ルソーのいう「自然状態」というのは社会成立以前の古代では、人間は「自然人」であり、自然人には身分の違いだとか、そんなものは無く、みんな平等だと言ったものです。
政治・社会が存在しない以前だから、「政治的・社会的に平等である」というのは矛盾した言い方です。
政治・社会が存在したら、人間は平等ではいないのです。
ロック・ホッブス・ルソーのいう社会契約説は、社会成立以前に自然状態があり、自然人がいるというけど、歴史的にさかのぼっても、あったのはせいぜい氏族制の社会で、そんな自然状態だとか自然人の存在する社会は存在しないから、ユートピア。
ユートピアであり、幻想にしか過ぎなかったけど、それでも当時の絶対王政の「王権神授説」に対抗する言説・イデオロギーとしては有効性を持った。
絶対主義は、神から国王が人民の統治を委任されたのだから、人民を支配し、統治するのに正当性があると主張したけど、社会契約論者は社会・国家成立以前に自然状態があり、自然人がいて、その自然人が互いに殺しあうのを、つまり自然権を放棄して、互いに契約することで社会・国家を設立したのだから、もし、国王が人民との契約を無視して、勝手なことをすれば人民はそれに抵抗する正当性があり、さらに場合によっては国王を廃しても良いのだといいました。
事実、1688年の「名誉革命」で、国王ジェイムズ二世を処刑し、オランダからウィレムを呼び、ウイリアム三世として王位につけました。
人民の言いなりになる雇われ国王です。
社会契約説は「王権神授説」に対する対抗思想・イデオロギーだから、絶対主義が打倒されてしまえば、その役割は終わったはずなんだけど、その後ずっと生き続けて、今度は共和制を正当化する言説・イデオロギーに転化しました。
だけど、私たちが社会人になるときに、いちいち社会と契約なんて結んでいませんよね?
あっても、せいぜい会社との雇用契約くらい。
それに私たちはすでに存在する社会の中に生まれてくることで社会人であり、個人になるのだから、それ以前なんてない。
個人が互いに自然権を放棄して契約することで、国家を設立するなんてこともない。
ただ、そういうことで国家を正当化しているだけに過ぎない、だからイデオロギー。
どんな思想でも、登場した当初は革新的であっても、時間が経てばイデオロギーに転化するのです。
社会契約説も、今ではそのイデオロギーの一つに過ぎない。
お礼
回答ありがとうございます。 難しいですが、言わんとしていることは何となくわかりました。 現実社会では、社会契約のように、こういったことはないが、イデオロギーとしては残っているということですね。