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熊沢被告は悪みたいな空気になってますが
息子を殺した農水事務次官の熊沢被告は 悪人みたいな事になってますが むしろクソ息子を殺して犯罪を未然に防いだ事を考えれば むしろ正義だった気がするんですが 何故世論は熊沢被告が悪みたいな論調なのでしょうか? 殺された息子は同情される事など無い人物だったのに
質問者が選んだベストアンサー
私は発達障害当事者ですから、熊沢被告は考えが甘かったのだと思います。 打つ手が全くなかったとかではなく、まだまだあったのではないか、 もっと、長男の治療に必死になっていたら、違ったのではないかと思います。 元農水事務次官の見栄が、息子の通院や治療等の妨げになっていたのではないかと思います。 死ぬ気でやれば、他の手はあったのかもしれない。 他の当事者の親御さん達を見ていれば、 「見栄張って取り繕ってしかいなかったんじゃね?(ーー;)」としか思えないです。 まず、一緒に住んじゃ駄目な場合が多いんですよ。 遠方で独り暮らしをさせ続けたほうがよかったろうに。
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- yaasan
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世界の大前提として、人を殺す行為は現代においてどんな理由があっても許される行為ではないということぐらい認識しましょう。やむを得ないからという勝手な理由で人殺しが正当化されてはいけないのです。秩序は保たれません。 事件の概要を知れば知るほど、殺人以外の容易な解決方法がなかったのだろうか、と思い悩まされます。こうすればいい、という意見が散見されますが、現実には様々な障害がそれを許さなかったのだろうとは思います。 >殺された息子は同情される事など無い人物だったのに 果たしてそうでしょうかね。事件の一報が出たばかりの時はとんでもない乱暴者でいつ他人に危害を加えるか、のような人物像を想像させましたが、実際はつい先日まで父親にまともな反抗もできない障害を少し持った甘えたな青年(中年?)であったのです。親が金持ちだったために割と自由に仕事をせずに生活できたのが、彼を生活力のない人間に育ててしまい、親が必要以上に構うので、親に反抗することだけが生きる証のようになってしまった。お金がなくて放り出していたら、自分で生きる術を無理にでも学んで自立できたのかもしれません。 親があらゆるレールを敷き、その上だけを走らされ、世間知らずに育てられて、その親が勝手に悲観してしまうようなそんな親の都合だけで生かされた人生であったのです。私はそんな人生を生きなければならなかったことは同情します。 当然自分で飛び出して生きる選択をして、自活できる力をつけられるようにする努力ぐらいしたら良かったのに、とは思いますが、それも他人事だから簡単に言えるだけなんだろうとは感じます。 この事件には正義なんかないんだろうと思います。ちょっとした親子喧嘩。それがほんの少しづつ、つまらない事が重なって、結果が殺人という大事になっただけなんだと思います。その手前の事件にならない結果で同様の喧嘩はそこいら中で起きているんだと思います。
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ありがとうございました
- kurukuru
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私には被告への同情論の方が多いように思いますが。。 私も最初は質問者さんと同様の感想をもったんですが、 いろいろ出てきた情報を鑑みると息子さんもかわいそうに思えてきました。 初めから親に暴力振るう子供なんて存在しません。 大抵は壁を殴って穴を空けたり、モノにあたることが多いようです。 昔、やはり親に日常的に暴力を振るって、寝ているところを東大出の父親に金属バットで殺された子がいましたね。 あの父親はどのくらいの刑になったのか…覚えてませんけど、似たような事件だったので思い出しました。 教育虐待なんて言葉も出きたのはようやく最近。 官舎でも教育ママで有名だったようですから、そうとうだったのでしょう。 自分を毒親と認識している毒親はいないものです。 普通は母親が父親との間にたって緩衝剤の役割を果たし対話関係ができるものですけど、母への憎しみが強くそれができなかったのが残念ですね。 スマホのやり取りみたけど、会話というより一方的な注意、監督というかんじ。 当初勤めていた病院を本人が嫌がったのに、一方的に止めさせてしまったのも、監督者の意識の方が強かったからではないでしょうか。 寄り添うといっても、見守りと監視は紙一重で全然違う。 そういう意味で寄り添いの方向性が間違ってたという判断が出たのではないでしょうか。 被告の老いた姿に皆同情を寄せるけど、初めから年寄だったわけではありません。 20年前ならまだ56位?の壮年期。 官僚としての出世より、息子との関係を結び直して、対話することを重視してたらもっと違っていたかもしれません。 「俺の44年の人生なんだったんだ」と息子が泣いて突っ伏した時の反応が、 「ゴミ片さなきゃ・・・」ってなんで?対話になってないし。無視したのと同じ。それじゃ暴力振るうほど息子が怒ったのも無理はないと思います。 かつて秋葉原(?)の通り魔事件で犯人が犯行に至った理由が、孤独を書き込んだsnsで無視されたから。 それは不特定多数相手のネットだから無理もないですが、 今回は目の前でしかも親に対して直接自分の弱音を吐いたのに、全くその回答がなされていない。 被告の年齢的にもうしょうがないのかもしれないと思いが強くなるほど、だったらなんでもっと早くに・・・と思わざるをえません。 20年以上たって息子も大人になって暴力も治まっただろうと思いきや、全く変わっていなかったという被告の絶望もわかりますが、なまじお金があったばかりに早々と向き合うチャンスを逃してしまっていたのかもしれません。 どちらにとっても不幸な事件ですね。
