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道徳、倫理を勉強する意義

利益追求的な空気の中で、哲学、倫理、道徳を勉強する意義って何だと思いますか? 確かに道徳や倫理って、利益にはなりませんけど、モラルの崩壊ってその集団にマイナスにはなるのだと思います。 また、日本の道徳などあるとは思いますけど。どの程度意識すべきでしょう? 何を勉強すべきでしょうか?仏教や倫理学、哲学など。 組織の現物的な利益と道徳、倫理の喪失した組織の回復の意義とどう考えるべきなんでしょうか?

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  • yuniko99
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回答No.9

現代社会は価値観が多様化して 知識レベルも高く 何より古い価値観に従うという時代ではありません このような時代に道徳倫理を解くのならば どの様な時代にも通用するものが必要です。 今、高校でも倫理社会という学科はありません ただ現実にどう生きるかという役に立つモラルが求められ モラルもなくなったら品格という言葉で補おうという有様です。 私の考える道徳は 人間と人間 つまり人間関係屋人間社会でどの様な道徳が働けば その人間社会は確かに存在・存続できるか。 滅亡ではなく、借金でもなく どの様な考えで生きれば社会が発展して幸福を感じられるか より良い社会になるか を問いたいです。 私は存在性という言葉を使ってそれを説明しています。 存在と永遠を目指す道徳倫理でありたいものです。 おそまつ。

noname#209756
質問者

お礼

情報社会で洗練されている時代ではあって、古い時代がよかったから移植するのではなくて。 ヒトとしての道の変わらないもの、幸せってということなのでしょうね。 実存主義的なものが必要かもしれないですね。 ご回答ありがとうございます。

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noname#206315
noname#206315
回答No.13

私は貴方のように理屈を言う人間を非常に冷めた目でみてます。

noname#209756
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

  • kurinal
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回答No.12

pkuobe99様、こんばんは。 「勉強する」に勝るものは、ありません。 (因果応報)

noname#209756
質問者

お礼

真理の探究はしないと無知や嘘がはびこりますよね。 ご回答ありがとうございます。

noname#207785
noname#207785
回答No.11

そういう小難しいことを勉強するよりさ。 席を譲ってあげたり、気配りしたり、そういう行動がいちばんだと思いますよ。 難しい哲学書読みながら、ぶっきらぼうで周りが見えなくなったらどうします? 何のための哲学だよってハナシです。 幼稚園の時に教わった時間を守るとか、親切にしようとか、まずそれができてるかが大事です。 幼稚園児以下の大人はたくさんいるけどね。 彼らに必要なのは知識でなく、行動です。

noname#209756
質問者

お礼

おっしゃる通り、頭の良さ悪さではないですよね。 ご回答ありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.10

pkuobe99様、こんばんは。 >「何を勉強すべきでしょうか?仏教や倫理学、哲学など。」 民主主義で良いと。思いまーーーーーーーーす。

noname#209756
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。

回答No.8

今や身の回りの衣食住ほとんどが世界中からやって 来ており、もはや我々は1人では生きられない社会 生命だと言える。 もともと単細胞生物だったのが、様々な器官に分化 して、今や一体の個体として機能しているように、 人類も全体としての最大限の機能発揮が個々の細胞 の最良の状態につながるように、個人の意識が社会 生命的な自覚(分業化=助け合いとしての社会=愛に よる労働)において自律的に行動するならば、「全体 の全体としての最大限の機能発揮」の指向において 協調したものとなり、他律的(法規、モラルetc.)に コントロールする必要はなくなる。 ところが人類は、その社会性の発達において、自己の 生命の社会的拡張を自覚化し得るだけの認識の発達を 怠り、自己チューな意識のまま、お金や出世といった 馬車馬の目の前のニンジン=アメや、法規や道徳と いった外的権威による抑制=ムチによって、他律的に コントロールする方法を取ったのだ。 哲学や科学、思想といった認識の深まりが、そうした 「社会生命的自覚(自我成立のための相補としての 環境=博愛)」に至るならば、「人生を通算した精神的 充足量の最大化」という根源的な目的だけから全ての 社会行動は導かれ得る。 道徳や宗教は、それまでの間の方便だ。

noname#209756
質問者

お礼

「人生を通算した精神的 充足量の最大化」 よい言葉ですね。 ご回答ありがとうございます。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.7

