• ベストアンサー

カインとアベル

創世記で、神様がアベルのお供え物は気に入ったけれど、 カインのお供え物は気に入らなかったというのは、どうしてですか? 生きた動物を殺して肉を捧げるのは良くて、 汗水流して耕して、その結果できた農作物はだめなんですか? ※カテ違いだったらすみません。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • veradico
  • ベストアンサー率44% (11/25)
回答No.10

ご質問について,参考になればと思い,コメントします。 まず,聖書のその部分は,次のように書かれています。(日本聖書協会口語訳1955年版) 「4:3日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。4アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。5しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。」  それで,よく見ますと,「アベルとその供え物」「カインとその供え物」と書かれており,単に「供え物」だけを「顧み」たのではないことがわかります。 神は「アベル」「カイン」という「人」に注目したのではないでしょうか。  では,神が「カインとその供え物とは顧みられなかった」理由は何でしょうか。どこにその理由の確かな根拠がありますか。それは,続く部分に次のように書かれています。 「4:6そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。7正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。  どうでしょう。神は,カインに「正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めます」という指摘をしています。このことは,「顧みる(評価する)」対象が何であるかを洞察する助けになります。(そして,この時,カインは「反省」すべきでした。)    では,神は,何を重視されるのでしょうか。「野菜や肉」ですか,それとも「正しい事をすること」(態度や行ない,人格はその元となる)でしょうか。 ご質問の聖書の箇所は,一見すると,「野菜か肉か」が評価の基準になっているように見えます。しかし,よく読んでみると,そうではないことが分かります。「常日頃から,正しい事を行おうとする人」であるかどうか,なのです。 このような判断が妥当である裏付けは,カインのその後の態度と行為です。神から忠告と警告を受けたカインは,その後どうしたでしょうか。弟のアベルを殺したのです。野原に呼び出して人を殺したと書いてありますから,そのような行動の元となる人格は,一晩ではできないのではないでしょうか。 カインの親であるアダムとエバは,完全な良心を持つ人間として創造されましたが,自分の自由意思を誤用して神の禁令を破り反逆しました。そのため,カインとアベルはどちらも親から悪い心の傾向を受け継いで生まれました。創世記8:21には「人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである。」と書かれています。しかし,アベルは,いわば,自分の良心と信仰によって「それ(悪)を治める(制御する)」人だったのです。一方,カインはアベルとは異なる人格だったのでしょう。自分の良心で自分が悪い事をするということを「治め」ようとしなかったのですね。だから,心をご覧になる神からズバリ指摘されているわけです。  まとめますと,神が評価した対象は,創世記4章4,5節から「正しい事をする人格や行動」であることがわかります。

alice_liddell
質問者

お礼

ありがとうございました!

その他の回答 (9)

  • bekraf
  • ベストアンサー率42% (16/38)
回答No.9

アベルが優れているところは一つではなく複数あり、そしてそれらは信仰というひとつに繋がっている。そんな気がしますが 。 ☆できる限りよりよい物を選ぶ >熟した良いものだから収穫したんだと思っています。 はい。当然熟しているから収穫しますが(農耕者だし、放置するといたむので)、その中でもより良く熟したとか、より甘そうなとか、より大ぶりのとかそういう記述がないですから、、 アベルだけ形容がついてるのは不自然じゃないですか? 取り立てて書くことも無かったのかなと。 ☆穢れ 3:17 神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。 ここで土は呪われるものとなっていますので、土の実りも穢れたものとなり、神にふさわしくない捧げ物だった。 一方アベルは穢れなき羊の子、しかも初子。 ノアの箱舟で神が清い獣と言っているので 清い獣と清くない獣がいるのですが、とりあえず羊は清い獣だったわけですね。しかも子ですし初子(穢れはない上に栄養価も抜群で他人にはあげたくない)ですし。 お父さんの言うこと覚えてたんでしょう。こういう一つ一つを正確に行うのは信仰に厚くないとできない事です。 ここからは自信ないのですが、 ☆神の望むもの キリスト教じゃなくても、日本の神でも供え物にヤギだか馬だかの足を切って供えてます。 そういった儀式の供え物は 神の喜ぶもの=誰にもあげたくないくらい価値がある=精一杯の気持ち みたいな感じで、、そういうのも関係あるのかも? これは主が、あの山に登りお前の一人息子を捧げよと言ったので息子を殺そうとすると神の使いが、「待て。一人息子を捧げようとしたこでお前が神を畏れるものとわかった」と言っているから。何章か忘 捧げ物は神の望むもの、気持ちを、神の望むやり方で捧げるのが正解でしょうね。 あとこのくらいしか今思いつきませんでした。 聖書は読んだことなかったので聖書で教えたいことと違っているかもしれませんが(汗) これは面白い書物ですね。 いくらでも解釈のしようがあるようにわざわざ書いてるのでしょうかね? そのほうが信者同士互いに話し合い、語り合い、より強固な絆になる、みたいな思惑が著者にあったのかなんなのか。 読む人の数だけ解釈のしようがあるんじゃないか・・・?と思ってしまう本ですね。