お礼
ありがとうございます
1)熊沢被告が悪い。息子は悪くないのです。 2)息子は、病気で、コミュニケーションに難があるのです。 だから、熊沢被告は、息子に病気のことに配慮すべきだった。 熊沢被告は、それをしなかった。 3)熊沢被告は、他の医療機関と相談すべきだったのに、しなかった。 もし、そうすれば、息子は死なずにおれた。
お礼
ありがとうございます
- koncha108
- ベストアンサー率49% (1313/2666)
私は報道では熊沢被告に同情的だったように見えましたが、報道機関によって違うのかな?ちなみに私がよく見てるのはNHK。 状況証拠からして、正当防衛や緊急避難くらい適用されても良いように思いますが、弁護側もそう言う主張はしてないようですね。
お礼
ありがとうございました
- seto2004
- ベストアンサー率23% (160/691)
かなしくやり切れない事件でしたね 懲役6年の実刑判決でした。 一応殺人ですから執行猶予は付きませんでしたが もし最高裁まで行くとしたら執行猶予が付くかもしれません。 でも本人は刑罰いかんに関わらず控訴しないでしょう。 それがまた涙を誘う話。 でも日本に引きこもりが100万人。またふたたびどこかで起こるかも。
お礼
ありがとうございました
- g27anato
- ベストアンサー率29% (1166/3945)
「殺人が悪」という大前提です。 正当防衛である場合のみ、事情に配慮が為されます。 彼の言い分には「自分が殺される前に殺す」という前提が有ります。 だから「殺す」という意図による「殺人 」であることが否定できません。 …この言い分自体に「正義」は存在しません。 親として本人の事情に合わせた十分な教育は施されていなかった可能性が、 「親の責任」より「自分の都合」を理由として優先させたという部分で、 「親の責任」放棄という意味で追求される可能性が残されたままです。 あのように「家庭内不適合の危険人物」として育て上げられてしまったことに、 被害者である息子にも同情の余地が有ります。 多分、自立できるだけの(事情を考慮した)十分な教育が為されてなかったのでしょう。 …それが「子に対する親の責任」として最も重要な部分になります。
お礼
ありがとうございます
- kukurin5
- ベストアンサー率23% (121/511)
そうですよね、経緯はいずれにせよ結果的に殺人を犯してしまった罪は問われてしまいますよね 私は熊沢被告は責任感が強いが故に今回の犯行に至ったのかなと思います ただ、その様な息子に育てた責任も当然有ると思うのです なので熊沢被告が全て悪い訳では無いですが責任は有ると思います
お礼
ありがとうございました
- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
> 何故世論は熊沢被告が悪みたいな論調なのでしょうか? 法律の「専門家」+マスコミの考えと、一般人の考え方では、処罰の基準、処罰の目的が異なるのです。 陪審制ができたころ「法曹界実務と一般人の気持ちの乖離」が言われました。 例えば、昔Bから不当な暴力を受けたAが、加害者のBに復讐しようと思い執念深くBのみの付け狙って何年後かにBを殺した場合と、Cが「ダレでもいい。殺したい」と思って偶々通りがかった人を殺した場合とでは、AとC「どちらを重く処罰しなければならない」と考えるか、という問題で論じられていたのですが、 検察官などの専門家は、「Aを重く処罰しなければならない」と考え、一般人は「Cを重く処罰しなければならない」と考えるのです。 一般人の理由は「何時自分が被害に遭うか分からない。危なくてしようがない」からCは重くして自分たちから遠ざけて欲しい。それに対してAは、目的を果たし、もう二度と人殺ししそうにないから軽くてもいい、と考えるのです。 検察官ほか法曹界の人間やマスコミは、長期間違法行為をしようとしていたAのほうが、「Aのほうが法律に反するから止めよう」と考える機会は多かった。止めるという決断をすることは十分に期待できたのに、あえてBを殺したので、違法性が高い。反規範的であるのでAの罪は重い。危険かどうかなんてどうでもいい(とまで言ったら言いすぎですが)。 それに対して、Cの殺人は衝動的なもので、心を病んでいたかもしれないし、殺人を止めるチャンスがなかった。故に止めるということの期待可能性が低く、違法性も低い。故に、処罰は軽い。 といった具合です。彼らは、机上の空論で考えるので、息子を殺した農水事務次官の熊沢被告は大悪人となるのです。 私は、質問者さんのご意見に近い感じ(たぶんもっと極端)で、あの元次官が私や私が大切にする人たちを傷つけたり殺したりする危険を感じないので、まったく処罰されなくても不満はありません。
お礼
ありがとうございます
- 振内山(@samusamu2)
- ベストアンサー率20% (697/3360)
>>何故世論は熊沢被告が悪みたいな論調なのでしょうか? 少なくともヤフーニュースのコメント欄を読む限りだと熊沢被告に同情するコメントが大多数を占めてます。 私もその一人ですし。 結局のところ親がどう教育しようとも子供は親の希望通りには育たないってことなんでしょうね。熊沢被告もお仲間にそう言ってたそうですよ。 熊沢被告は息子との関りを合いをみても親としての義務をしっかり果たしていたようにおもえます。
お礼
ありがとうございました
お礼
ありがとうございます