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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:朝廷と公家(幕末))

朝廷と公家(幕末)とは?

このQ&Aのポイント
  • 幕末の朝廷の機能と機能していなかった点について、公家の存在と役割について調査しました。
  • 朝廷は江戸時代のほぼ全期間、政治活動を禁じられており、上級公家には人材が不足していました。
  • 一般的に上級公家と下級公家はどのように区分されるのか、詳細を調査しました。

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noname#224207
noname#224207
回答No.2

No.1です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます お礼に二三ご質問がありましたので、超概略に書かせて頂きます。 >本当に孝明天皇が攘夷思想を持っておられたかどうかは、疑問?ということでしょうか。 疑問というよりも良く分からないというところです。 天皇とういう職責は個人の発言や考え方をそのまま表には表さない、記録しないという事が求められました。 唯一の手段が和歌でした。 この歌を読んでおもんばかれ、という摩訶不思議な伝統がついてまわっている職責です。 現在でも、事前に宮内庁の連中と言葉を選ぶということをやっています。 攘夷がどうのというよりも妹を江戸へ嫁に出したりしていますので、武家と公家が仲良く国難にあたって欲しいと願っていたのが本当のところでしょう 公武合体、皇女和宮降嫁 >……本来政治にはかかわっていなかったはずの孝明天皇をはじめとして、公家というのは、そもそも世情に疎かったのでは? ご指摘の通り聾桟敷でした。 これは家康が幕府開闢と同時につきつけた禁中並公家諸法度という文書に起因します。 御承知とおり豊臣秀吉は関白であり一族は公家最高の名家であである摂関家と同格に扱われていました。 息子の秀頼が健在の頃には正月の年賀に京都の公家衆が大挙して大阪城を訪れていました。 大阪の陣で自害させたものの何時なんどき自称他称の末裔が現れて朝廷を味方に引き入れて徳川家を潰しにかかるかわかりません。 求厭上人などという自称三男も実在しました。 家康としては後顧の憂いを取り除くためには、お公家さんは本でも読んで歌など詠んでいろ、と強要しました。 政務への関与は一切否定しました。 財力を蓄えないように領地も必要最小限度に抑えました。 この状態が200年以上も続いていた訳ですから、アヘン戦争など知る由もありません。 一方幕府はオランダ領事などから正確なヨーロッパ情勢の情報を入手していました。 アヘン戦争の顛末は翌年には詳細に把握していました。 ペリーを派遣したアメリカがいかなる国であるかということも承知していました。 彼我の戦闘力の差も充分認識していました。 高島秋帆に命じて洋式大砲の射撃訓練もさせていました。 現在の東京板橋の高島平はその演習地の跡地です。 要はご指摘のように圧倒的な情報量の差がありました。 >何の権力も持っていなかった人や組織が、思わぬ権力を持ってしまった結果なのでしょうか? 御神輿のように担ぎ出されたということです。 薩長が使った錦旗などというのはでっち上げです。 京都の帯職人に造らせたものです。 征夷大将軍という役職名は令外官(りょうげのかん)という臨時職です。 関白などのような常設の官職ではありません。 征夷すなわち単なる討伐隊の隊長です。 この軽輩の官職が権威を持つようになったのは江戸時代以降です。 鎌倉時代には、実権を握っていた北条氏は見向きもせずに、京都のお公家さんを連れてきてお飾り代わりに座らせていました。 幕府というのは読んで字の如く幕を張った場所すなわち、戦場の参謀本部のことです。 早い話が、京都の外のことはこの参謀本部がよろしく取しきれということです。 大政奉還というのは、この参謀本部をたたみますので、指揮権をお返しします、ということです。 苦し紛れと言えば苦し紛れですが、アタシャ任にあらず、後は他の人を適当に選んでください、という開き直りでもあります。 西郷や大久保が放っておいたら島津斉彬などが飛びついたでしょう。 当時の大名というのは幕末の騒乱をこの程度のことと考えていました。 元々江戸生まれ江戸育ちのお坊ちゃん達ですからこんなもんでしょう。 大名の奥方様は江戸からでられませんでしたから息子は必然的に江戸生まれ江戸育ちになります。 室町幕府の末期というのは、半ば自滅して信長に頼った挙句放り出されてあえなく消滅しました。 そもそも尊氏以降は全国を統治するなどという意志も能力も持っていなかった幕府です。 スタート直後から関東は鎌倉公方、それ以西は京都の将軍という変則的な幕府でした。 >「江戸時代の幕府徳川家と朝廷との関係は、……」……例は的はずれかも知れませんが、現代で言えば「勲章」を授与できる立場ということなのでしょうか? まさにご指摘の通りです。 この朝廷から貰う、従四位だの従三位だのという称号は、大名同士の格を決める重要な称号でした。 幕府にお願いして、幕府から朝廷にお願いしてもらって下賜してもらうというものでした。 この官位に纏わる泣き笑いの話は山ほどあります。 松平定信が失脚したのも、これに余計な口出しをしたためです。 新撰組といういうのは正式な幕臣ではありませんでした。 関東の多摩川沿いに暮らす半農半士の郷士と呼ばれ階層の人達でした。 戸籍上の身分は百姓でありながら刀を差すことを許されていた特殊な階層の人達です。 幕末の物騒な京都の街の警護など平和ボケした幕臣では役に立たなかったので駆り出された人達です。