"利益追求的な空気の中で、哲学、倫理、道徳を勉強する 意義って何だと思いますか?" ↑ 人間は独りでは非力です。 しかし、集団になり組織化すれば、神も驚く力を 発揮します。 ヘーゲルは、これが神だ、としたぐらいです。 人間を集団化、組織化するためには、規律が必要ですが、 その規律の基になる道徳、倫理が必要になるのです。 道徳、倫理があって、始めて人間は集団の力を得る ことが出来るのです。 利益追求というのは、個々人の利益追求と集団の利益 追求に分かれます。 個々人の利益追求を、やたらに認めたのでは集団の力が 弱まります。 だから、道徳などで縛る必要があるのです。 集団の利益追求に道徳が必要なことは前述した通りです。 ”日本の道徳などあるとは思いますけど。どの程度意識すべきでしょう?”      ↑ 道徳には普遍的なモノと、日本なら日本に特徴的な 道徳があります。 己のアイデンティティーの為にも、日本の集団としての利益の 為にも、また、他国との調和の為にも、強く意識すべきだと 思います。 ”何を勉強すべきでしょうか?仏教や倫理学、哲学など。”      ↑ 一神教たる欧米キリスト教文化の道徳は普遍性を目指し 苦闘しています。 多神教たる日本の道徳は、時代と立ち位置により変化 します。 その違いを認識しつつ、西洋哲学をやれば、と思います。 ”組織の現物的な利益と道徳、倫理の喪失した組織の回復の  意義とどう考えるべきなんでしょうか?”      ↑ 善悪とな何かをつめていけばよいのではないですか。 ワタシは、善については秩序説をとりますので、 組織の秩序維持が善であり、その善はもっと大きな組織の 中では悪になり得る、と考えています。

noname#209756
質問者

お礼

善には秩序があり、反対行くと破滅しますね。 個と全体をテーマにしたものって難しいですよね。 リバタニアンやコミュニタリズムなど。 日本は時代によって変わるを強調しすぎな気もします。 ご回答ありがとうございます。

回答No.6

pukuobeさん No.1 です。おはようございます。 他の回答者様の回答を読んで道徳について考えさせられますが、再回答します。 この哲学カテは仏教を信仰するひとが多いように思います。日本でキリスト教を信仰する人は、カトリック・プロテスタントを含めて1%とのことです。 しかし憲法にも信仰の自由は認められていて、いかに宗教的に、その教えの真理の穴をつき、誹謗中傷をこの哲学カテでするのではなく、その宗教を信仰している人を尊重することが大事と私は思います。 さて、たった信者は1%のキリスト教ですが、大学に行くとミッションスクールはたくさん在ります。 サザンオールスターズの桑田佳祐も青山学院大学を卒業しましたから、「YAYA~あの時を忘れない」という名曲の中に「秋が恋を切なくすれば、独り身のキャンパス、涙のチャペル♪」という歌詞が出てきます。 秋篠宮の佳子様、眞子様も国際基督教大学を卒業しました。日本文化の伝統を継承し、日本人の象徴たるべき天皇家においても、私は、世界においてご公務を行うためには、日本文化だけでなく、西洋思想であるキリスト教も学び、世界の多文化の中での視点で、物事を考えることが出来るように、天皇家も舵を変更したのではと私は思っています。 しかし、そのようなミッションスクールにおいて、宗教の時間がありますが、学生がちゃんと宗教の科目を勉強しているかは、私は疑問であり、私には弟がいますが、宗教の科目の大事さが分からないく嫌いだ。レポートは可を取って卒業できれば良いと言ってました。 なにしろ、キリストの教えを守ると、「姦淫するな」とありますが、若者すべてとは言いませんが、余計なお世話だ、合コンだ。お持ち帰りだ。一発やるぞ。何、子供が出来た。できちゃった結婚だ。収入がないので子供を育てられない。子供の泣き声がうるさい。虐待死させよう。という人を子供の虐待死のニュースを聞いて私は想像しています。 この回答で問題提起しますが、自分の子供の命をも顧みない親の道徳観を考えると、やはり、道徳問題は何とかしないといけないというのが私の考えです。 しかし、学校で教えても、子供は余計なお世話な授業だといって、学級崩壊しているような先生が道徳観を説いても説得力がない。しかし、ゲームで道徳を教えるという手もある。ゲームのストーリーの中に、道徳をおもてに出さず、背後に道徳を入れて考えさせるゲームを作れば、現代の子供は喜んで学ぶのではと私は考えます。

