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絶命に関連する言葉の同義語は、なぜこんなに多い?
何でですかね? ストレートに「死ぬ」と言うと、強すぎるんですかね? 日本人が物事を遠まわしに言うことを好む民族だからでしょうか? 名詞の「死」や「死んだ人」を表す言葉もいろいろありますね。 一人称や二人称を表す代名詞の数も、やたらめったら多いですね。 これも何か関係があるんでしょうか? 言いにくいことを当たり障りなく表現するための逃げ道なんでしょうか? そう言えば、日本人は問題を正面から捉えて議論せず、先送りしたり放置したりしてとりあえず逃げるのが好きだと思いませんか? 私もその中の一人なので、偉そうなことは言えませんけれど。
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コミュニティーの中で、死がどれくらいタブー視されていたか、そしてそれでも話題にしないわけにはいかない、ということが、それを表す言葉の数に相関するような気がします。 とりあえず、死とは言っていけないとして、では何て言うか、について色んな所で色んな事を言う人がいて、それぞれがそれなりに受け入れられた結果、語彙として残ったのでしょう。 もしかしたら、この地方では死ぬ事を⚪︎⚪︎と言う、ってのをまとめた方言辞典みたいなものを作った人もいたかもしれません。 隠居したり出家したりして、時間を持て余した人がやりそうなことですね。 男性器を表す言葉が色々ある、というのは、おそらく洋の東西を問わずあると思うんですが。 代名詞については、敬語との兼ね合いでしょうね。
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- fxq11011
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余談ですが、死ぬ、かなり特殊な言葉らしい。 確か、活用の仕方だったかな、「な」行の活用?。
お礼
ありがとうございました。
補足
古語文法の動詞の活用ですね。 ナ行変格活用でしたでしょうか? 全く真面目に勉強しなかったので、よく覚えていません。
「死ぬ」の修辞的表現の多様さは、別に日本に限ったことではありません。 世界的に有名な「モンティ・パイソン」というイギリスのコメディグループの 「死んだオウム」というコントを見ると、英語にもさまざまな死の表現があることがよくわかります。 これは当然、「死」というものが最も人間の心を揺さぶる事であるからですね。 日本においてはとりわけ「死は穢れ」とされたので、 死を忌避するような言い方が発展しました。 対してキリスト教圏では「行ってしまった」というような惜別の表現が多く見られます。 言うまでもなく、神の元へ行ってしまった、というニュアンスですね。 日本において人称代名詞が多様なのは、 身分や人間関係の上下を言葉に組み込んできた歴史があるからです。 尊敬語や謙譲語など、「人間同士の関係性」で言葉そのものが変わる文化であったので、 一人称や二人称もそれに応じて変える必要がありました。 例えば、 ・自分と相手が対等な場合 ・自分が相手より低い場合 ・自分が相手より高い場合 この3つの場合で一人称、二人称を使い分ける必要があり、3つの一人称、3つの二人称が生まれました。 これに加えて ・相手がさらに高位の者の場合 ・相手がさらにさらに高位の者の場合… などと増えていくので、一人称二人称が非常に多くなるというわけです。 半面、日本語には三人称はそれほどおおくはありません。 三人称では、上下の意識はゆるくなるからです。 ちなみに、よく「日本語はあいまいな言語」と思う人は多いですが、 日本語だけがあいまいな言語ではありません。 英語もフランス語も、丁寧な表現、尊敬表現になればなるほどあいまいになってきます。 例えばイギリス人なんかはものすごくあいまいな言い方をしますし、 英語にも「ぶぶ漬けをどうぞ」的な表現は普通にあります。(How do you like me now?がそうです) 上流階級になればなるほど「言外の意味」に気づけないと生き残れません。 ユーモアや紳士的な態度でコーティングされますけどね。 こういった部分は日本もさほどかわりません。 当たり障りのない表現をする逃げ道があるのはどの言語でも同じです。 ただ、その逃げ道を選択するかどうかの違いですね。
お礼
ありがとうございました。
補足
そうですね、日本語があいまいな表現が多いのではなくて、日本人がはっきり言わずにあいまいな表現を好んで使っているということですね。
お礼
ありがとうございました。
補足
確かにタブー視が表現の多様化を促す原動力になっていたのかもしれませんね。 表現が1通りしかなかったら、血圧が急上昇したり心臓が急停止して連鎖的にお亡くなりになる方がもっと多くなっていたかもしれませんね。