alice_liddell
質問者

お礼

羊は草食で、草を食むと思うのですけど。 というか、肉食動物であっても、草食動物を食べたりして、 食物連鎖の関係から、穢れも清いもないと思うのですけど、 それは昔の人が書いた神話ですから、食物連鎖とか、 そういう概念はなかったのでしょうね。 (中東~北アフリカの辺りの遊牧民っぽいですし) アブラハムにイサクを捧げよ、というくだりでしょうか。 創世記の22章ですね。 旧約聖書は、一人の作家が書いたもの、というわけではなくて、 長い年月をかけて、現代では不詳の人物たちが語り継いできた物語なので、 いろいろと矛盾が多いですし、 今みたいなグローバルな時代ではないし、現代の日本人からしたら、 相当な違和感がありますね。 地球が丸いとか、地球は太陽の周りをまわっているとか、 太陽系は天の川銀河だとか、そんなこんなの知識もないし。 ただ、信者の方も勿論ですけど、信者じゃなくても、 聖書から得られる良いものもたくさんあるし、 欧米の方も、仏教やヒンドゥー教から良いものを取り入れたりしていますから、 旧約聖書は新約と違って、神話・ものがたり色が強いですけど、 歴史的・民族文化的・神話的読み物として、とても面白いです。 ご回答どうもありがとうございました。

回答No.8

 No.5です。  ★ 神様が[・・・]カインのお供え物は気に入らなかった  ☆ というのは カインが自分の心の中で 自分の〔神や弟アベルに対する〕思いが どうも我れながらよくないなぁとすでに思っていた。ということではないでしょうか?  アベル〔の献げものやその仕方やあるいは日々の生活における思いや信仰〕を見て取っておのれの心とくらべてみる。どうも 自分の場合はかんばしからずと思っていたのでしょう。  そのような心の内なるやましさを どうしょうもなく・つまり反省して心を入れ替えればよいのに たとえばアベルに八つ当たりした。ついに殺すまでになったのですが それにしても 《神とわれとの関係》の問題でありつつ その実際は 単純な心の悩み――または闇――をめぐって起こっている問題であったとも考えられます。  という考えが 得られました。  そして カインに対するその後の神の態度を見るなら この物語は 一般的な主題としての《ひとごろし》論であるかとも思われます。  (その点で アベルのひととなりが はっきりしません。人物を描くことにではなく 殺人という人間の意志行為を主題としている)。  アダムとエワとにおける《善と悪とを知る木から採って食べた》という自由意志論につづく議論としては その自由意志が おのれの心にさえ逆らってその自由度を発揮することがある。と語っているかと考えられます。  おのれの自由意志の自由および意志に逆らって・あるいはつまりその存在の自由かつ意志の自由をすでに抹殺するというところまで逆らって・つまり人殺しをさえするまでに自己矛盾を起こすものだという議論を聖書記者たちは 展開させた。  人間論  第一章 自由意志論:エワとアダムが禁断の木の実を食べた  第二章 自由意志の自由度は 自己矛盾としておのれの・および他人の意志を抹殺するまでにおよびうる:カインによる弟アベル殺し  というような恰好においてです。  どうなんでしょうか。

alice_liddell
質問者

お礼

映画『エデンの東』では、J.ディーンの役どころはカインに該当すると思いますが、 どうもアベルには魅力を感じません。 映画とかではなく、聖書を読んでいても、カインにドラマ性や人間くささを感じます。 再度のご回答ありがとうございました。

