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「知識」と「受け売り」

いつもお世話になっております。 カテゴリーに悩んだのですが、何処にカテゴライズすべきか分らないので、こちらにさせていただきました。間違っていたら申し訳ございません。 最近、ふと思うのですが、本などを読んで得た知識は、どのあたりから「自分の知識」となるのでしょうか。 私自身は知識欲が旺盛なようで、とにかく雑々と様々書籍を読み漁ったり、様々な分野の色んな研究発表のサイトを拝読したりしています。そうして得た知識を、(皆様もそうでしょうが)自分なりに分析してまとめ、清濁・真贋併せ呑んで自分なりに結論を導き出して、それを自分の中の「引き出し」にカテゴライズして、必要な時にそれを披露したり生かしたりする訳です。 でも、そんな時にふと、「これは私の知識ではなく、○○と言う研究者の××と言う理論や、△△の著書を読んで得たものだから、これは自分の経験で得た私の知識では無いのだから、何処まで行っても○○や△△の研究の『受け売り』な訳訳ではないのか?」と思ったりしてしまうのですが・・・ こうして得た知識は、「自分の知識」として考えてはいけないのでしょうか?一体どの時点で、「誰かの受け売り」ではなくなるのでしょうか?すっごくくだらなくて、もしかして考えるに値しない問題かもしれませんが、考え出すと止まらない上に、考えがループするばかりでまとまらないので・・・皆さんのお考えを拝聴できればありがたいです。 お暇な時にでも・・・宜しくお願い申し上げます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • kobe-kun
  • ベストアンサー率53% (53/100)
回答No.12

> ふと思うのですが、本などを読んで得た知識は、どのあたりから「自分の知識」となるのでしょうか。 ご自身が知識を「記憶」した時点で、その「知識」は、「即あなたの自身のものになった」と考えてそれで良いと思いますよ。 他の例としては、それをPCのハードディスクに「記録」したとすれば、その「情報」は、PCのものになったと言えますね。 > そうして得た知識を、(略)自分なりに分析してまとめ、(略)自分なりに結論を導き出し 自分自身で考え出した、【 オリジナルなアイデアや考え方 】が、世の中の問題の解決に少しでも役立つものなら、それらの 公表は、おおいに歓迎される行為と言えるのでしょう。 それらを法的に体系化したものが、「特許、意匠、著作権」などの権利と言うになります。 > 一体どの時点で、「誰かの受け売り」ではなくなるのでしょうか? 自分自身で考え出した【 オリジナルなアイデアや考え方 】以外は、全て【 受け売り的な知識情報 】と言えると思いますね。 ですので、『 どの時点で 』と言うような、時間的なものとは関係ないと言うことになります。 しかし他人に何かを聞かれた時に、自分が知っている知識を素直に述べて、「質問した人の悩みや問題」がそれで解決したら、 答えた人の解答内容が、例え【 受け売り的な知識情報 】で有ったとしても、その解答内容が< 自分に役立ったかどうか >で、 質問した人は、解答の価値を判断しますから、解答が『 誰かの受け売り 』かどうかなど、質問者は気にならないと思われます。 学校で学ぶ「体系だった学問」も、その昔「天才と呼ばれた人」の考え出した理論体系そのもので、その『 誰かの受け売り 』 とも言える知識で、日常の生活しているわけですから、どんな知識も、< 役立つことに変わりはない >と言えるのでしょう。 そもそも、知識は単に知識で有り、「受け売り」だとか「自分の知識」かなど、気にすること自体が変と言うことになりますね。 但し「プロの評論家」がコメントを求められた場合に、有りふれた、本に書かれているような【 受け売り的な知識情報 】しか、 常に話せないのだとすれば、そのコメンテーターとしての価値は、ほとんど評価されないと言うことになってしまうのでしょう。

sophia35
質問者

補足

皆様、ご回答頂き有難うございました。 どうしても体調がすぐれず、パソコンに向かうのもしんどいので、ここでお礼とさせて頂く事を、何卒ご了承下さいませ。 皆様の様々なご意見、とても参考になりました。 何かと文章を書く事が多いので、そう言った時に『自分の引き出し』から『引用』する事も多いのですが、そう言ったときに読んだ方から「知識が豊富ですね」と言われる事に、「私の知識ではないのでは・・・」と、どこか違和感を持っていました。 しかし、自分で咀嚼をする事で、情報は私の血肉となるのだと確信を持つ事ができました。 本当に感謝いたします。 更に、何れの皆様にも共通する事は、「生かしてこその知識」なのですね 知識が自己満足の蓄積とならないよう、(ここで回答することも含めて)社会や自分の生活に還元できればよいと思います。 この度は本当に有難うございました。

