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なぜ明治時代に女性の地位がストーンと下がったのか
明治時代になって、なぜ女性の立場が下がったのでしょうか。 父権社会、男尊女卑・・・ それまで、女性は家屋がもてた、土地がもてた、不倫もできた・・と 大らかで自由なものでした。 明治になってから、女は、男の陰を踏まず、三歩下がって、となったのは、 薩長・九州男児の影響なのでしょうか。
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No.5です 補足を頂戴しました 補足に「フランス流の民法はめめしくて、日本の美風を損なう、というで ドイツ法をもとにした明治民法が制定され」とありますが、若干経緯が違います。 当時フランスの民法はナポレオン法典と呼ばれていますように、決して「めめしい」ことはありませんでした。 ドイツにするかフランスにするかについては相当に激しい論争が行われていて、最終的に政治決着のような形でドイツ民法を基にすると決定されました。 政治決着を付けるのに当たって如何なる判断に基づいたのかはよくわかりません。 ナポレオンが失脚したのと、ドイツが隆盛になってきていた点を考慮したのか、国内の権力闘争のバランスから決めたのかはよく分かりません。 フランスはフランス革命以来政教分離を徹底していましたが、これに対して当時の日本は天皇を頂点とした祭政一致の政体を目指して国家神道化なども進めていましたので、この辺も影響したのかもしれません。 学会でもいろいろな説が考えられてはいるようです。 ともあれ、女性の地位を貶めることを目的としたのではなく、家父長制度を法文化した結果として女性は家父長に従うことで保護される一方で、社会への参画を阻害する形となってしまったということかと思います。 江戸時代から続く慣習法的な部分が全く成文化されませんでした。 この結果論とした生じた現象が喧伝されて、明治時代は男尊女卑であったとされたのかと思います。 民法制定(明治23年)後に日清(明治27年)日露戦争(明治37年)と国際戦争へと突入にていきましたので、なかなか修正は難しかったでしょう。 修正の気運が盛り上がらなかったのは、富国強兵が国是となっていたことも影響があったかと思います。 参考 民法典論争 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/民法典論争 論争の経緯が記載されています。 ボアソナードと民法成立の嵐 www.geocities.co.jp/WallStreet/5831/boasonardo.html 旧民法 - nifty homepage3.nifty.com/tanemura/re3_index/2K/ki_kyuminpo.html 論争の年代順の表があります イエと旧民法 - nifty homepage3.nifty.com/tanemura/re3_index/1A/i_ie_minpo.html 明治民法家族制度の概要が記載されています。
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>明治になってから、女は、男の陰を踏まず、三歩下がって、となったのは、 薩長・九州男児の影響なのでしょうか。 薩長の影響というよりも、明治民法による規定が直接的にも間接的にも影響しています。 ではなぜ、明治民法が女性の権利を制限したのか、というと当時明治政府が参考としたフランスおよびドイツの民法が大きな影響を与えています。 原案はフランス人とドイツ人がそれぞれ起案しました。 フランスはフランス革命で自由、平等、博愛を国是としましたが、事態は男性に対してのみで女性の権利は著しく制限されていました。 参考 女性差別の根源 - 京都産業大学 www.cc.kyoto-su.ac.jp/~konokatu/watanabe(06-1-27) これ等の価値観はキリスト教に大きく依存しますが、キリスト教というのは基本的に男性優位の宗教です。 上記サイトににも詳しく記載されています。 敬虔なプロテスタント国家であるアメリカでも家庭における女性の位置づけは現代でも高いものではありません。 参考 二重基準:アメリカの本音と建前 - 自由主義史観研究会(歴史論争最前線) www.jiyuushikan.org/rekishi/rekishi189.html 抜粋 アメリカには女性管理職も多く、仕事ができれば原則的に性では差別されない。ところが驚くべきことに、殆どのアメリカの家庭では、今も家計の主導権を夫が握っている。妻は夫から決まった金額を渡され、それだけでやりくりする。妻の給料は共同名義の口座に入るので、夫が管理している。社会の男女平等と家庭の男女不平等という二重基準に、進歩的なはずの女性が気づいていない。全米一人気があるテレビショー『オプラ』で面白いトークがあった。アメリカの概念で言えば、男尊女卑で苦しんでいるはずのムスリムの女性が、「私たちは働かないでよいし、男性が全て守ってくれる。それに比べて、外で働き、家庭でも働くアメリカ女性は不幸だ」と、彼女より自由だと信じている女性たちを哀れんで評していたのだ。 現在ECやEUで取り組んでいるのは、あくまでも政治経済への女性の関与を高めようという動きであって、なにもかも男性と同等という考え方に基づいているのではありませんので御注意願います。 逆に、敢えて国際的に議論を展開しなくてはいけないということは、現実がガラスの天井と呼ばれるように差別が存在している為です。 江戸時代の藩幕制度というのはあくまでも武家による軍事組織でした。 