回答No.5

たしか自民党政権が昔、戦前の修身教育を復活しようとして猛反対にあって、潰されたことがあります。 以来、なんどか教育現場に道徳の教科を組み込もうとしましたが、失敗して現在に至っています。 あなたは、その道徳教育を復活させたいのですか? 道徳・倫理という言葉は明治の文明開化とともに、日本にキリシタン宣教師が持ち込んだ言葉で、明治以前の日本にはなかったものです。 あったのは儒教の中の朱子学で、親に孝行、家長に絶対服従、男尊女卑、そして主君(天皇)に絶対忠誠、身分制の教えです。 それを明治政府は日清戦争後の明治20年代に復活させて臣民に儒教教育を施しました。 明治国家は天皇を中心とし、天皇が外側の円だとすれば、内側には家長を中心とする家制度で、女を奴隷のように「三界に家なし」の身分に落とし、男尊女卑の封建制を作り上げました。 その儒教教育を復活しようというのですから、反対するのも当然でした。 それと西欧から入った道徳・倫理というものには、キリスト教の信仰が背後にあって、キリスト教を日本に広めたいという狙いがありました。 それまで日本の道徳と言えばせいぜい「恥」とか「体面」とか「面子」でしかなく、内面的なもの、例えば「良心」などというものは日本にはありませんでした。 「良心」という言葉はキリスト教が日本に持ち込んだものです。 そもそも明治以前の日本には「内面」というものはありませんでした。 それは明治の言語改革、言文一致の効果です。 明治に「内面」というものが人為的に作られ、そこに「良心」というものが鎮座したのです。 そして「良心」が道徳的な判断をする基準になりました。 日本の近代化は西欧化にほかならず、そして道徳・倫理というのも、キリスト教の宣伝戦略にすぎません。 カントの道徳律、定言命法というのも、実質、神の命令です。 だけど日本人には西欧の一神教の神なんかいないから、カントの道徳律も無効です。 カントはプロテスタントの一派、ドイツ敬虔派の熱心な信徒でした。 道徳・倫理には必らず宗教的な背景があります。 儒教というのも宗教だし、道徳・倫理もキリスト教に由来するし、そのほかに仏教倫理というものもあります。 日本固有の倫理と言ったら、せいぜい江戸時代の「村落共同体」の「掟」くらいなもの。 「何をしてもいいけど、周りに迷惑を掛けないように」というのが、それ。 典型的な「共同体」の倫理。 あるいは「空気を読め」というのも同じ。 日本人には道徳の基準がなく、中心は「空っぽ」、だから周りの顔を見て、「空気を読み」、それに合わせて道徳というものをコロコロ変える。 日本人の「事大主義」というのは柳田国男のいうところ。 「事大主義」というのは「長いモノには巻かれろ」というもの。 集団主義。 みんながそっちを向けば、自分もそっちを向く。みんながあっちを向けば、自分もあっちを向く。 みんなと同じことをやっていれば安全。 「出る杭は打たれる」という。 人と違うことをするのは危険。 西欧人は自己の「良心」に基づき、悪いものは悪い、善いものは善い、と考え、周りが反対しても自己の信念を貫く。 それこそ、道徳というものです。 カントによれば道徳は「自立」、他人の顔なんか見ない。 日本人とは正反対。 そんな日本の風土で、道徳・倫理を説くことがどんなに難しいか。 明治以前の儒教道徳に戻れないし、西欧の一神教のキリスト教道徳に行けないし、江戸時代の「村落共同体」の村の「掟」にも戻れないし、仏教倫理にも行けないし、一体どうしたらよいのか? 私には分かりません。

  • a_hona
  • ベストアンサー率21% (95/444)
回答No.4

端的に、道徳観念に魅力があるから、それを学びたい、身につけたいと思うのではないでしょうか。 ただ生きるよりも、善く生きるほうが美しい、人間として確かな人生が歩めそうな気がするとか、道徳観念に縛られるのは本末転倒ですが、それらがある種の輝きを持っていて、人を誘惑するのは事実だと思います。 道徳や倫理観念に対するあこがれのようなものを人間は持っているのではないでしょうか。それを備えていないよりは、備えている方が美しいと感じるのではないでしょうか。 ちなみに私は道徳観念に縛られるのはよしたいとしている人間です。しかし同時に、それらのもつ魅力もある程度は理解していると思います。

noname#209756
質問者

お礼

醜くいきたいということはないのでその人はリアリストかもしれないですね。 現実だけでは、理想などめざすもののない世界に思えます。 醜いのは集団としての破滅などやはり維持には真善美は必要な概念に思えます。 ご回答ありがとうございます。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.3

>道徳、倫理を勉強する意義 ごく簡単にいえばですね、人間は動物の一種であり、様々な法律で社会協調をつくろい縛っていてもやはり自己中を基本として弱肉強食の世界の影響を受けて、強いものがよわいものを順々に滅ぼしてしまう、最終的に文明滅亡が避けられないということです。 それを絶対正義という正反対の立場から援護しつつ人間を改造し、文明と福祉社会を永続させるのが道徳、倫理という考え方なのですね。宗教も同じ考えから興ったことですが、様々な宗教がおこったために宗教同士の現世的な自己中がおこって同士討ちがはじまりうまくいっていないということです。宗教家たちは一度原点に戻って考え直してもらわねば成らないでしょう。

noname#209756
質問者

お礼

強食弱肉も原始的なレベルではこまりますよね。 体力が強いとか。 現実的な分析ですね。自己中が現実で、そのひずみをどう援助できるかですよね。 ありがとうございます。

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