その他の回答 (11)

回答No.11

この質問の問題点は「知識」と「受け売り」が反意語になってないところです。 「知識」はたとえ昨日得たばかりのものでも知識として披露して全く問題ない。たとえば「スマトラの犠牲者は15万人だよ」って言う「知識披露」は別になんの問題ない。 しかし「受け売り」ってのはちょっと切り口が違う単語で、「人の意見を自分の意見のように話す」ことですから一種の「詐欺」みたいなもんですよね。たとえば「少年は大志を抱くべきだと僕は思うね!」なんていったらとても恥ずかしいわけです。 自分の経験で得た知識と文物で得た知識は「媒体が違う」だけで負い目を感じる必要はないと思います。

  • U-more
  • ベストアンサー率30% (81/266)
回答No.10

得た知識を自分なりに消化してストックし、 TPOにあわせて活用できるという事は決して受け売りではなく、 その人の立派な知識だと思います。 「○○と言う研究者の××と言う理論」にしても 決して100%○○さんが無の状態から創り上げたものではないと思います。 多くの先人のそれこそ知識を研究し、 ○○さんが自分なりにアレンジし、創り上げた理論であると思います。 文学にしても、音楽にしても、どんな分野でも 例え天才と言われるような人であれ、 多くの人の知識を吸収し、 結果としてその人の才能として育てられるものではないでしょうか。 知識とは本来、一人の個人の所有物でも財産でもないと思います。 人類共通の財産だと思います。 (利害関係が出てくる特許などの知的財産となると別ですが) 話のネタとして、「こんな面白い理論があるんだ。」 ということは、大げさな言い方をすれば、 人類の知の財産を共有する、ということになるのでは?

  • kkj00156
  • ベストアンサー率48% (12/25)
回答No.9

私自身の考え方で申し訳ございませんが、知識とは、自他の係りなく自身の持っている「引き出し」のことではないのでしょうか。 質問者さんのように「自分が読んで得た知識を、自分なりに分析して結論を導き、必要な時に生かす」ということは、質問者さんの知識だと思います。 ただし、知識はあくまでも知識であり、この知識を社会や生活の上で活かしていくことで、知恵へとつながっていくものなのではないでしょうか。 私も、知識を知恵へと伸ばしていける様にしたいと思っておりますが、なかなか難しいことです。 ですが、知識なくしては、それを活用することも出来ないのですから、その知識を活かすことの出来る生活を送れるといいですね。 回答にはなりませんが、何かのお役に立てればと思い、書かせていただきました。 お互いに頑張りましょう。

sophia35
質問者

お礼

風邪で臥せっておりましたので、お礼が遅くなって申し訳ございませんでした。 「引き出し」自身を私の知識と見なしても良いのでしょうか。今まで「物をよく知っている」と言われる度、何とも言えない違和感と後ろめたさがあって、「有難う」と言いながら、何となく納得がいかない思いが残っていました。でも、ご回答を読んで、「自分のなりの考え」が加味されることで、自分の知識として良いのだと、自信が持てました。有難うございます。 >私も、知識を知恵へと伸ばしていける様に・・・ そうですね。私も、少しでも、自分の知識に命吹き込んで、社会に生かせるように頑張りたいと思います。 そう思ってここにも登録してはいるのですが・・・生かせているのかどうか、これまた不安の種はつきませんね(苦笑) 感謝いたします。有難うございました。

回答No.8

確か仏教の言葉だったと思うのですが、  ”教えは実行するためにある” という言葉があります。 僕はこの言葉を胸に留めています。

sophia35
質問者

お礼

風邪をこじらせてしまい、なかなかお返事できずに申し訳ございません。 なるほど。やはり、生かしてこその知識なのですね。私も教訓として胸に留め置きたいと思います。 有難うございました。

