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何故 陸奥は「後」じゃなくて「奥」なんですか?
旧国名ですが 陸前、陸中とあるので当然次は「陸後」と来るかと思いきや「陸奥」です 他の国だと 例えば備前、備中、備後。肥前、肥後など 「後」なのに陸奥は「後」ではなく「奥」なのは何故でしょうか? 地理か歴史か微妙なところですが 歴史カテに失礼します
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- ithi
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azuki-7 さん、こんばんは。 別名、道の奥であり、当時の都であった平安京や平城京に対して陸の奥である遠い国という意味だと思います。 詳細は下記のURLを参照ください。 陸奥國 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%9B%BD
- chiha2525_
- ベストアンサー率13% (119/883)
北の田舎すぎてどうでも良かった、からとか・・ wikiを読んでへーと思いました。「むつ」じゃなくて「りくおう」だったんですね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E5%A5%A5%E5%9B%BD_(1869-) しかし時代がばらばら、「丹波国から丹後国が分割された際に改称されなかった前例が存在する。」って1000年以上前の話だし。 わざわざ読み方を変えるくらいなら、陸後(りくご)にしてしまえば良かったのに。なんらかの”力関係”が働いたりしたのでしょうかね。
- Pinhole-09
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由緒あるむつ(陸奥)の国名を残したかったので 陸後と付けるべきところを陸奥にしたと思います。 古代東北一帯を陸奥と呼んでいました。 大和人にとっては未開の異境でした。 東北でも日本海側は大陸からの移住もあり開けて 出羽の国が分離しました。 太平洋側は以前未開扱いでまるで差別ですね。 実体は開発は始まると意外に早く進みました。 それでも江戸時代まではいぜん一括りで陸奥のまま でした。 明治になりこれではまずいので、他並みに扱い、 岩城(代)、陸前、陸中、と分けましたが残りは 由緒ある陸奥を残したのでしょう。 東北の差別は昭和初期までもありました。 ひどいですね。
- Willyt
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大宝律令が規定した国名の前中後は一つの国を分割するときに使用するものです。例えば吉備の国を三つに分けて備前・備中、備後ができました。陸奥というのは今の東北地方全体をさす国名ですから後の字は使いません。律令成立後に陸奥は大きすぎるということで、秋田、山形を出羽という国にして分割しました。そして明治維新になるとその陸奥、出羽が大きすぎるということで分割することになり、出羽は二分割されて羽前、羽後となり、一方の陸奥からは陸前、陸中が分割独立し、更に今の福島県は会津、磐城、岩代の3国に分けられました。陸奥が陸後ではないのは陸奥から分離独立させたということだと推定されます。なお、すぐに廃藩置県が行なわれ、羽前、羽後は山形、秋田となり陸奥は青森、陸中は岩手、陸前は宮城となった一方、どういうわけか会津、岩代、磐城はまた合併して福島となりました。つまり陸奥は分割したのではなく、陸前、陸中が分離得率したために陸奥という国が残ったということです。でもそれはほんの短い期間だったのですが、廃藩置県後も明治政府が行なった改名がずっと使われ続けたのです。本当は仰有る通り陸後と言うべきなのでしょうね。
- ayzm
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陸奥の中に陸中と陸前があるのであって、陸奥と陸中と陸奥は同じレベルでは無いのです。 鎌倉時代に岩手県平泉を中心に奥州藤原が収めていた、東北地方を陸奥(みちのく・むつ)と言いました。 それが時代とともに分かれて行って、陸奥のあったなかに陸中(りくちゅう)・陸前(りくぜん)を付けた地名しただけです。
- maiko0318
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地名ですから。そういうのは多々あります。 豊中高校と、東豊中高校はあるのに、西豊中高校はないとか、 東京都はあるのに、西東京都はないとか。 理由を知っている例が1つあります。 「山辺」を2つに分けようという時、「上山辺」はすんなり決まりました。 では、「下山辺」ですね。といった時、「なんで下やねん見下されているみたいだ」と いうことで「上山辺と東山辺」になりました。 北海道を名乗るなら南海道も作られたらいかがですか?
お礼
北北海道と南北海道は有りますがw