noname#228965
質問者

お礼

武家と公家が仲良く国難にあたって欲しいと願っていたのが本当のところでしょう……その後の歴史は、必ずしも天皇の期待に添わなかった展開もあったと思いますが、孝明天皇へのイメージが少し変わりました。 唯一の手段が和歌でした。……現代は、新年の一般参賀など、陛下のお気持ちを伺うことが出来る機会がありますので、隔世の感というところでしょうか。 ただ、宮内庁というのは、幕末の頃の公家達と同様、今ひとつ「信用できない」という気持ちを抱いてしまいます。無知なる者の偏見であればよいのですが。 ご指摘の通り聾桟敷でした。……よくわかりました。 「薩長が使った錦旗などというのはでっち上げです。京都の帯職人に造らせたものです。」……慶喜は偽物に騙されたということですね。あるいは、「好都合」、あるいは「騙されたふり」だったのかも知れませんが。 「征夷大将軍という……代わりに座らせていました。」……何だか、これまでの認識というか、価値観が180度ひっくり返りそうです。 「幕府」……どえらいものだと思っていましたが、お公家さんにしてみれば、武士に対する一種の「差別用語」みたいなものですね。 大名同士の格を決める重要な称号でした。……大名も貰っていたのですか。ということは現代の政治家の中にも、より位の高い勲章を欲しがっている人はいるかも知れませんね。(*^_^*) 「松平定信が失脚したのも、これに余計な口出しをしたためです。」……松平定信……聞いたことのある名前なので調べてみました。寛政の改革の松平定信ですね。貧乏ながらも公家にも意地があったということでしょうね。なんとなく気持ち分かるような気もします。 平和ボケした幕臣では役に立たなかったので駆り出された人達です。……よくわかりました。 腹が立ったのは、家茂上洛に際して、警護の役割も担っていたのだと思いますが、「浪士組なるものが組織された」とありました。それで、旗本八万騎と恐れられた?「旗本はどうしたんじゃ」という怒りになってしまいました。(*^_^*) 完全マスター「幕末史」(*^_^*)……少し大げさですが、背骨の一部見えた……という感じです。ありがとうございました。

