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アメリカ石油禁輸:開戦の根拠とは?
- アメリカによる石油全面禁輸が日本の開戦理由とされるが、その根拠は実際には弱かった。
- 当時の政府&軍指導部は、米国の警告を甘く見てしまい、石油禁輸を含む対抗手段を甘く考えていた。
- 日本が開戦した目的は、アメリカの対抗策の甘さを見誤ったためであり、自衛やアジア解放といった理由は後に作られたものである。
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「陸軍首脳(具体的には東條陸相と杉山参謀総長)にとって一番重要だったのは面子」だと明記された資料はご存知ありませんでしょうか。 同じように 「それが日本の対米要求案の主要な決定要因になった」と明記された資料はありますでしょうか。 質問者さんがいろいろ挙げておられる資料を読まれた結果個人的に持たれた印象ではありませんでしょうか。 であればご自身が指摘されている「そういうものに基かない主張は単なる「空想」「妄想」の類に過ぎない」のではありませんでしょうか。 歴史学では一次史料に記載されているから史実だとは断定しません。 一次史料が如何なる背景の元で作成されたのか、そこに記載されている史実を立証し得る史料はあるのかということを検証する必要があります。 更に一次史料が作成された当時その史料がどのように取り扱われていたのかということを検証する必要があります。 これをやりませんと単に作成されていただけの文書となり議論しようとしている史実には何等関係ない単なる古文書ということになります。 その場合は、なぜそのような文書を作成する必用があったのかという別な観点からの研究対象になります。 つまり一次史料にこう書いてあるというだけでは議論用の資料にはならないということです。 自在自衛という用語はスローガンではありませんでした。 当時陸軍内部でも対ソ戦(北進論)とインドネシアなどで見つけ出されていた石油資源獲得のためのいわゆる南進論が拮抗していました。 南進論というのはソ連がドイツとの戦争に注力している関に東南アジアへ侵出しようという主張です。 当時東南アジア諸国を植民地としていたフランス、オランダ、イギリスなどの宗主国がドイツとの戦闘で劣勢になり統治が手薄となっていました。 これをドイツ軍が進駐してくる前に日本が進駐して石油資源などを確保すべきだという主張です。 詳しくはいろいろ一次史料をご覧になられておられるようですのでご存知かと思いますが如何でしょうか。 結果的に南進論が優先されて英米との交戦となりましたが、長期戦では勝ち目がないことは南進論を唱える人達も充分理解していました。 日本と英米とを比較した場合には経済力に絶対的な差があることは常識でした。 一般の国民の間でも常識化するだけの論文や記事、社説などが無数に発表されていました。 南進せずに英米による経済封鎖を放置しておけば日本経済が破綻することも常識でした。 極めてリスクは高いものの南進してインドネシアや東南アジアにある資源を確保できれば日本経済の破綻を回避できる可能性が期待できるという考え方がありました。 つまり敗北が明白な長期戦を回避することができれば英米による経済封鎖を回避できるという極めてリスクが高い選択をしてしまったということです。 なぜリスクが高い選択をしたのかという点については社会心理学などの分野で議論されてはいますが未だに結論は出ていません。 面子などというあやふやなことで極めてリスクの高い選択したなどということが議論されたということは寡聞にして知りません。
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- ichikawa2017
