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南朝正閏論とは?日本史の天皇正統性に関する議論について
- 南北朝時代における天皇正統性の議論について詳しく解説します。
- 明治時代における南北朝正閏論の背景や南朝の正統性について考察します。
- 三種の神器と天皇正統性の関係について考えてみます。
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>1 そもそもなんで、「どちらが正統だ」なんで議論になるのか? その通りですね。 鎌倉時代でも、大覚寺系・持明院統と天皇の血統は分かれていました。 双方が「2代の天皇即位で、交互に天皇の座を譲る」事になっていたのです。 この決まりを一方的に破った・無視したのが後醍醐天皇です。 >「天皇の勅裁で南朝の正統を定めた。」とありました。なんで? 確かに、偽者説が多い明治天皇の裁断で「南朝正統」となりました。 この裁可は「明治新政府の政治的な思惑」が、存在しています。 南北朝ともに、古代天皇家の血筋を持っている事になっていますよね。 が、北朝は「後醍醐天皇に弓をひいた朝敵足利尊氏が支持」した事になっています。 天皇制で国内統一を考えていた明治政府としては、朝敵が決めた天皇を認める事は出来ません。 伊藤博文の「相撲隊隊員」だった?偽者明治天皇も政府が決めた事に反対は出来ません。 ※高杉晋作の騎兵隊は有名ですが、相撲隊はあまり有名ではありません。 時代祭りでも、平成末期までは「室町時代は無視」されていました。 明治新政府の爵位も、足利家には一切与えていません。 >「三種の神器」にも、「正閏」の問題があるのでしょうか? 存在します。 文科省の歴史が正しいのであれば・・・。 三種の神器のは、安徳天皇と一緒に壇ノ浦で沈んでいます。 それが何故か、草薙剣は「熱田神宮に神器として祀られて」いますよね。 鏡は、(伊勢)神宮で祀られています。 結局、皇居には「勾玉」だけしか存在しません。 これら神器は、天皇自身も見た事はありません。^^; じゃ、何故今上天皇は天皇なの? 国民の総意として、政府が天皇と認めたからに過ぎません。 じゃ、国民の総意って? 憲法には総意にもとづくとありますが、戦後一度も総意を求めた事はありません。 何故なら、「総意を求める手順などが決まっていない」からです。 憲法改正の国民投票の手順も、何も決まっていません。 自民創価学会連立政権が「手順を決めよう」と野党に要請しても、共産党・立憲民主党など左派勢力が反対しています。 「無知な馬鹿な国民が、政治に口出しをするのは許せない!」 との事です。
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- gunsin
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言わば、皇室の暗部の出来事ですから、表には出てきません。 明治以降に5人の天皇がいますが、大正天皇の誕生日の祭日は、 有りません、なぜなのか、私は未だに判っていません。 近代日本になった、明治以降でも、この状態ですから・・・ 一般人が考察したとて、時間の浪費に成るだけです。 太平洋戦争の敗戦後、現人神から人間天皇になられたので、 新しい皇室になり、ここから、新たな皇室としての歴史が、 始まったと考えるようにしてます。 天皇陛下は全国の神社の総代で有り、陛下が居られるので、 日本は平和な国なのですから。
お礼
ありがとうございました。 一般人が考察したとて、時間の浪費に成るだけです。……私も同感です。だからわからないことは、考えないで、教えてもらうことにしています。 太平洋戦争の敗戦後、現人神から人間天皇になられたので、 新しい皇室になり、ここから、新たな皇室としての歴史が、 始まったと考えるようにしてます。……私も同感です。「国民の象徴」としての天皇、そして今の皇室の姿、誇りに思ってもよいと思います。
- kappa1zoku
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難しい問題に深入りしてしまったようですね。 『天皇と葬儀』井上亮著、新潮社刊。 上記の本から抜粋・引用します。 >元弘の乱で後醍醐が京を出奔したため、1331年9月、持明院統の量仁親王が皇位に就いた・北朝初代光厳天皇である。十九歳の青年だった。 後醍醐が神器を持ち去っていたため、後鳥羽天皇以来の神器なき践祚(せんそ)だった。この神器の問題もあり、江戸時代の水戸学や明治末の南北正閨論争では南朝が正統とみなされた(帝国議会で南朝正統が決議され、明治天皇も南朝正統を裁断した)。北朝天皇は歴代から除外され、正規の天皇ではないということになっている。 