結果として直接戦闘に参加することがない女性は組織から除外されていました。 民間いわゆる民政は町人や百姓など各々の身分階級がもつ自治組織に委ねられていました。 いわゆる民法に相当する制文法というものは存在していませんでした。 日本は女王卑弥呼に始まり最高神である天照大御神も女性神です。 推古天皇をはじめ女性天皇が在位していた時代もあります。 関ヶ原の戦いの後に江戸へ単身で乗り込み前田家の存亡の危機を救ったのも前田利家の奥さんである前田まつ(芳春院)です。 家康も女性と侮ることなく対等の交渉相手として受け入れていました。 軍事組織であったために役職を持っていなかっただけです。 役職なしで幕府を牛耳っていた春日局などもいました。 江戸時代の女性は婚姻によって身分の垣根を自由に超えることが認められていました。 身分制度に雁字搦めだった男性をしり目に江戸文化を最大限に楽しんでいたのは女性陣でした。 大店の奥さんが家族を放りだして出羽から伊勢大阪まで自由に旅行した記録も残っています。 この日記は貴重な民俗史の資料とされています。 きよのさんと歩く大江戸道中記 - 楡の木陰で本を読む nire.fool.jp/dokusyo/dokp/dokgp005/dokp473/dokp473.html ご指摘のように江戸時代は男尊女卑の世界だったという見かたは、明治政府が吹聴した結果根付いたものです。 ご質問の「女性の立場」という点をどこにおける立場かと区分けされた方が混乱は起きにくいかと思います。
お礼
ドイツ民法とフランス民法・・・・・・ 歴史を動かした女性たちの強い女性史もあって、本当に立場次第ですね。 ご教示を有難うございます。
補足
フランス流の民法はめめしくて、日本の美風を損なう、というで ドイツ法をもとにした明治民法が制定され、家父長的家族制度が 法的に確立された、ということのようですね。
- hekiyu
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江戸時代の女性の地位はかなり高かったことが 知られていますね。 あの「三行半」も、女性の為の制度であった ことが判っています。 封建時代だから女性の地位が低かったに違いない、 というのはマルクス史観に洗脳され、実証研究を 忘れた結果です。 それが明治になって、下がったのですかね・・? 仮に下がったとしましょう。 考えられるのは、戦争だと思います。 高杉晋作などは、上海に出掛け、そこで中国人が奴隷の ようにこき使われている姿を目にし、何が何でも 日本をこのようにしてはならない、と明治維新を起こした わけです。 つまり幕末から明治、それ以後は、列強の植民地にされまい としてきた歴史です。 その一環として、日清日露戦争があり、大東亜戦争が ありました。 このように、常に戦争を意識した社会では、どうしても男の地位が高くなり その反面、女性の地位が低くなります。 命を賭けて戦い、国を守るのは男だからです。
お礼
軍国主義でしたか・・・・・ ご教示有難うございました。あなたの授業を受けたいです。
- TooManyBugs
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>薩長・九州男児の影響なのでしょうか。 薩長に限らず武家の道徳、儒教思想に加えフランス法を元にした旧民法によって確定した物と思います。
お礼
ご教示ありがとうございます。 山川菊栄さんの本は、そのあたりの匂いがプンプンします。
- jkpawapuro
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幼にしては父兄に従い,嫁しては夫に従い,夫死しては 子に従う 江戸時代はこう女性に教育していたもので、女性の地位は明治になってストーンと下がったわけではないと思います。そのあたりは一貫して低いですが、明治政府が近代法を導入した過程で、男女格差が顕在化したということでしょう。 ではいつ女性の地位が下がったか、元から低かった、まあそうですがそれでも明治や江戸時代は一番低かったでしょう。 第一に平安時代に妻問婚がなくなっていき母系家族から父系家族への変化、第二に鎌倉時代から室町時代にかけて分割相続が減り長子(あるいは嫡子)相続が一般化した、この二つの変化の中で徐々に女性の地位の低下が進んでいったと思っています。 とどめが江戸時代に上記した儒教教育、そして女性の地位(の低さ)が明文化されていったのが明治時代ではないでしょうか?
お礼
元から低く、とどめが江戸で、浮上が明治。 \(-o-)/ 説得力あります。ご教示有難うございます。
- trytobe
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「入り鉄砲出女」と、妻を江戸に人質にとられて、江戸への反乱を防止するために銃を入れず女を逃がさずにいた江戸時代に、女性の地位が高かったとは思えませんが。 ご質問にあるのは、あくまでも商人の女房など、町人の話でしょう。 武家や農民で、そのようなことはありませんし、不倫をしたらその場で斬り捨てか集落でのなぶり殺しです。 農民のそういう影の歴史をあえて学んだり掘り返して知らしめる人がいないだけで、楢山伏講のような姥捨て山や口減らし、昭和に入ってからでも「娘3人身上潰す」というくらいの女性を嫁入りさせる側の負担の大きさなど、日本列島の中でも職業や環境によっても画一的に論ずるには前提が成立していません。
お礼
機織りなど、女仕事がさかんなところは、女性上位ということもあったようで、 階級や地域によってまちまちというところも興味深いです。 ご教示有難うございます。
お礼
ありがとうございます。