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No.2です 補足を頂戴しました。 当サイトは質疑応答のサイトであって、自己主張や議論の場ではありませんのでご注意下さい。 それはさておき東條や陸軍の面子なるもに拘っておられるようですが、下記のWikipediaの記述に 「10月17日、東条英機を首班とした組閣にあたり、条件として白紙還元の御諚が発せされ、9月6日の決定が白紙に戻された。 だが、東條は真面目ゆえ、昭和天皇の眼前で、自らも参加して決定した帝国国策遂行要領を覆すことは不忠にあたるとの信念から、実際には白紙化は行われず、再検討という名目で、そのまま方針が引き継がれることとなった。」 とありますがこのことを面子と言われておられるのでしょうか? 東條自身、陸相地代と総理大臣時代とでは発言が異なっています。 総理大臣時代はあくまでも天皇の意向に従って政権を運営しようとしていたとされています。 天皇の意向よりも自分の面子を優先していたとは考えにくいのではないかと思います。 下記のような見解もありますが如何お考えでしょうか。 参考 東條英機 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/東條英機 抜粋 内閣組閣後の東條の態度・行動は、この陸相時の見解とは全く違ったものであり、昭和天皇の意思を直接告げられた忠臣・東條が天皇の意思の実現に全力を尽くそうとしたことがよく窺える。 外相の東郷が甲案・乙案をアメリカが飲む可能性について疑問を言うと、東條は「交渉妥結の可能性は充分にある」と自信有り気だったという。 いずれにしましてもアメリカとの戦争に突入したのは一人二人の人間の意向だったと考えるのは無理があるかと思います。 東條が首相になる以前に作成されていた「帝国国策遂行要領」も一人二人の人間の手によって造られたものではありませんでした。 まがりながらも大本営政府連絡会議というものが設けられていて陸海軍は意見を交換していました。 上意下達が徹底していた軍隊である海軍が陸軍軍人であった東條の面子や意向に従っただろうと考えるのは無理があります。 更に当時の世論も現代とは違い戦争を一方的には遺棄していませんでした。 参考までに下記のような書籍があります。 参考 戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道 筒井清忠著 中公新書 蛇足 日本の歴史学会では昭和史に関しては戦前と戦後では専門家がことなっていて、この専門家どうしで話が通じなくなっています。 これはひとえに敗戦直後に軍や政府の関係書類が焼却されたり破棄されていたためです。 近年これらの関係書類が大学や公立の図書館、古書店、個人住宅などから探しだされています。 現在これらの資料を基に研究が続けられています。 従来の説が次々と塗り替えられています。 このような状況下で旧来の説に従った議論は的外れになる可能性があるかと思います。
お礼
回答ありがとうございました!!
補足
返信遅くなりました。 返信をお読み頂いた上で、私が言った面子とは、 「10月17日、東条英機を首班とした組閣にあたり、条件として白紙還元の御諚が発せされ、9月6日の決定が白紙に戻された。だが、東條は真面目ゆえ、昭和天皇の眼前で、自らも参加して決定した帝国国策遂行要領を覆すことは不忠にあたるとの信念から、実際には白紙化は行われず、再検討という名目で、そのまま方針が引き継がれることとなった。」 とウィキペディアに書いてある事か、と聞かれているのであれば、私の主旨が全く伝わっていない事が明らかです。 それから >アメリカとの戦争に突入したのは一人二人の人間の意向だったと考えるのは無理があるかと思います。 誰か一人が戦争だ、と言ったから皆がその主張に従って戦争に突入した、なんて主張を誰かしているんですか? かつての(かつ、未だに一部に残っている)『海軍善玉・陸軍悪玉』論ですら、そこまでじゃありません。 仰る通り、無理でしょうね。 >海軍が陸軍軍人であった東條の面子や意向に従っただろうと考えるのは無理がある気がします。 勿論、そりゃそうです!! 海軍には海軍の利害や論理や立場があったんですし、海軍と陸軍の仲の悪さ、と言うか意見の不統一、って言うか、超有名ですからね。 海軍が陸軍(少なくとも東條)の面子論に賛成して開戦に踏み切った、なんて誰か言っているんですか? 私は… 陸軍(少なくとも東條)の戦争目的を敢えて探すなら、突き詰めると面子である。 当時の指導者層の中で他には『戦争の《目的》』と呼べる様な物は他にはない。 