回答No.7

僕は、出会った人や本や映画など、自分が気になった言葉などを書き留めます。そのことを僕は、「自分自身との出会い」と思ってます。 引用するのであれば、それはそのまま他人の意見を引用しましたと提示します。 「自分自身との出会い」も、そのまま使うのであれば引用です。しかし、本当に出会いであれば、その瞬間から自分の骨となり肉となり、血液として流れているはずです。なのでそのまま引用ではなく、なんらかの形を変えて吐き出されるはずです。その時僕は、自分の意見として主張します。 無理やりな意見ですが、今こうして書いている文章だって自分主張してますが、そのために日本語のルールという知識を使ってます。日本語は僕が発明したものではありません。日本語を使うのは僕の知識ですが、誰かの受け売りではありません。

sophia35
質問者

お礼

風邪をこじらせてしまい、お礼が遅くなって申し訳ございません。 「自分自身との出会い」・・・とても良い言葉ですね。自分の中で咀嚼し、自分の血肉と変化した情報は、自分形作るものなのだと、今更ながら考えたしだいです。 とても良い解釈を頂き、本当に感謝いたします。有難うございました。

  • SUPERS
  • ベストアンサー率42% (26/61)
回答No.6

受け売り:他人の意見や考えなどを、そのまま自分の意見のように言うこと。 「他人の説を―する」 ということから考えれば、ポイントは2つ。 1)他人の意見や考え 2)自分の意見のように言う したがって、事実や法則などは「引用」となる。 また、他人から情報を得ただけでは、「受け」だけで、「売り」が無い 状態と言える。 どの時点からが「自分の知識」なのかという疑問は、 どの時点からが「自分の意見」なのかというふうに置き換えると判断が できる。知識そのものは、時系列的には捕らえられない性質があるが、 意見を持つ行為は、「どの時点で」という考え方が通用する。 情報群の関連性と本質の理解があれば、立派な「自分の知識」と言える。 たとえ、同じ内容のことを誰かが言っていたとしても、ある結論に達する 過程で自らの脳を使って導き出せたのなら「自分の知識」。 しかし、知識を表現するときに「全く同じ記述」を考えもせずに用いる ならば、「受け売り」と他人が判断するだろう。 つまり、結論を導き出す過程の考え方は、いくら参考にしても構わない が、結論を他人のそのまま引用することは意味を成さない。 この場合、引用した旨を添え書きするのが、一般的に礼儀である。 このように考えて、「○○と同じ結論に至った」と。 ある物事について本当に理解していれば、応用ができるし、表現も多様 に出来るはず。理解していないものは、「自分の知識」ではなく 借り物の知識だろう。 記述方法や表現方法により、いかに自分の意見らしく見せたかどうかは、 ここでの本質ではなく、自分の力で理解し、表現と格闘した結果として 「全く同じ記述」になることは有り得ない。

sophia35
質問者

お礼

風邪をこじらせて、なかなかPCに長く座れず、お礼が遅れて申し訳ございません。 筋道だって理論を展開していただき、本当に感謝いたします。自分の考えを結論に近いところまでもってきていただきました。やはり、自分で咀嚼した時点で「自分の知識」として良いのだと、確信いたしました。 本当はもう少しきちんとお礼の文を書きたいのですが、どうにも今、熱があって頭がまわらず・・・ 急ぎお礼をしなくてはと思い書き込んでおります。 短くてごめんなさい。本当に有難うございました。

回答No.5

 比喩としててあなたが現に使いこなしている道具は、あなたの知識で、手に入れたが自分では使う当てもないので転売しようとしている未使用の道具は受け売りというのはどうでしょう。

sophia35
質問者

お礼

風邪をひいてしまい、なかなかお礼が進まずに申し訳ございません。 うーん・・・なるほどと思う反面、どこかしっくり来ないような・・・でも、そう言う考え方もあると参考になりました。有難うございました。

