ルソーは個別意志と一般意志を区別しました。
個別意志は個人的なもの、私的なもの、それに対して一般意志は集団的なもの、公的なもの。
ルソーはスイスという直接民主制の国に生まれたので、村々で村人が全員集まり、みんなで物事を協議し、討論して、その意見を集約して、物事を決定するのを幼い時から見て知っていました。
スイスでは、この間テレビで見ましたが、村人が全員集まって村の方針を討議し、それで決定しています。
村議会で、村会議員が村人から選出されて間接的に物事を決定している日本などとは大違いでした。
今でも、直接民主制が生きているんですね。
だからルソーのいう道徳的自由というのは個別意志、それに対して市民的自由というのは一般意志のこと。
個人の道徳的自由を集約して一つにまとめること、あたかも一般人という人格がいて、その人格が物事を決定しているものと「擬制」されたものが市民的自由。
当然、その市民的自由の中に、道徳的自由も含まれるけど、道徳的自由がそのまま市民的自由に直結するわけではない。
時には道徳的自由が市民的自由と敵対することもある。
ルソーは狭いスイスの直接民主制を念頭に「社会契約論」を書いたから、その国家の中には家族と国家しかなかったから、家族と国家は同心円を描いて、つながっていたけど、現代の国家は家族と国家の間に「市民社会」というものが存在する。
ヘーゲルは「法の哲学」で、近代社会というものを「家族・市民社会・国家」の三層からなる社会と言い、ルソー・ホッブス・ロックの近代自然法国家論、社会契約説を批判した。
社会契約論者は自然状態があり、そこには自然人がおり、自然権がある、という。
そしてその自然状態では互いに闘争の関係になるから、それを避けたかったら、自然権を一時的に棚上げして国王などの統治者に統治権を委任し、統治してもらうほかはないと言った。
この社会契約説は当時の絶対主義の「王権神授説」、すなわち国王は神から統治権を委任された代理人で、人民を統治する権利を委任されたのだから、統治する正当性がある、と言った、その「王権神授説」を打倒するために持ち出されたイデオロギーであって、実際に社会成立以前に自然状態があり、自然人がいたという歴史的証拠なんてなかった。
現代でも、歴史をさかのぼって、見出されるは氏族制の社会であって、マルクスのいうような原始共同体なんて存在しない。
マルクスの原始共同体が、ユートピアであったのと同じように、ルソーなどの社会契約論者のいう自然状態だとか、自然人というのも単なるフィクション。
事実、後年、ルソーは自分の言った、自然状態とか自然人がフィクションであることを認めていた。
ヘーゲルは社会成立以前に自然人がいる、個人が存在するというのを否定して、人間は社会の中で個人を形成するので、社会・国家がなければ個人もまた存在しないのだと言った。
だいいち、私たちは社会の成員になるのに、いちいち社会と契約なんてしていない。
せいぜい、会社員になるときに会社と締結する雇用契約がある程度。
私たちを社会の一員に加えてください、契約します、と言って契約しているか?
だから社会契約論者のいう契約というのは「擬制」、フィクション。
ルソーは家族と国家の間に、市民社会が存在するのを無視した。
というよりも、スイスという狭い国家を念頭に国家というものを考えたので、社会と国家の区別がつかなかった。
ところが現代の国家はスイスと比べてはるかに規模が大きく、市民社会という経済社会のウエイトが大きい。
市民はいちいち全員が集まって、物事を決定していられない。
働くことが忙しいから、政治は政治家を選出して代議員に代わってやってもらうしかない。
そして代議員は市民の意見を代表しているかと言ったら、必ずしもそうではなく、逆に国家の代理人であることもある。
だから、市民の意向に反することを決定して市民に押し付け、強制することもある。
だから近代国家では、家族と国家が相反する、個人の道徳的自由と国家の市民的自由が対立することがある。
国家には国家の行動原理があり、国家は他の国家と対立しているのだから、市民的自由を犠牲にしなければならないこともある。
今の政治家はポピュリズムと言って、市民の意見に迎合して政治を私的なものに間違えているけど、政治は公的なもの、私的なものじゃないのだから、市民的自由を守るためには市民の、個人の道徳的自由を犠牲にすることもいとわない覚悟が必要。
お礼
ご回答ありがとうございました。