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ハル・ノート発出の理由
- 米国がハル・ノートを提示した理由には、日本軍のタイ国への進駐の動きが活発であったことが挙げられる。
- ハル・ノートの提示までの経緯については、明確ではないが、ルーズベルトが日本軍の南下の情報を受け取り、日本側の背信の証拠と見なして戦争覚悟でノートを提示したと考えられる。
- 日本軍の船艇が台湾沖を南下していたかどうかに関する日本側の記録は明確ではない。
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>質問です。 >「日本軍の船艇が台湾沖を南下している」とありますが、この日本軍に関しての日本側の記録はありますか。 >何軍がどこからどこへ向かっていたのですか。 記録は無いと思います。 そのような軍の移動も無いと思います。 アメリカの歴史家レイトンが、この件について調査したところ、スティムソン陸軍長官が25日に大統領に送った情報は「10隻から30隻の日本軍輸送船団が中国揚子江の上海港南に停泊している」というものだそうで「大統領が飛び上がって驚く」ほどのものではかったそうです。 この話は産経新聞の取材班によって2000年に発行された「ルーズベルト秘録」の下巻に載っています。 歴史家レイトンの話を信じるならば、スティムソン陸軍長官が日記に「30~50隻の輸送船が南下中で、それを知った大統領が飛び上がらんばかりに驚いて怒った」と書いている事自体がかなり怪しい話という事になります。 単なる記憶違いか、アメリカの正当性を主張するためにそう書いたのか、今となってはわかりません。 そんなわけでアメリカの歴史家が南下している輸送船団の存在を否定しています。
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- whaihansei
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NO1、4です。 ご回答は、戦略レベルで把握したいのか、個々の戦術にまで及んで 把握したいのか、 また世界レベルかアジアレベルか にもよります。 >質問の核心は、米国が日本側最大譲歩案「乙案」を急遽拒否し、 >なぜ強硬な「ハル・ノート」を提示したのか、です。 と、ありますので元々の質問のテーマ「ハル・ノート発出の理由」が お問い合わせ内容だと理解します。 なお日米交渉関連資料は多数ありますので1つにこだわらず、幾つか 読むことをお薦めします。 ネット情報だけでなく、図書館には体系的なものが数冊はあるはずです。 なお世界レベル、戦略レベルでのお答えになります。 日本は米国との戦争は望まなかった。 中国は日米戦を望んでいた(一国で日本と戦うのは大変だから)。 米国はこのことを理解していた。 ソ連は日米戦を待っていた(極東に軍を置かず独一本に絞りたい)。 英国は米国の欧州参戦を強く望んだ。 米国はこれに応えた。 8月14日、チャーチルとルーズベルトは「大西洋憲章」を発表。 そして最後通牒にも等しい「ハル・ノート」を突きつけた。 目論見は見事的中し、日米戦争が勃発。 それまでの米国世論(不介入)は大きく変化した。 そして米国とドイツは戦争に至った。 以上がハルノートの意味です。 (これに、アジアでの動き(仏印進駐等)が折りなし日米交渉の顛末が あるわけです。 甲案、乙案は交渉案で、ハルノートは交渉終了案だといえるでしょう。) なお、お尋ねの内容と異なるのであれば、再度質問をし直すことがのぞま しいものと思われます。
お礼
ご指摘ありがとうございます。 質問文が拙かったようです。 私としては、ハル・ノート発出の理由の一つに「米国が、日本軍のタイ国への進駐の動きが活発であったことに大いに懸念を抱いていたから」という見方があることから、その見方で疑問に感じたことを質問しました。 #2・#3の方のご回答で十分納得しています。 要は、日本側の記録があるのか、あればその船団はどこからどこへ向かっていたのか、という疑問にお答え頂きたかったのです。 なお、手元に中央公論新社「検証 太平洋戦争とその戦略1,2,3」があることはあります。