  • bekraf
  • ベストアンサー率42% (16/38)
回答No.7

こんばんは。 他の回答者さんが少し写してくれてますからコピペします。↓ 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。 「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」 カインは答えた。 「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」 パッと思いつくのが吟味(心がこもってない)してないなって思いました。 アベルは羊を。どれでもいいのではなく、おいしい仔羊を、仔羊の中でもよく太った仔羊を、それも初子を。 カインもせめてよく熟したのを選んで持っていけばよかったのに。 もう一つ思ったのは、 カインは神の態度(自分と自分の捧げ物に目もくれない)を見て、捧げ物の差に(捧げ物はつまり、主を喜ばせたい気持ち、心、敬う心による結果。従って、つまりは信仰心、良心)気付いただろうに「気が利かなくてすみません」と言うことも無いばかりか、アベルが自分より優れた捧げ物(=信仰心、良心)を持ってきたことが、つまりは自分がアベルに劣ることが恥ずかしく、下を向き、自分には見向きもしない神がアベルに目を留めたことに嫉妬し怒った。 信仰心、良心が邪心を制すれば己の未熟さを悔い詫びることができたのに。 神はカインに言う。 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しい(精一杯の捧げ物、つまり信仰心)のなら、顔を上げられるはずではないか。 正しくない(邪な心がある)なら、罪(嫉妬、憎悪、殺意)は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれ(嫉妬、憎悪、殺意)を支配せねば(コントロール或いは制御)ならない。」 こんな感じに私には捉えられました。 自分よりもずっと目上の敬うべき人に何かあげる場合、喜んでもらいたい一心(良心)から、今ある中でも最も熟した、新鮮なものを普通選びますよね。

alice_liddell
質問者

お礼

熟した良いものだから収穫したんだと思っています。 聖書って日本の書物と違って、冗漫な記述も多い半面、 説明不足で誤解を招きやすい記述が多いですね。 アベルの初子だの肥えたのだの書いてありますけど、 カインのお供え物には、形容がされていませんから、 熟してピカピカのものなのか、 熟しすぎてグチャグチャになりかかっているのか、 未熟なものだったのか、虫食いだったのか・・・ まったく言及されていません。 良くない作物だったのなら、それを聖書にも記載しないと、 どうしてカインがダメで、アベルのお供え物だけが顧みられたのか はっきりと判りません。 不親切な物語だな~と思います。

  • yuniko99
  • ベストアンサー率15% (31/204)
回答No.6

聖書には「義人はいない」とか「主よ、主よと祈ったものが天国に入るとは限らないと」か 色々と神が誰を義とするかはなかなか分からないという記述が多いです。 カインとアベルも必ずしも動物を捧げたから良くないとは限りません。 神に子羊を捧げつことは聖書では多いです。 このカイン・アベルの問題は たとえ自分が成功しなくてもそれを妬みに思わず 顔を上げて平気でいなさい またチャレンジすればいい と言う様な意味合いだと思います。 自分の信じた事に失敗しても前向きに頑張りなさい どうすれば成功するか考えなさい 自分がダメで他人が成功したからといって 妬みで人を害しない様に という教えだと思います。 どうでしょうか?