従って、日本の戦争《目的》を敢えて挙げるならば「陸軍の面子」って事になる。 と言って良いと思っていますし、このサイトでも言って来ました。(勿論、それに納得するかどうかは、読んだ人それぞれの判断に任せていますけども。) ひょっとして、上記の様な私の主張が『海軍も陸軍の面子論を支持して開戦決意に至った。』って主張と同じ事、って回答者の側で推測しちゃっているんですかね? なんか、そんな感じがヒシヒシとするんですけども…。 こちらにそんなつもりは全くないのに、そう言う様に回答者の方が理解してしまったのなら、それは対英米戦争の目的に関係しての話に限らず、一般論としての当時の国家意思の決まり方についての理解があなたと私で、まるっきり違うからだろう、と思います。 いわゆる白紙還元の御諚については、木戸日記を引用する形で、東條自身が東京裁判で説明しています。(↓のP76) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042032 木戸から東條が伝えられたのは 『九月六日の御前会議決定に捉はるることなく、内外の情勢を更に廣く深く検討して慎重なる考究を加ふるを要すとの思召』 って事です。 9月6日の御前会議で決まった事だ、と決め付けずに、もっと良く考えてみよ、って事ですね。 忠臣東條は『良く考えろ』 と天皇から言われたから、実際に組閣後間もない大本営政府連絡会議では暫くの間『もっと良く考え直させて』いますよ。 戦争資源は充分か、とか~。 『もっと良く考えろ』と言われて(それを再検討せよと日本語では何の問題もなく言い換えられる)実際に“良く考えて開戦を決断した”起きたのはそう言う事です。 それを『白紙化は行われず、再検討という名目で、そのまま方針が引き継がれることとなった』とか言うのは、実際に東條が木戸から聞いた天皇の意思を完璧に無視した(あるいは知らない)超々クダラン言葉遊びとしか思えませんね。 白紙化しなきゃ、10月中旬に開戦決意をする以外の結論はありません。 それが9月6日の御前会議の決定です。 事実として白紙化は何をどう考えても行われて、その結果として何をどう考えても事実として再検討された、それでも同じ様な結論が出た、それだけです。 一般論として百科事典の説明は、何故そう言えるかの根拠は書いてありません。(ウィキペディアも程度は別として同じです。) 論文じゃないんでね。 なので、それを信じるかどうかは、読み手がその百科事典自体の信頼性をどう考えているか、それに依拠します。 根拠を示していない説なんだから、それしかあり得ません。 ご存知と思いますが、ウィキペディアはこのサイトの様な匿名の個人の投稿の集大成です。 だから、ウィキペディアではこう言っていますよ、と言われるのは、Q&Aサイトにはこう言う意見がありますよ、と言われるのと、本質的には同じです。 今回は、一応“反応”はしましたが、正直言って、ウィキペディアで根拠なしに主張されている事を挙げられて、そうした見解もあるがどう思うか、とか聞かれても『そんな事は自分で考えて下さい。』としか言いようがない事が多いです。 異なる二つの主張の正しさは、根拠が何か、根拠自体の真実性や複数ある根拠の中で何故それを選ぶのか、その根拠から判断を導く際の論理はどうか、って事から判断すべきものです。 百科事典がそれをパスしているのは、読み手がそこまで要求せず、簡便に『百科事典が言っているのだからホントなんだろ?』と思うだろう、と言う前提に立ってです。 それでも、普通の百科事典なら“定説”、少なくとも有力説が載っていますから『その百科事典にある説の根拠はこれだろうが、自分はこちらの根拠を重視しているので~。』と言って、後は読み手に判断して貰う事が出来るケースはあります。 が、ウィキペディアにはそれは通用しません。 ウィキペディアに書いてある事は全部ウソ・ガラクタ、って事は決してありませんが『ウィキペディアに書いてあるから、何らかの根拠がある主張と思って良い。』って事には全然ならない、と言うのは、私は常識のレベルと思っています。 筒井清忠が『現在これらの資料を基に研究が続けられ、従来の説が次々と塗り替えられています。』と書いているのが、具体的に何を指しているのかは、私にはわかりませんが、一般論としてはその通りです。 