その他の回答 (1)

noname#224207
noname#224207
回答No.1

[幕末当時の朝廷がどのように機能していたのか、又どのような点で機能していなかったのか分かりませんが、] とされておられるところが、実はご質問に当たり肝心な点です。 京都にあった天皇を最高位とする朝廷と江戸幕府との関係が漠然とであれ了解がありませんと混乱が生じます。 (1)混沌としていた時代ですので、挙げられた26人と絞っていいのかどうかは判然としません。 例えば官位も役職などもなかった吉田松陰を影響があった人物とするか否かということです。 松陰の弟子達は確かに直接政局に関与しましたが、松陰本人が直接関わり合ったことはありません。 とまり、漠然と影響を及ぼした人としますと、京都で暮らしていた公家の子弟に誰が影響を及ぼしたのか、と考える範囲を広げることもできてしまうということです。 (2)ご質問は、朝廷がどのように機能していたのか、という問題と深い関わりがあります。 孝明天皇が直接指示命令を下して、それが実行されていたのか、ということです。 例えば、昭和初期の、天皇臨席の御前会議では、天皇は発言が許されていませんでした。 御前会議で決定されたことを持って、天皇の認可を得たとされて、天皇の業績とされていました。 これと同様に幕末の朝廷における天皇の意志表示はどのような手続きが取られ、その結果がどの程度有効なものであったのか、ということです。 江戸幕府の征夷大将軍というのはあくまでも天皇の家臣すなわち朝廷の一員であったことをお忘れなきようにお願いします。 この点を御了解頂きませんと、大政奉還という手続きの意味が曖昧になってしまいます。 尊皇攘夷というスローガンが半ば以降勤皇佐幕と変えられた意味も曖昧になってしまいます。 最終的に朝敵、討幕となった意味もはっきりしなくなります。 (3)ご覧になられた解説が相当に乱暴と言いますか簡略化されていた結果生じたご質問かと思います。 一口に公家といいますが、朝廷の内部での上下の位置づけは極めて複雑な構造になっていました。 朝廷の官僚としての役職と官僚としての身分の等級に加えて家格というのがありました。 同じ家格の家族でも嫡子庶子兄弟で扱いが違っていました。 挙げられました26人のなかに親王という人がいますが、これは皇族で天皇の兄弟に相当します。 これが影響は如何にという上記の質問とも関係してきます。 朝廷の官僚としての等級は江戸幕府の将軍はもとより全国の大名は全て下賜されていました。 形式上は全て天皇の家臣ということになります。 (4)当人がどのように考えていたのかは知りません。 蛇足 江戸時代の幕府徳川家と朝廷との関係は、あくまでも軍事力を背景とした力関係と、天皇対家臣という二重の性格を持っていました。 この徳川家の軍事力を破壊して、天皇との力関係を逆転させたのが明治維新です。 天皇対家臣という関係は、侯伯などの貴族制度という形で温存されました。 ご覧になられた文章では下級公家=貧乏と決めつけているようですが、天皇ですら経済的には豊かではありませんでした。 天皇家以下全公家総額で最大時で4万4千六百石でした。中規模の大名家一軒程度で賄われていました。 名家と言われて家格の高い人でも御家人程度の収入の人もいました。 旗本クラスはごくわずかでした。 経済的な貧困を持って維新の動機とするのは些か乱暴な考え方です。 尚「七卿落ち」とされておられますが、「卿」すなわち公卿に相当するのは二名だけです。 二卿五朝臣と呼ぶ方が正確とされています。 質問の上下や影響力如何という問題とも関わりがあります。 ともかく、京都朝廷内の序列というのは複雑怪奇です。 一筋縄ではいきません。 ご興味があれば挙げられた26人各々についての説明に等級や官位などが書かれているようですので並べ替えてみてください。 ただし、これ等の上下関係が明治維新の活動に影響があったとは考えられません。 幕府が決めた上下関係ではありません。 自分達が所属する社会の内部で決めらた上下関係です。 これが不満だと言って持ち出してきても薩長の武家が受け付けなかったでしょう。 直接の回答になりませんでしたが、なにかあれば補足質問を願います。

