• ベストアンサー

孝明天皇、日米修好通商条約の調印を認めず。

日本史教科書の一部です。 「安政5年1月、老中首座堀田正睦は、上京し、通商条約調印の勅許を求めたが、朝廷では攘夷の空気が強く、孝明天皇の勅許は得られなかった」 よく知られた事実ですが、分からないところがありますので教えてください。 堀田正睦は、朝廷の誰と交渉したのですか。 交渉の場に出てきた人物です。まさか、天皇がお出ましになることはありませんね。 その人物は、攘夷論に固執して、幕府の方針に反対したと思いますが、誰がその知識を与えたのですか。 公家社会に入り込んで、攘夷を吹き込んだのは誰ですか、という疑問です。 よろしくお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.2

基本的に当時の幕府側は人事にも影響力ありますし公式ルートでの折衝となりますので、最高位の関白が交渉相手で当時は時の関白九条尚忠ですね。 一方長州側は正親町三条 実愛と、薩摩側は岩倉具視、中山忠能とつながりが深く、この3人が88人の公家を率いて廷臣八十八卿列参事件を起こし、最高位関白の方針をひっくり返しています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 薩摩も長州もこの当時以前から一部の公家と深いつながりを持っていたのですね。 wiki「廷臣八十八卿列参事件」には、 「条約の勅許を打診されたことを契機に、中・下級の公家たちの江戸幕府に対する政治的・経済的な鬱屈が、抗議活動の形で爆発することとなった。」とあります。 薩摩、長州にとっては、本心は幕府を揺さぶることだったので、これ幸いとばかりということですね。

その他の回答 (1)

  • f272
  • ベストアンサー率46% (8467/18126)
回答No.1

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B7%E8%87%A3%E5%85%AB%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%8D%BF%E5%88%97%E5%8F%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6 > 堀田正睦は、朝廷の誰と交渉したのですか。 堀田は関白九条尚忠から孝明天皇に働きかけ条約許可を求めた。 しかし堂上公家137家のうち岩倉具視や中山忠能ら合計88名の反対によって孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にした。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 wiki「廷臣八十八卿列参事件」は、参考になりました。 ただ「経緯」の項目で分からない箇所があります。 急ぎませんので、よろしければ教えてください。 しかし安政5年3月12日(1858年4月25日)に関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したところ、堂上公家137家のうち、岩倉具視や中山忠能ら合計88名が条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行った。 「関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したところ・・・」とありますが、朝廷とは天皇およびその側近の公卿のことですか。 幕府との交渉全てを関白一人が対応し、その関白が提出した議案を、天皇側近の実力者の公卿がその内容を知って、条約の撤回を天皇に進言し、さらに公家連中をけしかけたということですか。

関連するQ&A