- whaihansei
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NO1です。 ご指摘のように11月末は「ふ号作戦」は終了したはずです。 それよりも重要な動きが始まっていました。 11月26日の頃の重要な作戦は、 米国太平洋艦隊の撃破 南方資源(特に原油)の確保 です。 真珠湾奇襲部隊は11月26日、終結したエトロフ沖から 真珠湾に向け発信しました。 一方のインドシナ油田地帯への制圧は翌年1月から開始 されました。H作戦2だと思われます。 この前に作戦準備の行動はなされたはずです。 http://www.h2.dion.ne.jp/~sws6225/wtable/194111.html 12月10日、「マレー沖海戦」が起こり、派遣された ばかりの英国戦艦プリンスオブウエールズが日本航空隊に より撃沈されました。 以上により日本艦隊の緒戦での制海権は確立しました。 ということで11月末は北方、南方とも動きは急だったはずです。 ハルノート提示後、米国はどこで戦端が開かれるか警戒に入った ものでその情報は多々あったものと思われます。 個々の情報ではなく、全体の大きな流れを想起しつつ歴史を見る ことをお薦めします。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 質問の核心は、米国が日本側最大譲歩案「乙案」を急遽拒否し、なぜ強硬な「ハル・ノート」を提示したのか、です。 第一次日米交換船で帰国した野村吉三郎大使は、大統領と国務長官の発言から考察して、強硬なハル・ノート発出の背景に日本軍のタイへの進駐計画が大きく関わっていた、と天皇に進講しています。 そこで「日本軍の船艇が台湾沖を南下している」という情報を無視できないのでピンポイントの質問をしました。
- dayone
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「…日本軍の船団が台湾の南方にあるという情報に際し、 日本は交渉を行いつつも軍の南下を行っていると受け取り…」 (Wikipedia/ハル・ノート引用)につきまして、 何れが「日本軍の船団が台湾の南方にあるという情報」に該当するのか 定かではありませんが、取り敢えず、 当時(11月下旬頃)航行中(予定を含む)の船団を陸軍記録から抽出してみますと… (※検索の中には黒塗非公開等もあり、また海軍記録は予想外に検索に困難を極め、 結果、一部の陸軍記録に過ぎませんが…) 〇件名:1.あ号作戦船舶輸送現況報告 [階層]防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>南西>全般> 南方軍作戦関係資料綴(※石井資料第11号) 昭和16.11.25~18.2.21 1.あ号作戦船舶輸送現況報告 [レファレンスコード]C14060028100[年代域]昭和16年[画像数]42 http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C14060028100 <1/42> あ號作戰船舶輸送現況報告 昭和十六年十一月二十五日 船舶輸送司令部 <2/42> あ號作戰船舶輸送ノ現況 第一 要 旨 一.あ號作戰船舶輸送ハ槪ネ豫定ノ如ク進捗中ニシテ十二月五日以降 隨時作戰ヲ發起シ得ル態勢ヲ採リ得ルモノト認ム 二.展開輸送完了後集合点ニ於ケル待機期間ハ豫定ノ集合期間ヲ更ニ 十日以上延長スルコトハ乘船部隊ノ戰力ノ保持、冷凍船ノ補給能力 及船舶ノ給水給炭能力等ヨリ考察シ作戰ニ支障ヲ生スルノ虞アリ 此ノ場合ハ一部ヲ除キ更ニ所要ノ準備ヲ整フル爲約十五日乃至二十日ノ 準備期間ヲ延長スルヲ要スヘシ <3/42> 第二 軍隊輸送ノ現況 一.軍隊輸送ハ作戰發起ニ應スル展開輸送ヲ槪ネ十二月三日頃迄ニ完了スル豫定ナリ 二.十一月二十五日頃ニ於ケル態勢左ノ如シ … 2.16D先遣隊ハ19-21/11名古屋ニ於テ船舶六隻ニ乘船シパラオニ向ヒ航行中ニシテ 27-30/11集合ヲ完了シ得ヘシ … <4/42> 6.