しかし、明治維新以前は一貫して北朝天皇が正統とみなされてきた。現在の天皇家が北朝の皇統であることは紛れもない事実である。客観的に見れば、北朝、南朝どちらとも正当性はある。一時期二つに分かれていたというだけである。 そう書いています。 また、その本中では、万世一系の天皇の系統図ができあがったのは、大正天皇崩御の直前だったと書かれています。 問題は、天皇家の分裂の事態が決定になる素因がどこにあったのかということです。 これは、1221年5月の承久の乱にその源があったのではないでしょうか。 後鳥羽天皇は三種の神器がないまま即位した初めての天皇です。その本物の三種の神器は、安徳天皇とともに海中に没したと言われています。 天皇を中心とした国家の実態が武士が支配する社会になり、天皇の地位は限りなく衰退していくのです。そして、代々の天皇の繋がりが自分たちの考えで決まるのではなく、将軍の意向に左右されていくのです。 鎌倉幕府成立とは、天皇家のジレンマの始まりの時代とも言えます。 そして、その構図を打ち破るべく兵をあげたのですが、朝廷が朝敵である武士勢力に敗れてしまうのです。 本来なら、勝った側は朝廷を根絶やしにすることだってできたのですが、このときの鎌倉幕府のトップであった北条氏には、国をまとめる思想をもてないでいたために、天皇家を温存したのです。 ここが南北朝の分裂を生んだ要因ではないでしょうか。
お礼
難しい問題に深入りしてしまったようですね。……難しい問題にご回答いただきまして、ありがとうございました。基礎的な知識がないので、難しいです。頂いたご回答を読みながらも、老化した頭がますます混乱してきます。泣 後鳥羽天皇以来の神器なき践祚(せんそ)だった。……過去にも例があるということは、「三種の神器」は、皇位継承なり、その正統性には、「絶対的」なものではないということですよね。しかも、本物は、「本物の三種の神器は、安徳天皇とともに海中に没した。」可能性もあるとすれば、ますます「三種の神器は、皇統の正統性を主張する根拠にはなりえない。」ということにならないでしょうか???もっともらしく儀式に使用されたとしても。 江戸時代の水戸学や帝国議会で南朝正統が決議され、明治天皇も南朝正統を裁断した……この背景は何でしょうかねぇ??? 客観的に見れば、北朝、南朝どちらとも正当性はある。一時期二つに分かれていたというだけである。……そうですよね。私もそう思うのです。 問題は、天皇家の分裂の事態が決定になる素因がどこにあったのかということです。……質問で記述していますが、「皇位をめぐっては、古代から争いは絶えなかったし、……」ということで、南北朝の時に、初めて分裂したわけでもないように思うのです。承久の乱でもないように感じます。「承久の乱にその源があった。」というお考えの根拠は何でしょうか??? 鎌倉幕府成立とは、天皇家のジレンマの始まりの時代とも言えます。……承久の乱が大きな契機のひとつにはなったと思いますが、天皇家と武士政権の発展との関係は、微妙だと感じます。それこそ「鶏が先か、卵が先か???」みたいな議論になりそうな。 このときの鎌倉幕府のトップであった北条氏には、国をまとめる思想をもてないでいたために、天皇家を温存したのです。ここが南北朝の分裂を生んだ要因ではないでしょうか。……北条執権による鎌倉幕府に限らず、いつの時代であっても、「天皇家が潰された事実はなかった。」と思います。やはり、特別な存在だったのだと感じます。しかも、南北朝時代に限らず、天皇家内部対立というのは、何時の時代にもあったように思うのです。
お礼
ありがとうございました。 確かに、偽者説が多い明治天皇の裁断で「南朝正統」となりました。……えええええぇ~~~~。びっくり、仰天、知りませんでした。過去にも皇統の断絶はあったようですが、~~私の天皇観、皇室観が変わるかも。調べてみます。 天皇制で国内統一を考えていた明治政府としては、朝敵が決めた天皇を認める事は出来ません。……納得しました。「大きなジレンマ」があったのかもしれませんし、明治政府にとって、「天皇の存在」というのは、どういうものだったのか???考えさせられますね。「天皇は、国家を運営するための機関」に過ぎないということだったのかも。 相撲隊はあまり有名ではありません。……「有名」どころか、まったく知りませんでした。少し調べてみます。 草薙剣は「熱田神宮に神器として祀られて」いますよね。……知りませんでしたが、「なぜ、熱田神宮なのか???」興味深いです。調べてみます。 これら神器は、天皇自身も見た事はありません。^^; ……「見たい」と思わないのでしょうか???不思議ですね。私が天皇なら絶対に見たい。 じゃ、何故今上天皇は天皇なの?~~に口出しをするのは許せない!」との事です。…… なんか、保革逆のような双方の主張のような印象も受けますが、興味深いテーマですね。