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南朝の熊沢天皇について

 私は南朝の正統天皇を自称する熊沢(寛道)氏が、本当にそうなのかどうかに関して、全く知識がありません。しかし、熊沢氏が南朝の天皇でないことは、現在では一般的には常識となっていると思います。  ところで、熊沢氏について書かれた本を読むと、熊沢寛道氏は父親から天皇の正系であると教えられたとあります。  根拠はそれだけなんでしょうか? 何か文物は残っていないのでしょうか? (長浜天皇のように、真贋問題はあるにしても、それなりの伝統のある人もいるようですが、まったくただの雑貨商だったでしょうか?)  あるいは、南朝天皇の正系かどうかは別としても、南朝方の皇子、公家や大名や近親といった人たちの子孫であるというような証拠はあるのでしょうか?  私の知人にも南朝の系統の大名の子孫がおりますが、それなりの文物も残っており、南朝系の武将であったことは周知のこととなっておりますし、大学から調査なども入ります。落ちぶれてからも、地方の土豪・旧家として残っているわけです。  熊沢氏の家も、そんな感じなのであれば、天皇の子孫と思う根拠もまんざらではないようにも思いますが、たしか先祖が大工だったとか、本人は雑貨商をしていたと書かれているばかりで、どんな家筋であったのか(南朝の系統を引いていることは確実な家なのか、とか)さっぱり書いていません。  この辺の事情に詳しい方、ご教示くださいませ。熊沢氏の息子さんは、天皇運動はされていないようですが、やはり天皇の家系と信じておられるようですし、熊沢一族からは自称南朝天皇が4人も出たそうです。 熊沢氏は、それなりにそう信じるに足るような旧家だったり、証拠があるでしょうか?

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回答No.1

熊沢家は南朝の天皇家の血を引いていると言われています。 というのは、後南朝の最後の天皇が熊沢氏を称した事によります。 後南朝というのは、南北朝統一がなった後に足利義満と北朝の約束違反に怒った後亀山天皇と小倉宮実仁親王が幕府に反抗したのが始まりです。 その後、後南朝は吉野の山奥に潜み、北朝とは全く違う年号を使ったりしていました。 また、七代将軍・足利義勝が夭折した時には混乱に乗じて、御所に侵入し三種の神器を略奪する事件も起こっています。 その後、播磨の赤松氏が三種の神器を奪還するために吉野に潜入し、後南朝第五代天皇の自天皇(北山宮尊秀王)とその弟・河野宮忠義王を殺害して、神器を北朝側に取り戻しています。 若い自天皇が殺された事により、後南朝は衰退を始めますが、ここで応仁の乱が起こります。この乱は非常にややこしいのですが、当初、日野富子とその子・義尚を援護していた西軍の山名宗全ですが、途中で東軍が援護していた足利義視を援護する事になります。 これにより、幕府は西軍と義視に追討令を出し、天皇の命令で官位を剥奪します。 この事に焦った山名宗全は自天皇の従兄弟である後南朝の皇子を西軍の天皇として招きます。これが西陣南帝または南帝王と呼ばれる後南朝最後の天皇です。 (後南朝の天皇の名前はよくわからない所が多く、一般に西陣南帝と呼ばれている人物は熊野宮信雅親王といわれています。) こうして応仁の乱は途中から北朝対南朝の戦いとなったのですが、西軍の総帥・山名宗全と東軍の総帥・細川勝元の死後、和睦が成立し西陣南帝もその存在が必要なくなったため、熊沢広次を名乗って諸国を旅し、1514年に没しました。 この子孫が熊沢天皇といわれており、実は明治天皇、大正天皇の時にこの熊沢天皇の父親が南朝の正統と認められ、いくらかは忘れましたが、天皇家から熊沢家にお金も与えられています。 一説には戦後、天皇の権威を落とすためにアメリカが熊沢家(南朝)が正統である事を主張させたとも言われています。 後南朝の末裔は中央の政治に巻き込まれ、利用されているような気がしてちょっと哀れにも思えます。

noname#7049
質問者

お礼

早速のご回答、本当に助かります。 >この子孫が熊沢天皇といわれており、実は明治天皇、大正天皇の時にこの熊沢天皇の父親が南朝の正統と認められ、いくらかは忘れましたが、天皇家から熊沢家にお金も与えられています。 分からないのは、この部分の根拠なんです。後南朝のその後の経緯は歴史書や2チャンネルの家柄オタク板にも詳しく出ておりましたが、結局、熊沢さんと南朝の天皇の繋がりが分かりませんでした。 それとご回答を読んでいて驚いたのですが、「実は明治天皇、大正天皇の時にこの熊沢天皇の父親が南朝の正統と認められ」とありますが、明治天皇が認めたというのは、南朝が正統であるということであって、熊沢大然氏を天皇の正統であると認めたのはないと聞いていますが、私の誤解でしょうか? 天皇の正統であると認めたというのは、熊沢氏支持者の主張だと読んでいますが、それは現代の記事が、現天皇家に慮って書いているのでしょうか? お金を払ったというのは、その意味で払ったのでしょうか? だとしたら、もう少しあちこちのネットで出てもいいように思いますし、際物あつかいされることもないようにも思います。 1500年代に歴史の表舞台から消えた南朝の熊沢家と寛道氏の家とどう繋がるのでしょう? 熊沢姓を名乗ったのは仕えた家の姓からもらったとか書いてあったように記憶しておりますが・・。 正統かどうかとまで言わなくても、何か根拠はあるのでしょうか? ちゃんとした調査は入っているのでしょうか? このあたりの事情については、どこを見て良いのか分かりませんし、あまり書いてもいません。歴史に詳しい方に、補足いただければとても嬉しいです。 ありがとうございました。