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1930年生まれは日本兵として戦地に行きましたか?

私の伯父は帰還してから鬱になって自殺したと聞いているのですが、終戦時15歳の人 って戦争に行っていますか? 母の記憶違いでしょうか。

みんなの回答

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.12

 #8です。訂正です。  前に「ショウカイセキ」と書いたと申しましたが、現代仮名遣いの前ですから「シャウカイセキ」と書かなくては五重丸は貰えなかった訳で、お詫びして訂正します。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.11

 #8です。補足です。当時の雰囲気をちょっと、これは本やネットからの情報ではなく僕の覚えている事です。僕は普通の公立に行きました。 1。小学校(7歳~12歳)  1年生:「ショウカイセキハワルイヤツデス」と作文に書いて赤い五重丸をもらいました。  四年生:朝礼が変わり、横二列の前に一人出た級長が「かしら右」と言って歩きながら皆が壇上の校長先生の方をむく。前を向いてないので横並びが乱れると担任の先生が心配していました。  五年生:日米戦争が始まり、名前が「国民」学校に変わり、毎月1日と十五日だけでなく八日も、一時限の前に団体で神社参拝をする事になりました。冬の朝は暗くて寒かったのを覚えています。 2。中学校(はじめは5年まで、入学後4年卒)12歳~15歳(4年制)  3年生以上は冬は黒服、夏は薄青に丸帽、2年生から下はカーキ色に戦闘帽(下記)、各校に陸軍の将校がいて、年に1回偉い将校が来て軍事教練の成果を見る「査閲」がありました。  授業の代わりに、勤労奉仕で、人手の無い農家、工場、飛行場建設などに送られました。  配給が、白米、七分搗き米、半搗き米、雑穀まじり、大豆滓まじりと変わりました。 3。軍役  頭のいいのは陸軍幼年学校か海軍兵学校、普通の中学生は軍の予備軍、学校に居ても授業は無く勤労奉仕、身体に支障が無ければ15歳前で志願しない理由なない、という雰囲気でした。 4。戦地  小学5年の頃はハワイ、東南アジアと遠くでしたが、制空権、硫黄島、沖縄を失ったあとは、日本近海でも漁船が艦載機に機銃掃射され、本土決戦を前に日本が戦地になっていました。  (年齢は早生まれと遅生まれで1年違うので概数です)   

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2590/17104)
回答No.10

当時予科練には15歳の少年もいたそうですから兵役についていた人はいると思いますが、大半は訓練中に終戦を迎えたと思います。但し、満州で終戦を迎えた人であれば既に成人男性は兵役にとられていましたから、少年であってもソ連軍に立ち向かうために急遽兵士として戦った人もいるでしょう。

回答No.9

行った人も居る 特攻隊の隊員にも15歳の人が何人か戦死してます ごく少数ですが よほど人員が居なかったためでしょう

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.8

 、終戦時15歳の人 って戦争に行っていますか?  はい。間違いありません。陸軍の少年飛行兵、幼年学校、海軍の甲種飛行予科練習生(通称予科練)、海軍の予科兵(学校生)、いずれも、その可能性があります。

  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.7

陸軍幼年学校生徒は、14~17歳で募集されていました。 戦局の悪さで、速成教育で戦場に出た可能性はあります。 また、陸軍少年戦車兵は13歳から募集され、2年間の教育です。 15歳で実践部隊に配属され、戦場に出た事は間違えありません。 海軍も少年兵制度がありました。 記憶が定かではありませんが、 戦艦大和で戦死した兵に15歳の者がいたと記憶します。

