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大日本史の南朝正統説

徳川光圀が編纂を始めたという大日本史では、南朝正統説がとられているようですが、これは、純粋に学問的見地によるものなのでしょうか、それとも水戸藩に有利となるような政治的意図があるのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • junt
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回答No.2

 中国思想は関係無いですね。当時の時代背景と学問的見地によるものです。  南朝に同情的な『太平記』の普及などを背景として、正親町天皇の永禄二年(1559)楠木正成に対する朝敵赦免の綸旨が出されるに至り、正成崇拝熱に拍車をかけることになりました。水戸の徳川光圀は正成崇拝論に強く刺激され、『大日本史』の南朝正統論に発展したのです。同書の南朝正統論は、神器の所在によって正閏(せいじゅん)を決したものですが(これに対して北朝は、あくまで血統上の嫡流をもって自流を正統と主張した)、この論は儒学者・国学者・神道家などの間に広まり、尊皇論の支柱ともなって政治的色彩を強めていきました。  一方江戸初期林道春・春斎父子が幕命を奉じて著わした『本朝通鑑』は、客観主義的史観を強調し、南北両朝についても、みだりに正閏を私議すべきではないとしながらも、現朝廷の祖である北朝を閏位につけることはできないとして北朝正統の立場をとりました。しかし、北朝が逆臣の擁立したものであることも認めており、一種の両朝並立論的な色彩もみえます。その後幕末になるに至り、成島正直が『大日本史』の批判から出発して並立論を唱え、両朝各列に伝を編して南北朝史を論じ、『南山史』と名ずけたことも注目されます。  こうして、明治以降は南朝正統論・北朝正統論および両朝対等論が並び存しましたが、史学の学問的独立が擁立されるに伴い、両朝並立論が深化し学界の主潮となったのです。すなわち明治三三年学界の重鎮重野安ゆきは、両朝ともそれぞれ存立の根拠をもっている以上、ただ当時の事実により、二つながら並び立てるのが穏当であると論じ、現在の学界の主流となっているのです。

kokutetsu
質問者

お礼

南北どちらを正統とすべきかという点において、実に激しい議論が戦われてきたのですね。最後は、両朝どちらも尊重しようという所に落ち着いたのは、日本人らしい知恵なのでしょうか。

その他の回答 (1)

  • tanuki4u
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回答No.1

中国思想、あるいは、明からの亡命者の思想背景です。 明からの亡命者の正統思想としては、 外来王朝である清を正統王朝として臣下になってはいけない。 ※ なので彼らは亡命してきたわけです。 正しい行動はなにか?正統皇帝に殉じること。 中国史には、その例が何人かいました。 ※ 屈原なんか有名ですね。 さて、この行動が正しい行いとすると、日本でそのような行動を取った人は誰かと探したら… 楠木正成 これしかいなかった。 ※ 湊川の戦いですね ということで、楠木正成がOKとした王朝はどこか? それは、南朝となります。 水戸家には尊皇であるべしという、言い伝えがあるようです。家康に徳川家のリスクヘッジとして水戸家だけは独自路線を取れと。 それにしても、家康にとっての皇室は、現王朝である北朝なのですから政治的見地からは、南朝正統説はでてこないかと。

kokutetsu
質問者

お礼

ご学識をいただき、恐悦至極です。歴史を編纂するということは、自分たちこそ政権をとるべきだ、という我田引水的な結論を導こうという野心があるような気がしているのですが。どうでしょうか。

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