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善は善にして常の善にあらず。「老子」

受け売りでし。 (ヒマな時にでも)

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  • hannya-gl
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回答No.4

言うまでももないか、あるか、 元は、 老子第一章 道は道にして、常の道にあらず、名は名にして常の名にあらず、無を天地の祖に名付け、有を大地の母に名付く。 もって無はその檄を現さんと欲し。有はその嬌を誇示せんとす、 第荷二章 人々は、善は善である、と考え、善が悪である事を知らない。美は美であると考え、美が醜である事をしらない。 ・これら相い対峙する二つのものは、否定、対立しあいながらも、一つの統一体をなすものである。 と、ヘ-ゲルの弁証法、もしくは、色不異空、色即是空、が述べてあります。 老子の考え方を現代風、あるいは私流儀で説明すると、 善=善 である、しかしそれは、善-善=0 と言うのと同じであり。一つの単位としての統一体 、もしくは、存在、とはならない。ある、ためには。善×1/善 =1 でなければ、ならない。 善と(1/善)は表裏であり一体である。(1/善)は悪と名付けられる、常でない善となる。 道は道にして常の道にあらず。という世界の在り方は、名、妄想、の在り方、起こり方とも一致する。 となるのでしょう。米粒の在り方、法則生、も米俵の在り方法則性も同じである?

kurinal
質問者

お礼

hannya-g|様、ご回答ありがとうございます。 >「老子の考え方を現代風、あるいは私流儀で説明すると、 善=善 である、しかしそれは、善-善=0 と言うのと同じであり。一つの単位としての統一体 、もしくは、存在、とはならない。ある、ためには。善×1/善 =1 でなければ、ならない。 善と(1/善)は表裏であり一体である。(1/善)は悪と名付けられる、常でない善となる。 道は道にして常の道にあらず。という世界の在り方は、名、妄想、の在り方、起こり方とも一致する。 となるのでしょう。米粒の在り方、法則生、も米俵の在り方法則性も同じである? >「道は道にして常の道にあらず。という世界の在り方は、名、妄想、の在り方、起こり方とも一致する。 となるのでしょう。」 ああ、何か、涙腺が刺激されたような感覚を覚えました。 数十億という人に「教育」することが(仮に)可能として、 それでもまだ、「後世」は、とめどもなく現れますね。

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  • na22me
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回答No.6

魔女狩りですか・・ まっ いい・・ 処で・・善は善にして常の善にあらず 善が不変で無いのでは無く 最初は不変だった善に 悪が少し混ざり それが受け継がれながら増幅したとすれば・・ そして その悪を完全に消し去る事が出来る様にするには どうやれば良いのかを知っている人に聞き その 処方と必要な薬があれば良いだけになる・・・ たった これだけの事

kurinal
質問者

お礼

na22me様、ご回答ありがとうございます。 >「魔女狩りですか・・ まっ いい・・」 「魔女狩り」を「ま、いいか」で済まされるのは、 刑事司法で「「冤罪」があっても、(平気)」ということかもしれないですし、 フェアでは、ありませんね。 >「処で・・善は善にして常の善にあらず 善が不変で無いのでは無く」 はい >「最初は不変だった善に 悪が少し混ざり それが受け継がれながら増幅したとすれば・・ そして その悪を完全に消し去る事が出来る様にするには どうやれば良いのかを知っている人に聞き その 処方と必要な薬があれば良いだけになる・・・ たった これだけの事」 「善は不変」とのお考えですね。 「たった これだけの事」とは、na22me様ご自身の発想でしょうか?

回答No.5

kurinalさん、こんばんは。 「即非の論理」が紹介されていましたね。 「善は善にして、善に非ず、ゆえに善なり」  (┓→(┓∧┗))→┓=┓ これって、真理価値の面では、ただ「善なり」というに等しいのですよ。 意味パラメータのストレッチ  善{1}-善{-1}-善{1} をして(肯定して、否定して、肯定して)、判断の柔軟体操をしてるのだと思います。 深い意味はありません。その意味を汲み取ろうとすると気が変になります。 「道可道、非常道」 これは人為的倫理より自然の理に従うべきだということ。 「善可善、非常善」 同上。

kurinal
質問者

お礼

atomonados様、ご回答ありがとうございます。 親切な人を、私は他にも知って居ます。 結婚を考えてしまうほど、「よい人」です。 >「「善は善にして、善に非ず、ゆえに善なり」 意味パラメータのストレッチ  善{1}-善{-1}-善{1} をして(肯定して、否定して、肯定して)、判断の柔軟体操をしてるのだと思います。 深い意味はありません。その意味を汲み取ろうとすると気が変になります。」 なるほど。 しかし「「善(悪)」というものが、「不変」ではない」という前提があれば、どうでしょうか? 例えば。現代の世にも「一押し!」みたいのがあるとしても、それは、「絶対」では、ありませんね。

回答No.3

善は善にして、善に非ず、ゆえに善なり、 山は山にして、山にあらず、ゆえに山なり、 華厳経の「即非の論理」。 禅宗にいわく、生は生にして生にあらず、ゆえに生なり。 生死は不二にして、不二にあらず、ゆえに不二なり。 この世に何ものも生じるものは無く、何ものも滅するものがない、ゆえにこれを不生不滅という。 この世に常住するもの無く、何ものも去るものもなく、ゆえに不常不去という。 何ものも同一なもの無く、何ものも別異なるもの無く、ゆえに不同不別という。 ナーガールジュナ・竜樹「中論」。 老子にしろ、華厳経にしろ、禅にしろ、ナーガールジュナにしろ、みんな東洋の共通の論理。

kurinal
質問者

お礼

urigadai2013様、ご回答ありがとうございます。 私の、質問前の考えでは、Ano.2様のご回答に近い内容を思っていましたが、 ご回答によれば、「自然」の追究は、もっと徹底された何かであるようです。 (連想したものは「一期一会」とか、) ところで、「善(悪)」とは、そんなに移ろい易いものなのか、とか、 あるいは、「そんなことは、誰にも言えない」に無理があるのだろうか、とか。 示唆に富むご回答を、ありがとうございました。

回答No.2

善悪の分別は、価値判断の根底的な“確か”なもので ありながら、その「確かさ」は依拠するものであり、 異なる社会集団や時代の経過によって変転するもの だということ。

kurinal
質問者

お礼

psytex様、ご回答ありがとうございます。 不肖も、「科学の進歩により、善悪って変わってしまうのでは?」と、不意に思ったことが、ありました。 それに近いことを、述べて頂いたのかなと思います。

  • na22me
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回答No.1

コップの中の飲料水に 1滴の毒が混ざった飲料水は 果たして飲めるだろーか!? 浄化の やり方さえ 正しければ 元の飲料水になる それが キリストの使命

kurinal
質問者

お礼

na22me様、こんばんは。 キリストは「善悪」の問題を考えさせられる、かもしれない。 >「コップの中の飲料水に 1滴の毒が混ざった飲料水は 果たして飲めるだろーか!? 浄化の やり方さえ 正しければ 元の飲料水になる」 この譬え?は、知りませんでした。 ・・・「魔女狩り」の論理に、似ているような気がします。

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