付勤務。<無天組将校の典型的な経歴>
* 歩兵科の将校である。砲兵科や工兵科の将校で、陸軍砲工学校高等科(優等卒の者は、陸大卒の天保銭組と同等に扱われたらしい)を経ているわけでもない。
と、「連隊付中佐までか、良くて大佐昇進と同時に予備役編入」の「無天将校の道」を歩いていたように見えます。
それなのに、昭和15年3月に少将に進級し、南海支隊長として「最低の貧乏籤」を引かされた(それも自ら分っていた)とは言え、将官として1万の兵を指揮する地位に上ったわけです。例外中の例外と思います。少将進級の時期も、同じ陸士23期で陸大31期恩賜の小畑英良 陸軍大将(昭和13年3月 陸軍少将)と比べて2年「しか」違いません。
小畑英良
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/general/colonel06/obata02.html
小畑大将は、陸大恩賜らしく、中央の顕職を歴任しており、隊付勤務に終始した堀井中将とは比較にも何もなりませんが…
質問ですが
「無天の歩兵将校に過ぎない堀井富太郎が少将に進級できたのはなぜ?」
「支那事変の激化で、平時とは異なり、無天で将官に昇る例も結構あったのか?」
です。よろしくお願いします。
お礼
ありがとうございます。 永田局長は統制派のエース。相沢中佐は皇道派の急進派。永田局長は、満洲事変のおり使用された26cm砲をひそかに関東軍に送っていたそうですが、東條さんより1枚も2枚も上の戦略眼をもった人なら戦争への道もまた変わっていたのではないかと愚考した次第です。