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曹洞宗は何がしたいのか?

仏教を布教する一方で 悟りを否定するなら 何を布教しているのでしょうか?

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  • titelist1
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回答No.5

道元の言葉に『仏教の中に禅宗というものがあると思うこと自体が本当ではない』に言っています。すなわち禅は仏教ではないと言っているのです。中国曹洞宗開祖の青原の立場です。中国では曹洞宗は仏教ではないのです。鎌倉幕府はこれを仏教として日本に持ち込んだのです。貴族の平安仏教に対抗するためでした。 また道元は座禅に意味や目的があってはならないとも言っています。だから悟りを目的とするものではないのです。人間の心の本性は悟りの性(さが)を内に具えていると考えるのです。悟りの性があるのですから、座禅でそれに目覚めれば良いのです。『本覚』と言われるものです。道元が布教したことは、ただひたすらに座禅することで身心脱落の境地になることでした。人間が持って生まれた『本覚』を信じたのです。達磨大師に通ずるものです。 この『本覚』が無いのに座禅をすると暗黒知に陥ります。このことを日蓮は天魔の所為と言っています。同じ禅宗でも臨済宗では本覚ではなく『始覚』と言います。自分の仏心を座禅で見つける悟りに重きを置いています。 私の家の宗派は曹洞宗ではないので、もし間違っていたらごめんなさい。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ~~~~~~~~~~~~~ 道元の言葉に『仏教の中に禅宗というものがあると思うこと自体が本当ではない』に言っています。すなわち禅は仏教ではないと言っているのです。中国曹洞宗開祖の青原の立場です。中国では曹洞宗は仏教ではないのです。鎌倉幕府はこれを仏教として日本に持ち込んだのです。貴族の平安仏教に対抗するためでした。 ~~~~~~~~~~~~~~ とても興味深い情報ありがとうございます。

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回答No.11

 強者の理屈に対するレジスタンスの美学がルーツにありそうな気がします。「形骸化した主流」と「最先端の外圧の集中に対する対応」、そこに入った亀裂の溝が深まって現代における教義の違いになっているのではないでしょうか。  ただ始まりはどうであれ、その結果として仏教全体の宗派の多様性の一つとなって、昔と比べてはるかに複雑で多様になった現代のニーズの受け皿としての、仏教全体の懐の広さを構成しているのではないかと思います。  直接の回答にはなりませんでしたが、歴史の中で多様に枝分かれしてきた宗派というものの存在は、多様な現代に対応すべきものとして発展してきた、流れとしての縁だったという解釈もできるような気もします。  そして、さらに「仏教における宗派」から「人類における宗教」という目線の向け方も面白そうだ、などと自分などは考えを巡らせてしまいます。

回答No.10

☆曹洞宗は真宗と並び全国最大の信徒を抱える宗教団体。 ◇どこでそのような情報を? 日本で信者数が多い仏教宗派は、 真宗さん、浄土宗さん、真言宗ですよ。 http://www.osoushiki-plaza.com/library/data/data131.html 日蓮系は除外していますけれども。 ☆仏教には竜樹・ナーガールジュナの「中論」でいうように、人間に「仏性」という本質を有しているという考えはありません。 人間は「空」なんですから、「性」という本質などない。 ◇仏性はサンスクリット語でbuddha-dhAtuです。 dhAtuには、性質という意味はありません。 漢訳、中国語で仏教をやるから…。 dhAtuは、カテゴリー、もしくは、基体の意味ですよ。 基体ならば、法界・dharma-dhatuを言い換えたもので、如来蔵と同じものになります。 法界や如来蔵は、清浄、つまり、煩悩のない法・dharmaであり、縁起所生の法でないので空と矛盾しません。

