☆哲学の深く深く潜って探って行く力は数学で養われるものなのでしょうか?
◇数学や記号論理学などを哲学の分野に応用しようという方向性は、現代哲学の一つの大きな流れになっているのは事実です。
英米の分析哲学と呼ばれるものがその代表的なものです。
分析哲学は、最終的には数学的な記号操作になりますので、こうした操作ができる能力が必要になりますね。
そして、
現実や日常的な文をこうした記号列に置き換える能力が求められます。
我々が日常的に使っている自然言語は余りに曖昧ですから、正確で誤りのしようがない、極めて人工的で数学的な言語で哲学しようといった感じですかね。
19世紀から20世紀の前半に、数学(者)出身の人たちが作った流れです。
フレーゲやラッセルなどがその代表的な人物です。
こうした流れとは異なりますが、
実存主義哲学に大きな影響を与えた現象学を作ったのも、元数学者のフッサール。
現代の哲学の大きな流れを作った人には、元数学者、数学畑出身の人が多数います。
日本にも、東大数学科出身の哲学者(?)は多数いますよ。
☆それとも記号である数学をいくらやっても哲学の深く深く潜って探って行く力は養われることはないですか?
◇哲学的な課題や問題が、すべて、数学的な記号列に置き換えられ、そして、機械的な記号操作を行うことでこの問題を解決できるのであれば、YESでしょうね。
ただし、これで扱うことができるのは、論理学的に真と偽、1と0といった二つの値、論理値しかもたない問題だけです。
ですから、扱える問題はかなり狭いもの、限定されたものになるでしょうね。
と同時に、哲学は、(記号)論理学や数学、そして、自然科学と変わらないものになってしまうでしょうね。
まっ、そういうことで。