- ベストアンサー
秀吉とお寧の実家
秀吉と妻お寧の実家は共に「木下」ですが 親戚か何かでしょうか? それとも苗字が一緒ってだけで全く関係ないのでしょうか?
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
>秀吉と妻お寧の実家は共に「木下」ですが 親戚か何かでしょうか? 全く、親族関係はありません。 >苗字が一緒ってだけで全く関係ないのでしょうか? はい。全く関係がありません。 各太閤記は、「戦記物語」でありフィクションですから信用しないで下さいね。 現に、家康が豊臣家を滅ぼした事は(江戸幕府に遠慮して)記述がありません では、同じ「木下家」なのか? お寧は、郷士の娘で「実家は、杉原」を名乗っていました。 が、兄家定は信長に仕えている時は「木下」を名乗っていました。 ※穿った見方をすると、家定は何かを隠す為に杉原姓を隠した?のかも知れません。 家長である兄が「木下」ですから、妹も「木下」となります。 藤吉郎(秀吉)がお寧と結婚する時に、信長は「藤吉郎に、木下姓を与え」ます。 木下藤吉郎の誕生。 出生を気にしない能力主義の信長としては、山窩衆(さんがしゅう)の棟梁(との説もある)である藤吉郎の情報網を重要視したのでしようね。 ※桶狭間の戦いでも、武将で無く(今川勢の状況を伝えた)物見が一番の論功としています。 ここで、木下藤吉郎と木下お寧が誕生します。当時は「夫婦別姓」です。 別の説では、藤吉郎が信長軍での勢力が強くなった頃に「お寧一族に、(杉原姓を止めて)木下を名乗らせた」という事です。 余談ですが・・・。 家定の三男・木下延俊が藩祖である豊後日出藩では、「豊臣秀頼」が亡命して(偽名を使って)藩主になった!?との伝承があります。 ※延俊の子供が、大坂の陣後に「突然男児が一人増える」のです。 彼の位牌(実在)には、豊臣と書かれています。 盤石な徳川幕府としては、暗黙の了解だった様です。既に、豊臣恩顧の大名はいませんからね。 そういえば、私が住んでいるところにも「真田幸村が逃れてきた」伝承がありますよ。 地元の豪農に匿われ+そこの娘と出来ちゃった! 代々庄屋だった家は、今でも「真田得六文銭」を家紋にしています。 どこかの国と違って、政府が決めた「(その国だけで通用する)正しい歴史」は存在しません。 自由に楽しみましよう。^^;
その他の回答 (3)
- ithi
- ベストアンサー率20% (1972/9601)
azuki-7 さん、こんばんは。 そうではありません。北政所の実家は杉原家といっていました。そこから浅野家に養女になったのです。 この家も早くから秀吉に仕えて最終的には大名に取り立てられています。その際、秀吉から木下姓を下賜されたようです。 この家は二つあり、備中足守、豊後日出にあります。両方とも明治まで存続しました。 詳細は下記のURLを参照ください。 高台院 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%B0%E9%99%A2 木下家定 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%AE%B6%E5%AE%9A 木下延俊 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%BB%B6%E4%BF%8A
お礼
秀吉が木下姓を下賜した家があったのですか? 羽柴と豊臣は下賜された大名は複数居たようですが 木下姓にはブランド力は皆無だと思っていたので
実はよく分かっていません。父親の姓を引き継いだ説、ねねの名字を名乗った説など、確実な史料が無く不明です。
お礼
ありがとうございます
- tzd78886
- ベストアンサー率15% (2590/17104)
私の記憶に間違いが無ければ、結婚後に一族こぞってはるかに地位が高かったおねの実家の姓を名乗ったはずですが。
お礼
秀吉の父が 木下弥衛門と言う名前だから 秀吉も木下姓なのでは?
お礼
ありがとうございました