宇野支隊(55D)ハ既ニ15-20/11詫間ニ於テ船舶六隻ニ乘船シカムラン湾ニ向ヒ 航行中ニシテ30/11-2/12集合ヲ完了スル豫定ナリ 7.5D先遣隊ハ15-21/11上海ニ於テ船舶一六隻ニ乘船シ既ニ三亞(※海南島)ニ 其ノ先頭ヲ以テ集合中ニシテ29/11頃其ノ集合ヲ完了スル豫定ナリ … 10.混成第五十六旅團ハ16-18/11門司ニ於テ船舶九隻ニ乘船シパラオニ向ヒ航行中 ニシテ29/11-2/12集合ヲ完了スル豫定ナリ 11.其ノ他第一次配當乘船部隊ハ各乘船地ニ於テ乘船準備中又ハ乘船ヲ完了シ 集合点ニ向ヒツヽアリ <5/42> … 三.十一月二十五日頃ノ態勢別紙要圖(※25・26/42※)ノ如シ <25・26/42> 別紙要圖/南方軍船舶輸送現況要圖〔十一月二十五日〕 以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
ご回答ありがとうございます。 今回もピタリの資料を教えて下さって真にありがとうございます。 敗戦直前に厖大な資料が焼却されたはずですが、こんな資料が残されていたのですね。 大変参考になります。 かき集めた徴用船を船団に組んで、兵員、糧秣、武器・弾薬、車両その他を南方に輸送している状況が目に見えるようです。 台湾からサイゴンへ向かった船団の中には、英米にキャッチされた例もあるでしょう。 特に興味深かったのはニセ病院船「しかご丸」です。 “汚くて臭い”この船には「東宝舞踊隊」(日劇ダンシングチーム)の若い女性21名が乗っていて、ハイフォンに26日入港しています。 そして開戦前夜、ハイフォンで欧米系要人だけを招待したショウを夜中に公演して、「公演が終わるまでなにがなんでも観客を外へ出すな」の指示を受けて、開戦をカモフラージュしたという話を知ったばかりでした。
- whaihansei
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シニア男性です。 1941年7月、南部仏印(当時フランス領ヴェトナム南部)に 日本軍は進駐しました。 真珠湾攻撃(12月8日)のすぐ前の時期です。 作戦名は、ふ号作戦1です。 http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun25.html その内容です。 http://homepage1.nifty.com/ktymtskz/futuin/futuin2.htm なお11月末に提示された「ハルノート」は事実上の日本への最後 通牒ともいえる内容で、直後真珠湾攻撃が行われました。 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1941_haru_noto.html なお米国は英国支援、欧州戦線参戦のため機を覗っており、アジアに おいては中国からの要請もありABCDライン(米英中蘭ライン)と して日本との戦争も辞さない行動を展開していました。 (WIKIはだいぶ改善されてきましたが、出典が曖昧な傾向があり正確性に 難があるようです。出典には要注意です。 なお急ぎもあり「作戦名」は出典を追及していません。HPをたどれば 足が分かるのですが。)
お礼
ご回答ありがとうございます。 「ふ号作戦1」については分かりました。 Wikiの説明は次のようになると思います。 26日午前、ルーズベルトに、スティムソンが「日本軍の船艇が台湾沖を南下している」と報告し、その情報でルーズベルトは、「日本は交渉を行いつつも軍の南下を行っている」と受け取り、「日本側の背信の証拠なのだから、全事態を変えるものだ」と言ったという。 この「台湾沖を南下している船艇」の時期は11月後半だと思うのですが、「ふ号作戦1」は8月には完了したのではないでしょうか。 それとも「台湾沖を南下している船艇」は、「ふ号作戦1」の継続ですか。 あるいは、全くの誤情報だったのか、それともwikiの説明が不適切なのでしょうか。 という疑問です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >そんなわけでアメリカの歴史家が南下している輸送船団の存在を否定しています。 そういうことですか!!! 「台湾沖」というあいまいな表現自体を怪しいと思っていました。 すっきりしました。感謝申し上げます。