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太平洋戦争中の軍事参議院。

西浦進 元軍務局軍事課長からの聞き取り記録『昭和陸軍秘録』によれば、太平洋戦争中に数回開かれたそうです。 たとえ1回でもよいですから、いつ開かれて、どのようなことを決めたのか、項目だけでよいですから教えてください。 特に知りたいのは、陸軍の軍旗の扱いについてです。 よろしくお願いします。

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  • mm058114
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回答No.1

軍旗の扱いの事となると、陸軍ですね。 軍事参議院の議決かどうか不明で、申し訳ないですが、 戦争が劣勢になり、陸軍大臣から、 軍旗の守護を第一とせずに、戦闘に全兵力を投入する様に。 の様なニュアンスとする通達が出ています。 つまり、軍旗は失ってもかまわない。 軍旗の護衛部隊をキープしない。 戦闘に全力を向けよ。 的な事だったと思います。 この陸軍省案の最終決定を、軍事参議院にかけたという事でしょう。 時期的には、メモをとっておらず、昔に本で読んだ事で、不確定ですが、 比島戦では軍旗守護は行われています。 本土決戦に備えての事ではないでしょうか? この頃の専任は、朝香宮鳩彦王大将、東久邇宮稔彦王大将、李王垠中将、兼任として土肥原賢二大将、賀陽宮恒憲王中将、の時代じゃないでしょうか? もしかしたら、朝香宮大将、東久邇宮大将、畑俊六元帥、田中静壱大将、阿南惟幾大将、安田武雄中将の時代かもしれません。 ただ、西浦進が陸軍省軍務局にいたのは、ずっと遡る、昭和6年9月から昭和16年10月まで軍務局勤務。 その後は大臣秘書官、そして昭和17年4月にはまた軍務局勤務。 昭和19年12月に支那派遣軍参謀に転出するまで、13年間軍務局勤務しています。 期間中の最後の方で関わるとしたら、硫黄島戦、沖縄戦に向けてかもしれません。 この頃の軍事参議官は、専任は、朝香宮鳩彦王大将、兼任は、畑俊六元帥、東久邇宮稔彦王大将、田中静壱大将、安田武雄中将です。 もう、学校長も予備役が召集されたり、教育総官が不在だったりして、人数が少なくなっています。 開催日時は、メモがありませんが、支那事変の最中、日米開戦、絶対国防圏、本土決戦の準備、終戦に関して開かれています。 ガダルカナル撤退については、分かりません。 議題としては、参謀本部令、陸軍省令等の勤務令の大きな変更等の際に開かれています。 また、軍旗の取扱については、特別でしょう。 または、支那事変中に軍旗の修理についての通達が出ています。 確か4コ聯隊が応じて修理が行われたと記憶しています。 この件について、軍事参議院会議が開催されたかは、分かりません。 軍事参議院は、支那事変中~日米開戦、そして中頃までは、専任軍事参議官が3~4人位選出されています。 (確か定数が5人なので、これでも欠員が生じています) また、兼任軍事参議官としては、教育総官、航空総官、大学校長、士官学校長、航空士官学校長、防衛総司令官は、兼任する事になっていました。 これは、宮中席事を上げ、総長、大臣と同格にし、高級将官の昇降格を防止して、人事の融通の為です。 戦争の無い頃は、有事際の軍司令官要員の待機場所とされ、戦争中は、高級中将や大将の次の職までの一時的待機場所としても利用されました。 不確定な情報で、申し訳ありません。 軍旗と軍事参議院という、キーワードでお知らせしました。 もし、少しでも参考になればと思います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

丁寧なご回答真にありがとうございます。 このような趣旨の通達が出ているのですね。 『昭和陸軍秘録』でも証言者西浦進が同様の趣旨の通達が出された、と言っているのですが、1967、1968年の聞き取りです。 間違いはないとは思いましたが、念のためこの発言を確認したく質問しました。 『昭和陸軍秘録』では、ガダルカナル戦で応援部隊を派遣するに当たり、「そんな危険な戦場に軍旗をもつ部隊を派遣できない。軍旗は天皇の分身であるから万一のことがあれば…」といったような内容であったと思います。 そんなことで作戦計画が左右されるのか、と驚きました。 そして、軍旗の扱いに関しては「軍事参議官」を通じ天皇の裁断を仰ぐといった内容でした。 >開催日時は、メモがありませんが、支那事変の最中、日米開戦、絶対国防圏、本土決戦の準備、終戦に関して開かれています。 最重要局面で開かれているということが分かりました。 軍旗の扱いの他に何を決めたのだろうか、という疑問ですので、これだけの情報で十分です。 たいへん参考になりました。