alice_liddell
質問者

お礼

そうなんですかね・・・

回答No.5

 ありす_りっでるさん こんばんは。  新約聖書のヘブル人への手紙 11:4 にこのカインのことが触れられています。カインは――ほとんどいきなりですが――《信仰がない=正しくない》とわかっていたとかどうだとか。    ▼(ヘブライ人への手紙11:1-4) ~~~~~  1: 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。  2: 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。  3: 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。  4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とは言うものの わかりづらいですね。ですよね?  このあとこのへブル書では エノクやアブラハムやヤコブ・イスラエルらあるいは ヨセフやモーセなどなどのことがらをめぐって 信仰とは何か・その見えない力のことが語られています。  ここでわたしに なお分からないのは こうです。  ▼(同上) 4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。  ☆ つまりまづ アベルが信仰の篤い人であったことは そのまま受け容れるしかありません。分かるとします。ですけれども   ▼ アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ  ☆ たからと言って その《いけにえの優れ具合い》によって・あるいはつまりカインのいけにえは劣っていたということによって   ▲ (創世記 4:5) カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。  ☆ ということなのでしょうか? これも分かりづらいように思います。そんなに神は貪欲なのかと問い返さなければならなくなります。  整理しつつ考えてまいりますが:  (1) カインも 神にいけにえをささげているということは 事実である。    ▲(創世記4章) ~~~~~~~~~~~    3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として     持って来た。    4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。     主はアベルとその献げ物に目を留められたが、    5: カインとその献げ物には目を留められなかった。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     (2) 《土の実り》は 《羊の群れの中から選んだ肥えた初子》よりも劣っていた。あるいは絶対的にまちがっていた。もしくは いやしいものであった。ということなのか?  (3) あるいは――いまのつてで言えば――ひょっとして その農作物だとか羊の初子だとかのモノの問題ではなく いけにえをささげるときの心の問題なのであろうか?  (4) おそらくヘブル書にしたがえば それら全体としてのその人の《信仰》のあり方やその中身の問題であったということなのかも知れない。そういうことなのか?  (5) つまりあるいは 人の気持ちや心の問題をも超えて 否応なしに 〔ひょっとして心の目にも見えないところの〕信仰のあり方として決まっている・つまりは 神の目から見て 決まったということであろうか?  (6) つまりは もしそうだとすれば 信仰とは ひとつに人間の心や意志のあり方を超えて すでに神のほうから見て 決められていると取るべきか?  (7) つまりいちおう人間はその自由意志で考え動くのであるから その意志による自由選択が どうなるかを神は予知していて その信仰のあり方がけっきょく決まっている(分かられている)というかたちになるのか?  (8) もしそうだとすれば カインは    ▲(創世記 4:5) ~~~~~~~~~~~   カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。   カインは激しく怒って顔を伏せた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  というのであれば そのときただちにその信仰の問題だということが――つまりは 人間の側の自由意志によるのではなく そうではなく 神の側の予知の中におさまる自分の信仰のあり方が問題だということが――すでに分かっていた。ということだろうか? カインはそのことがヒラメキを得て分かって 《激しく怒って顔を伏せた》か?  (9) 問題は カインならカインの《わたし》とそして神との関係にありなのか?  (10) カインは アベルにくらべて(もしくは比べるという問題ではなくかも知れないが) いけにえに何をささげたかではなく そもそも信仰のあり方が おかしかった。〔誰から見てか? けれどもそれはともかく〕 そしてそのこと自体について 神が《そのいけにえに目を留めなかった》そのことによって ただちに納得した。こういうことなのか?  (11) すなわち カインとアベルそれぞれと神とのあいだで すべては――最終の決定的な要因としては―― それぞれの信仰のあり方がものを言うということなのだろうか?  (12) そうしますと むしろこうなりますまいか?  すなわち 《いけにえに何をささげるか》にかかわらず・あるいは もっと言えば たとえ《いけにえに何をささげるにしても・ささげなかったにしても》 それらにはかかわることなく 何をさておき信仰のあり方が 神に見られていた。分かられていた。――したがって 初めからカインは弟のアベルをけっきょくにおいてころすようなことになると分かられていた。ということなのだろうか?  (13) だとすれば この一般化して《ひとごろし》ということの意味は どういうことなのか?  なぜアベルという人間は――あるいはアベルでなくとも 人が―― ころされることになったのか? そのことにどういう意味があるのか? という問いに成って来ないだろうか? カインという一人の人間の問題だと言うよりは。  (14) それは 弟をころして《呪われる者》となったから カインはわるいのではなく そうではなく もともと信仰のあり方によって わるいおこないをもする人間であった。となるのだろうか?   (15) そしてそれでも カインは 神による守護をも得て 生き抜く。   ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~    主はカインに言われた。       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ここに《カインという特定の人間の問題ではない》といったことがかかわっているのだろうか?   (16) 以上のような物語なのでしょうか?  (17) でももし こういった広く捉えていわゆる《原罪》関係の問題なのだということでしたら かのイエス・キリストの十字架上の死とその後の復活〔という物語に沿うかぎりでその内容〕によって購(あがな)われ 赦されてあると考えられるからには もういまでは カインの罪の問題は 忘れられてある。(むろん ひとごろしという行為はよくない)。こう取ってよいでしょうか?  (18) つまり その後の経過をもふくめて 全体として カインの問題はすでに――理論上は―― 解決済みである。こう捉えるかたちのお話としてあるのでしょうか?  (19) もしそうだとしたら    ▲(創世記 4:8) ~~~~~~~~~~~~~~~     カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、     カインは弟アベルを襲って殺した。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  というようなかたちで いま現代において襲われるときには 人は抵抗するということでよろしいでしょうか? なぜならカインの問題はすでに済んでいる。ゆえに 二番煎じを演じる謂われはない。と考えられましょうから。    どうでしょうか? どこか間違えていませんでしょうか? (じつはまだわたしも 最終のかたちとして腑に落ちていません。いったいどうなっているんでしょう?)

