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どうして維新の時代は山口から要人が排出されたのか
吉田松陰の影響力もあると思いますが、それだけの基となる人材がちょうどその時期に集まっていたのでしょうか? 派閥ということもあるので、全員が全員素晴らしい人物だったとは思いませんが、山口県人(長州人)が一番輝いていたのはこの時期だと思うのですが、どのような要素が重なったのでしょうか? 特に、山口県人(長州人)が他の地域の人々より優れていたという訳ではないと思うのですが。 現に今、山口県人に当時のように優れている人がたくさんいると思えません。
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私は他の方達とチョット見方が違います。 山口、佐賀、弘前などは、江戸期でも自由な発想や住人間の話し合いが割合自由な場所であった為、封建時代にもかかわらず先見性があった、と司馬遼太郎の本に書いてありました。それがどういう事かとずっと気になっていたんですが、兄弟が山口に転勤になった為訪れるチャンスがあり、それを確かめ、感じる事が出来ました。結論から言うと、風土が良かったから改革の先頭に立つ人が現れ実際に改革をして新政府の要員になったんです。 どちらにお住まいか解りませんが、いわゆる”地方”と言うと東京よりも陳腐でチョット遅れた生活をしている人々が居ると思っている面は有りませんか?山口は違うんです。当地の人をつかまえて話をするとサッパリしている。大体聞いている事に対して正確に返事が返ってくるというか、会話をすると質問に対して正確に答えようとする態度が非常に明らか。しかし、回答、意向を押し付ける感じでもなく、どの人も地方の人とは思えない。 田舎の人というのは、何人かと話すと物事に正確に答えないチョットへそ曲がりな印象を与える人がたま~に居たりしますが、山口にはそういう感じの人は居ません。それって、恐らく人材が優秀かどうかの問題ではなくて、伝統であり昔から持っていた物で、幕末に面した時にもそれを活用し新時代の幕開けをリードする事ができた。この人たちは、明治維新の役割を果たすべくして果たしたと言う事だと思うんです。 チャンスが有ったら是非行ってみて下さい。
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藩費で5人(伊藤、井上他)も英国留学させる程 人材育成に力を入れた結果だと思う。 総理を決める際に、英語位は出来ないと それで伊藤さんがなった逸話を何かで見ました。 薩摩の小松さんも、長生きしたら総理になったかも知れない。 佐賀藩がもう少し評価されても良いように思う。 鍋島上総さんとかね。 後世のドラマにも余り登場しませんね。
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回答ありがとうございます。 人材は人財という言葉がありますよね。
- hekiyu
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薩摩からも沢山の人材が輩出されましたね。 要は、倒幕をやり、成功したからだと思います。 例えば、加賀藩が倒幕に積極的になり、成功 すれば、加賀藩から人材が沢山出たと 思いますよ。 何時の時代、何処にでも一定の割合で人材は 眠っています。 運動生理学者が言っていました。 王貞治と同程度の才能を持っている人間は、 同世代に少なくとも二百人はいるはずだ。 それを掘り起こして表に出させるのが、時代です。 時代の変革です。 時代の節目節目には人材が出ます。 それは平和な時代には、平凡なまま、あるいは 少し優れた人材で人生を終わるのです。 ところが大変革があると、そういう人が頭角を 顕します。
お礼
回答ありがとうございます。 成功したからこそ今評価されるということでしょうね。
kyou90さん、こんにちは。 「吉田松陰の影響力もあると思いますが、」……その通りです。私も、吉田松陰のことは、まったく知りませんが、「人材がちょうどその時期に山口に集まっていた」ということは、考えにくいので、「次の時代の日本を担う人材を多く育てた教育者としての吉田松陰」が、萩にいたということです。吉田松陰は素晴らしい人だと思います。 しかしながら、ただ「それだけ」だと思います。説明しがたいのですが、それだったら「会津には素晴らしい人物はいなかったのでしょうか?」という疑問が思い浮かんできます。薩摩や土佐や肥前は……???となってきます。歴史というのは、優秀な人材がいたとか、過去がどうだったとかいうことも重要ですが、単に「運命のいたずら、時代のいたずら」というような側面もあるように思います。それをどのように評価するかは、人それぞれだと思います。kyou90さんなりに評価すれば良いことです。 「山口県人(長州人)が一番輝いていたのはこの時期だと思うのですが、」……???山口県人(長州人)が一番輝いているのは、「今でしょう」(*^_^*) いま、某局で、ドラマをやっているようですが、脚色、粉飾だらけのドラマが創られるということは、「山口県人(長州人)が『今』一番輝いている」証拠ではないでしょうか?
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回答ありがとうございます。 教育が歴史を作ると言っても過言ではないですね。
- kohichiro
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他の回答それぞれ間違ってはいないと思いますが、私見として、徳川の初期に藩の版図を無理やり縮小されて山口、萩に押し込められて、しかしその所属する武士士族はそれほど減らなかった。そのために士族の間で切磋琢磨され、言い意味で激しい競争と淘汰が行われたのでしょう。もともと士族は他の農民たちよりも多くの意味で優れた遺伝子を持っていたこともあって、有為な人材が幕末まで濃かったということでしょう。 もちろん自分たちが日本を背負うのだという責任感が大きく、なかでも最大の要因は松下村塾での合理的精神的な薫陶が大きかったと思われます。
お礼
回答ありがとうございます。 遺伝子とそれを育む土地と教育ですかね。
- jkpawapuro
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1単に長州が歴史の主役だったから結果として長州人の名が多くとどろく。 2長州藩は人材登用する精神に優れていて、下級武士でも藩政に参加しやすかった。 3もともと下関は水運の要衝で、その結果国内貿易が盛んで国内・国外を問わず時代の情勢を読む能力に長けていた。 だいたいこういうところだと思います、当時は能力の有無にかかわらず表舞台に立つことができない人が大半だったんですよ。そんななかで一部の雄藩は優秀な人材の登用に積極的だったということだと思います。
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回答ありがとうございます。 人材登用がうまいところは成功するのは今の時代に通じるものがありますね。
- あずき なな(@azuki-7)
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徳川への恨みです 薩摩と長州の徳川に対する恨みは半端無い(関ヶ原における島津の面目つぶしと約束違反の毛利の大幅減奉) だから260年 力を溜め続けたのです 表向きには「徳川憎し」何て言えませんから 自然に人々の間に気風として刷り込んで行ったのでしょう 今は徳川幕府は居ませんから恨む必要もありませんので
お礼
回答ありがとうございます。 徳川政権の間、思い続けていたとはすごいですね。
維新に成功したから! 失敗してたらどのように優れた人物も歴史の影に埋もれちゃうだけ。 要因として、毛利家は関ヶ原の戦の後、大きく石高を減らされた。しかし、それでも多くの家臣を養っていかなくてはならない。そこで、農業だけでなく、各種産業に力を入れた。その結果、幕末になっても力を保ち続けることができ、革命を成功に導くことができた。 維新後、薩摩・長州・土佐・肥前のうち 薩摩が軍部関係 長州が政治関係の要職を占めた。 しめだされた土佐・肥前は教育関係で力を発揮し、 それぞれ各分野で活躍した人物が有名になった。 ってところじゃなかったかな・・
お礼
回答ありがとうございます。 関が原の影響が後々にでてきたのですね。
- m41
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島津も毛利も江戸から離れたところで 300年間関ヶ原の屈辱をって気風があったからじゃないかなぁ
お礼
回答ありがとうございます。 臥薪嘗胆のきもちでですか。
お礼
回答ありがとうございます。 風土ですか。じかに感じられたのですね。