本質的には日本の近現代史に限った話じゃありません。 『この様な状況下』じゃなくても『旧来の説に従った議論は的外れになる可能性』は勿論ありますね。 が、だからと言って、“説”として出て来たのが新しい方が古い方よりも正しい可能性が高い、なぁんて素っ頓狂な理屈で、歴史学者は考えていますか? 違いますよね。 常に、その時点で入手可能な情報に基づいて考える、ってだけの事ですよね。 新しい史料が、既存の説に見直しを迫る事はさして珍しくありませんが、見直しの結果として、定説が変わる場合もあれば変わらない場合もある、これも当たり前のコンコンチキですよね? だから、あなたが『新しい史料に基づいて、より正しい結論を導き出している』と思える主張があれば、そちらを信じれば良いだけの話です。 が、あなたの判断の基準は、現在入手可能な史料の中での、それぞれの史料の評価、言い換えれば“どの史料を重視するか”その判断、根拠史料から結論を導き出す論理性、そう言った物になるのではないですかね? だから、私は私の知る限りにおいて、史料の選択においても、その史料に基づいて結論を導き出す論理においても、最も合理的で説得力のある説をご紹介しているだけで、後は皆さんの判断です。 が、万々が一、単に“説”が立てられた時期の新しい・古いが、正しい・正しくないに重要な影響を与える、と思われているのなら、それは真っ当な学問としての歴史の議論とは無縁の発想だと、私は思います。
- D-Gabacho
- ベストアンサー率64% (1057/1649)
開戦に至った大きな理由が陸軍の面子にあるというのは、たいへんよくわかるのですが、質問者さまのお話から受けた印象では、陸軍だけでなく海軍の面子も同じくらい大きな理由になっているのではないかという気がします。海軍が戦えないというなら妥協しようと陸軍がいってるのに、海軍は「そんなことがいえるか」と対米戦争に賛成してるわけですから。日米開戦となったとき主に矢面に立つのは、どちらかといえば陸軍よりも海軍なわけですから、最終的に海軍の判断に委ねようという陸軍の姿勢は当然で、そこで海軍が開戦不可という判断をしなかったというのは、かなり大きいと思います。
お礼
回答ありがとうございました!!
補足
仰る通り、海軍の「面子」も当然あります。 例えば海軍が三国同盟に反対だった事(最終的には消極的な賛成)にも現れている様に、対米戦には自信がありませんでした。(勿論、海軍も完全な一枚岩だった訳ではありませんが、開戦の判断に至った時期の海軍トップ層は、という意味です。) それは10月12日の近衛私邸の五相会談での(海軍出身の)豊田外相の「駐兵問題に多少のアヤをつければ日米交渉妥結の可能性あり」(=陸軍に対して妥協を求めたもの)及川海相の「首相一任。もし首相が戦争はやらず外交でやるというのならばそれでも良い。」と言った発言にも現れています。(因みに及川は10月7日の時点で東條と非公式の会話で、戦争への自信があるか問われて「自信は無い」事をアッサリ伝えています。) 永野海軍軍令部総長は、割りと早くから早期開戦論になっていましたが、それは1941年7月30日への天皇への奏上(国立公文書館アジア歴史資料センターレファレンスコードC12120286500)で、 ~~ 上 伏見総長は英米と戦争するを避くる様に言いしも、お前は変わったか 永 主義は変わりませぬが、物が無くなり逐次乏しくなるのでどうせいかぬなら、早い方が良いと思います。 ~~ と『英米戦に賛成ではないが、避けられないのならば早い方が良い』と言っていました。 事実上の開戦決意を固めた11月1~2日の大本営政府連絡会議では、 ・十中八九長期戦になる ・二年間はOK、三年目以降はわからない と言っていました。(レファレンスコードC12120254800) この資料からは「何故わからないか」の理由がわかりませんが11月4日の軍事参議会(レファレンスコードC12120254800)では、簡単に言えば「米国との工業生産力の差から、開戦後時間が経てば経つほど不利になる。だから長期の見通しはわからない」と言っています。 殆ど「勝てない」と言っている様な物ですよね。 