noname#228965
質問者

お礼

(1)すみません。m(_ _)m成り行き上、たまたま買った新書1冊を読んでの疑問でして、知らない者が、訳の分からない質問をしてしまいました。 「例えば……範囲を広げることもできてしまうということです。」……分かりました。 (2)「孝明天皇が直接指示命令を下して、それが実行されていたのか」……孝明天皇が極めて強い攘夷思想を持っておられたことは、読んだ本の中でも窺えたのですが、本当に孝明天皇が攘夷思想を持っておられたかどうかは、疑問?ということでしょうか。……本来政治にはかかわっていなかったはずの孝明天皇をはじめとして、公家というのは、そもそも世情に疎かったのでは?という疑問もあります。朝廷が、「何故、あのように大きな存在になったのか」という疑問もありますが、何の権力も持っていなかった人や組織が、思わぬ権力を持ってしまった結果なのでしょうか? それにしても、「天皇臨席の御前会議では、天皇は発言が許されていませんでした。」というのは驚きです。もっとも、現代社会でも、「トップが発言する」と、良し悪しは別にして、それで決まってしまうというところはあるので、良いシステムなのかも知れませんが。 「江戸幕府の征夷大将軍というのはあくまでも天皇の家臣すなわち朝廷の一員であったことをお忘れなきようにお願いします。」……これがよく分かりませんが、ただ、ひとつ思いだしたのは、今で不思議に思って、もう少し勉強してから、それでも分からなければ質問しようかな、と考えていたのが、私の記憶に間違いなければ、「将軍家茂が許されて、江戸に戻った」というような表現だったように思います。その時「徳川幕府の将軍が、誰に許しを請わなければならないのか?」という疑問が生じましたが、少し分かりかけたような気もします。 「この点を御了解頂きませんと、大政奉還という手続きの意味が曖昧になってしまいます。」……「大政奉還」というのは、慶喜の苦し紛れの一手だと思うのですが、そもそも「大政奉還というような手続きというか、考え方というのはあったのかなぁ?」という疑問はありました。というのは、室町幕府が終わるときには、「大政奉還」というような用語が出てこなかったような気がするものですから。 「尊皇攘夷というスローガンが半ば以降勤皇佐幕と変えられた意味も曖昧になってしまいます。 最終的に朝敵、討幕となった意味もはっきりしなくなります。」……すみません。私の低レベルの知識では、全く理解できませんでした。 (3)「朝廷の内部での上下の位置づけは極めて複雑な構造になっていました。」……このご回答で十分です。 「形式上は全て天皇の家臣ということになります。」……この一行を読ませていただいて、明治維新以降も含めて、「日本社会の秩序」という言葉が思わず浮かんできました。 (4)分かりました。 蛇足 「江戸時代の幕府徳川家と朝廷との関係は、……」……例は的はずれかも知れませんが、現代で言えば「勲章」を授与できる立場ということなのでしょうか? 「この徳川家の軍事力を破壊して、」……その後の日本の行く末の良い悪いは別にして、又、時代の大きな流れでもあったと思いますが、某将軍のおかげで「破壊された」というよりも、「自壊させてしまった」という印象は持っています。 「天皇ですら経済的には豊かではありませんでした。」……何処に書いていたのか探し出せませんでしたが、たしか「酢のようなお酒を飲んでいた」というようなことが記述されていました。 「旗本クラスはごくわずかでした。」……この旗本に、少し腹が立っています。テレビドラマでも悪役にしか出てこないし、「天下の旗本」と恐れられていたというか、徳川幕府を守らなければならない立場だったと思うのですが、新撰組に旗本がいかどうかも知りませんが、眠っていたのですかねえ。 「京都朝廷内の序列というのは複雑怪奇です。」……歴史を楽しんでいる程度ですから、以後、これで理解します。(*^_^*) ありがとうございました。これで十分です。ただ折角、「なにかあれば補足質問を願います。」ということですので、「お礼」の中で、「?」のついているところについて、ご意見など聞かせていただければ、ありがたいです。

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