alice_liddell
質問者

お礼

ありがとうございます。 カインについてはその後日談もありますが、アベルのキャラが不明ですね。 アベルの信仰心は厚かったのでしょうけれど、どういう人か分かりませんし、 子孫もいなかったようですね。 聖書においては、人類最初の殺人といわれるカインの弟殺し。 いろいろな解釈がありますけど、私にもなぜ神がカインの供え物を 顧みなかったのか、よくわかりません。 ありがとうございました。

noname#214841
noname#214841
回答No.4

時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。主はカインに言われた。 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。 「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」 カインは答えた。 「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」 (『新共同訳聖書』創世記4章3-9節) *** *** *** *** *** 私は当事者ではありませんので、具体的な事情は存じ上げません。この文章を読むかぎりでは、ふたりの献げ物には違ひがあるやうに思へます。カインのほうは、単なる「土の実り」ですが、アベルの場合は、「羊の群れの中から肥えた初子」です。アベルのささげた羊は、安価なジンギスカンのマトンではなく、日本の牛にたとへるなら、やはらかい霜降肉の高級品だつたのではないでせうか。カインには、出し惜しみの心があつたのかもしれません。私の邪推でしたら、御容赦ください。 これだけのことで、「激しく怒って」弟を殺害するのですから、精神的に問題があつたのは確かです。「わたしは弟の番人でしょうか。」といふ言ひ逃れは、今でもよく聞くセリフです。この言ひわけのギリシャ語訳は以下のとほりです。 μὴ φύλαξ τοῦ ἀδελφοῦ μού εἰμι ἐγώ; (『Septuaginta』Stuttgart 創世記4章9節) Alice Liddellのお父さんHenry Liddellが編纂したギリシャ語辞典には、「φύλαξ」(番人、守護者)の用例として、プラトンの言葉が挙げられてゐます。 「誰と誰が自己の信念の最もすぐれた守護者であるかをたずね求めなければならない。」 (プラトン『国家』第3巻413C 藤沢令夫訳 岩波文庫(上)276ページ) 私は信用できない者ですので、あくまでも参考まで。

alice_liddell
質問者

お礼

ありがとうございます

noname#206833
noname#206833
回答No.3

そうですか・・・ でも これで判らないのなら 全てを聞いても判らないだけ・・ 現在でも 会社等は 直属の上司に事案を言って それを役員で会議する・・下っ端社員が いきなり役員会に言う様な事が無い・・ カインとアベルも同じなのだから・・

alice_liddell
質問者

お礼

へぇ。。

回答No.2

創世記を書いた人は、神は好き嫌いが禿げいしい人というキャラクタ設定にしました。 その為、お供え物本体を見極めるのではなく、お供え物をしてくれた人の出自や背景などによってより好みをしたということです。気分屋さんだったとうことですね。

alice_liddell
質問者

お礼

そうですか。。

noname#206833
noname#206833
回答No.1

何処まで あなたが解かるかな!?・・ まず アダムが堕落した時に 良心だけだった心に悪心が宿りました・・ アダムの血統を受け継ぐ長男カインは サタンにとっては最高の宝物・・ なのでサタンはカインを選びました・・ 残ったアベルを神が取り アベルを通してカインが供え物をすれば カインの供え物を善として受け取る事が出来たのです・・ しかし カインはアベルを殺した・・ (あなたが 何処まで解かるかが問題点なので簡単に してみました)

alice_liddell
質問者

お礼

へえ。 簡単すぎてよくわかんねぇや。。

関連するQ&A