つまり、対英米戦の主役の海軍の作戦責任者である軍令部総長は実際には「勝てそうな気はしないが、戦うなら急ぐべし。」と言っていたに過ぎません。 こういう論理で対英米戦を決意した海軍に「戦争の目的は何か?」と問う意味ってありますかね? 対英米戦に踏み切るに当たって、戦争なしで済ます為には米国に対してどこまで妥協すれば良いか、その場合どんな良くない事があるかを考え、その一方で対英米戦の結果を予想して、それを天秤にかけてどちらかを選択したのならば(その結果はともかくも)『何の為に』戦ったかはわかります。 が、対米妥協は陸軍が(少なくとも自分からは)決して認めない以上は、何をどうひねくろうが、日本の要求が通らない限りは戦争する、という結論にしかなり得ません。 おまけに海軍も(勝てる気がしてないのに)「勝てない」と公式には言わなかったのは突詰めると「面子」です。 結果的に日本が対米戦に踏み切ったのは、陸軍の主張が通った為です(より正確には仕組上、陸軍か海軍かどちらかの意向に真っ向から反する政策はとれなかっただけだが。)ので、対英米戦の主役は勿論海軍ですが、結果として陸軍の主張が優先されたと言うのが大きいと思います。
- eroero4649
- ベストアンサー率32% (11082/34531)
>何を根拠に日本はアメリカの「禁輸措置が開戦の原因だ!!」と言えるのでしょうか? 当時の日本の石油輸入先の約90%がアメリカだったということなのではないでしょうか。 個人的には、同じくらいインパクトがあったのが鉄くずの全面輸出禁止だったと思っているのですけどね。当時の日本は鉄くずの100%をアメリカからの輸入に依存していました。 根拠としているのはそういうものであって、それが正しいといえるかどうかの議論はまた別になると思います。ただ、質問者さんの今回の質問は「なにを根拠にそのようなことをいうのか?」というものですから、その趣旨に沿った回答を致しました。
お礼
回答ありがとうございました!!
お礼
回答ありがとうございました!!
補足
勿論「陸軍の面子」だけではなく、様々な思惑が絡んでいるとは思いますが、私の理解では ・陸軍首脳(具体的には東條陸相と杉山参謀総長)にとって一番重要だったのは面子 ・それが日本の対米要求案の主要な決定要因になった と確実に言えるとは思います。 ただ陸軍と海軍をとっても、考えている事は相当違っていて、時々の状況に応じて一方が優勢になる事はあっても、どちらか一方がもう一方を圧倒する程でもなく、ロクに刷り合わせもされず、当然一貫した方針がある訳もなく、場当たり的対応で開戦に至った、と言うのが実情です。 この「てんでんバラバラ」という印象は、当時の御前会議決定とか大本営政府連絡会議決定とかをちゃんと読めば、割りと簡単に気付くと思うんですよね~。 また日本が対米戦に踏み切ったのは、陸軍の主張が通った物です。(より正確には仕組上、陸軍か海軍かどちらかの意向に真っ向から反する政策はとれなかっただけだが。) つまり、東條英機の主張から日本の戦争目的を読み取ろうとする、そこまでは正しいです。 が、東條英機だっていつも同じ事を言っている訳じゃないです。 東條英機が何故対米戦やむなしと判断したのか、それは、この時はこう言う状況でこう言っている、一方この時はこう言っているって事は、総合的に考えて東條英機が一番重視していたのは何かって言う様に考えて行く物です。 東條が結局の所、一番重視していたのは「陸軍の面子」です。 最後に防衛省防衛研究所の平成20年度戦争史研究国際フォーラム報告書の中の『日本陸海軍と南進 ー「自存」と「自衛」の戦略 -』(小谷賢)へのリンクをご紹介しておきます。 http://www.nids.mod.go.jp/event/forum/j2008.html 当時の日本に一貫した方針が見られない、機会主義(場当たり的)だったと言う理解は珍しくない事(というか私はむしろ常識のレベルと思います)がお分かり頂けると思います。 尚、小谷賢はこの時点では防衛庁防衛研究所戦史部教官でしたがいわゆる「学者」で、種々トンデモな主張をバンバンするので有名な中西輝政の弟子ではありますが、そこまでメチャクチャではありません。 さりとて「サヨク」と言う人はまず居ないでしょう。 長文失礼しました。