  • MayWind
  • ベストアンサー率22% (4/18)
回答No.4

自然科学の法則なら、知識を何度引用しても「受け売り」にはなりませんね。しかし、表現や発想が絡んでくるものや、正誤が人によって異なるものだと、「受け売り」という解釈が出てきます。 よく、科学哲学や科学史を研究されている方が、自然科学の研究者を分析して「古い論文を読み返さない」とか、「発見の順序が違う」とか言っているのを見かけますが、客観的な法則を考えた場合、古いものや、発見の順序などは重要視しない傾向があります。 哲学はよく数学に例えられますが、自然科学ではないですから、「受け売り」と言うような解釈が出てくるのでしょう。数学に近似して考えれば、より主観性の強い「考え方」に対してそのように感じると言えると思います。 ここで、主観性とは、書き手と受け取り手の相対的なものであることに注意して下さい。哲学だけに限って言えば、客観的なものですから、間違えて解釈しているのでなければ、「受け売り」などと言うことはないと思います。しかし、思想・宗教では違いますね。 「受け売り」なのかルサンチマンなのかは、当事者にしか分からないでしょう。

sophia35
質問者

お礼

風邪をひいてしまい、なかなかお礼が書けずに申し訳ございません。 定義として、深く理解することが出来ました。有難うございました。 そうですね・・・確かに分野によっても、捉えられ方が違ってくるでしょう。かなり難しい問題ですね。 大変参考になりました、有難うございました。

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.3

これも受け売りなんですが、 知識(kowledge):「研究、観察によって得られた事実の総体、それに対する理解」 智慧(wisdom):「知識と経験によって得られた優れた判断能力と理解力」 だそうです。 冷蔵庫の中に知識を「コレクション」しているだけならば、これは欲求不満を満たす行為であって、言い換えれば、寂しさの埋め合わせ、何らかの代替行為とも言えると思います。 (「情報」にすぎないのかも知れませんね) 冷蔵庫の中から、適時に知識を取り出して食べて、消化して、エネルギー転換して、活かしていくことで智慧に発展するんだと思います。 仏教の瞑想でも「観想」という言葉が出てきます。 「我々もいつかは死ぬんだよ」という無常の教えを知識だけで知るのではなくて、実際に死体を見たり、自分の肉体が朽ち果てていくさまをリアルに観想するんです。 そうすることで、知識が消化され、現実感が生まれ、無常の教えが実生活に活かされていくんだと思います。

sophia35
質問者

お礼

風邪をひいてしまい、お礼が遅くなって申し訳ございません。 知識と智慧・・・なるほど、「経験」と言う命を吹き込んでこそ、智慧なのですね。 自分の「知識」は、そこまで昇華させられているかどうか自信はありませんが、取敢えずはコレクションとなっていないと信じて、これからもその「知識」を生かせるよう努力したいと思います。 有難うございました。

  • hisya
  • ベストアンサー率22% (65/285)
回答No.2

この問題は微妙なところがあるので、具体例をあげて頂くと回答しやすいと思います。 研究を例にするなら、 誰かの研究をそのまま自分の考えみたいに言うのは[受け売り]でしょう。 しかし、こういう説もありますと紹介して、それに対してコメントする形なら、[自分の知識]と[自分の考え]を分けているので単なる[受け売り]にはならないでしょう。 自分の考えについては[考える技術・書く技術](板坂元)の次の言葉が参考になるかもしれません。 ↓ 『どの道でも99%は他人の考えたもので、1人の人間の独創にかかわるものはごくわずかに過ぎない。』      

sophia35
質問者

お礼

ご回答、有難うございます。 丸々の引用は「受け売り」で、そこに自分の「思考」を加味する事で、「受け売り」ではなくなるのですね。しかし、それでも「自分の知識」では無いわけですが・・・何くれと文章を書く事が多いので、そう言った時に引用する事も多いのですが、そう言ったときに読んだ方から「知識が豊富ですね。」と言われる事に、どこか違和感を持っていました。 視覚として入ってきた「情報」を鵜呑みにする事無く、噛み砕いて自分の物にした時点で「自分の知識」と言ってよいのかもしれない・・・いや、それでもやはり、あくまで「人の知識の受け売り」ではないのか・・・と、自問自答しておりました。 板坂氏の言葉には、思わず「なるほど」と頷いてしまいました。自分は工芸を生業にしていますが、やはり技法とて同じ事が言えます。 氏の書籍は、江戸文学に関する書籍は数冊読んだことがありましたが、この本は知ってはいましたが読んだ事はありませんでした。早速読んでみたいと思います。 この言葉に少し、納得がいった思いです。 有難うございました。

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