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1498/3648)
回答No.6

No.3です。具体的な事例を挙げますと、昭和20年4月7日に沖縄へ向かっていた戦艦大和が九州の坊の岬沖で米軍機の攻撃によって沈められた際、最年少の戦死者は、昭和5年3月1日生まれの15歳1か月です。 70年も経過すると当時のことを語る人も少なくなり、こうしたことも忘れ去られてしまうのかもしれませんが、甲子園の球児たちよりさらに年少で戦死した少年兵の童顔の遺影を見ると、それでは申し訳ないと強く思います。 回答者の両親はこの世代ですが、昭和20年には5年制だった旧制中学校の4年生が繰り上げ卒業(このためこの年は5年生と4年生の2学年が卒業した)となるなど、本土決戦に備えてすべての国民を動員する方向へ向かっていました。 昭和20年当時の15歳は志願して戦場で戦っていた少年兵だけでなく、旧制の中学校や高等女学校の生徒も工場に動員されて兵器を生産したり、家屋疎開(建物の取り壊し)の作業をしたり、農場で食糧生産に励んだりするなど「総動員体制」に深く組み込まれていました。平和な時代のように教室で勉強している生徒は皆無の状態でした。 軍需工場に動員中に空襲に遭遇し死亡した学徒も多数います。終戦の8月15日の時点での勤労動員学徒数は340万人余りで、死者は1万966人(うち8953人は原爆による)に上っています。(文部科学省「学制百年史」ほか)当時の15歳は少年兵でなくても絶えず戦争による死の危険があったということになります。

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.5

>終戦時15歳の人 って戦争に行っていますか? 確か、開戦2年目で多くの戦地で敗北していますよね。 軍部としては、兵士不足を「何とかしなければ!」と考えていました。 それまでは、15歳から少年兵として志願可能でした。 が、14歳に志願年齢を引き下げた様です。 終戦時15歳だと、志願兵として戦地に赴いた可能性もありますね。 海軍だと、海軍特別年少兵(特年兵)が該当します。 硫黄島や沖縄で、約5000人が戦死しています。 余談ですが・・・。 大韓反日民国では、幼稚園児の頃から「反日戦士」としての思想愛国教育を行っていますよ。 日本に原爆を投下する絵を描いた園児は、表彰されました。^^; その後、大学まで徹底的に反日教育を行います。 徴兵制での軍事訓練では、日本を敵国として実弾演習を行っています。 ※日本に来る歌手・タレントも、軍事演習では日本攻撃の実弾を撃っています。 ※BoAとか東方神起なんかは、反日団体活動家として有名ですよね。 ※日本で稼いだ「円」が、祖国ではせっせと「反日活動費」として使われています。 まぁ、戦時下の日本でも「鬼畜米英」とする反米・反英教育を行っていましたが・・・。

  • tpg0
  • ベストアンサー率31% (3785/11963)
回答No.4

こんにちは。 私の母親が、1920年(大正9年)生まれで叔母(父親の妹)が1929年(昭和4年)生まれですから、1930年なら昭和5年生まれになると思います。 そして、終戦が1945年(昭和20年)の8月ですから、1930年生まれの人は終戦の年に15歳の誕生日を迎えるような若い年齢(現代の中学3年生に相当)で、戦地に行かせることは当時の日本軍の戦局であっても考えられないことです。 なお、高齢者は西暦よりも大正とか昭和のような年号でないと生まれ年を勘違いするとこともあるでしょうから、生まれ年は西暦ではなく年号で再度聞き直したほうが間違いないと思います。

  • staratras
  • ベストアンサー率41% (1498/3648)
回答No.3

旧日本海軍には通称「特別年少兵」(昭和18年からの正式な名称は「練習兵」)という制度がありました。当初は対象が15歳以上でしたが、昭和17年8月には「年齢14以上16年未満の者」に引き下げられました。これが史上最年少の志願兵です。 この制度の第1期生(3500人)は、昭和17年9月に四等水兵として海兵団に入団し、1年3か月後から実施部隊へ配属され、20年5月に二等兵曹となりました。このうち約2000人が戦死したということです。(「日本陸海軍総合事典」) 海上自衛隊横須賀教育隊の敷地にはこの「海軍特年兵」の石碑があり、それによれば、「練習兵」は1期から4期まで1万7000人余りで、このうち5000人余りが戦死したということです。碑文には「これは帝国海軍史上最年少十五歳の戦死者であった」とあります。現実に15歳で戦死した少年兵が多数存在することを忘れてはならないと考えます。

参考URL:
http://www.mod.go.jp/msdf/yokokyou/photo/kinenhi/708_tokunenhei_2.html

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