回答No.9

曹洞宗は真宗と並び全国最大の信徒を抱える宗教団体。 そして日本の宗教はすべて葬式仏教。 だから本山の永平寺には全国の末寺から、その子弟が集まり、曹洞宗の僧侶の資格をえるために仕方なく、渋々修行して、2年間くらいの定められて期間、我慢し、晴れて資格が付与されたら、喜び勇んで自分の寺に帰り、後は酒を飲もうと、クラブに通おうと、高級車を乗り回そうと、勝手次第。 庶民からは高額の戒名料を奪い取り、貧しい人を尻目に自分は贅沢な生活をしている。 肉食妻帯は当たり前。 中には愛人を抱えて、妾宅と自宅を往ったり来たり。 私たちは曹洞宗というと鎌倉時代の宗祖・道元をイメージするけど、仏教は鎌倉時代を最後に、それからは堕落して、今や葬式仏教専業になってしまいました。 だから、もう宗祖・道元の時代とは全く別物になってしまったので、道元から考えてはいけないのです。 道元は当時の「公案禅」の悟りを求める風潮に嫌気がさし、「只管打座」の禅を唱えました。 つまり座っているそのままの姿が「仏」だというのです。 悟りを求める必要はない。 そして初期の「正法眼蔵」では、人間にもともと「仏性」を有しているという「天台本覚論」を唱えていたけど、12巻本「正法眼蔵」では、人間にもともと「仏性」を有するという「天台本覚論」を否定するに至ります。 「仏性」というのは仏教に由来するものではなく、中国の老荘思想によるものだからです。 仏教には竜樹・ナーガールジュナの「中論」でいうように、人間に「仏性」という本質を有しているという考えはありません。 人間は「空」なんですから、「性」という本質などない。 人間は「空」として生まれ、「空」として死ぬのです。 ところが日本仏教は人間にはもともと「仏性」を持っており、誰でも死ねば「仏」になるという。 これこそ、「天台本覚論」です。 日本仏教は天台宗の最澄の比叡山で学んだ人間ばっかりで、法然にしても、道元にしても、親鸞にしても、日蓮にしても、みんなそうです。 でも、晩年の道元は、その「天台本覚論」を否定しました。 人間は「空」なんだから、禅の修行をして悟りを啓いて「仏」になるわけでもないし、そもそも禅の修行は悟りを求めてするものではない。 「只管打座」、つまり座っていればよいのだ。 「空」に生まれ、「空」に死ぬんだから。 あなたは曹洞宗は何を布教しているのか? と質問していますが、現代の曹洞宗は道元の時代とは違い、ただ葬式仏教のシェアーを拡大するためです、とお答えしましょう。

回答No.8

イエスの「善きサマリヤ人のたとえ」。 ~~~~~~ ルカによる福音書 第10章 10:25するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。 10:26彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。 10:27彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。 10:28彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。 10:29すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。 10:30イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。 10:31するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。 10:32同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。 10:33ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、 10:34近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 10:35翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。 10:36この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。 10:37彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。 http://bible.salterrae.net/kougo/html/luke.html ~~~~~~~ 《野狐禅》に耽り、イエスの言う司祭やレビ人になっているんじゃないか?

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 隣人愛の話は、キリスト教は戦争や魔女狩りしただろうとか ヨシュア記とかいろいろあって、個人的に話題にしにくいです。 さらには愛は執着で慈悲のほうが優れているとかいう仏教の論調もありますから なんとも。 曹洞宗の学者は実際どれくらい坐禅をするものなのだろう。 ネットでいやみを書いているときは坐禅はしていないだろうけれど。 いやみを書いているときまで悟りだったりして。

  • kurinal
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回答No.7

>「慈悲を捨てて、何が仏教だ、ボケ!!」 大慈、大悲(小慈、小悲?)

noname#207067
質問者

お礼

ある曹洞宗の学者がずっと、いやみを書き続けるのは、そうすることで 敵対する人を増やし、曹洞宗を否定して欲しいのではないだろうか。 つまり、ある曹洞宗の学者は内心、自身の所属する 宗派にたいして拒否感があるのではないだろうか。

回答No.6

おそらく『大乗起信論』の《始覚門》、《本覚門》あたりから言葉を持ってきているのでしょうが、本覚だ、始覚だといっている時点でアウト!! 中国の老荘思想に基づき、仏教の教義を解釈しようとするトンチンカンなことをするから、妙な話になるんです。 大体、禅なんてものは、老荘思想、特に『荘子』の影響を強く受け成立したもので、その成立の最初から仏教とは似て非なるものです。 それにですな~、 六波羅蜜行を捨てて、(大乗)仏教だなんて呼べるはずがないでしょう。 山や僧堂に籠もって、一人、自慰の禅、オナニー禅、野狐禅に耽っていればいいんだわさ。 慈悲を捨てて、何が仏教だ、ボケ!!

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ねむりねこさん、今日はずいぶん荒っぽいですね。

回答No.4

「犀の角」、もしくは、「野狐禅」!! 野狐禅 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%8B%90%E7%A6%85 「猿に自慰行為を教えると、死ぬまで自慰行為に耽る」という俗信があるでしょう。 これこれ、 自慰に耽っている♂ そして、この自慰行為を世に弘めようとしているのでありました。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 いやあ、きついですね。 曹洞宗の坐禅そのものが野狐禅になるとは 思いもしませんでした。

回答No.3

 坊主は要らん。ブディズムは解体しよう。とはまだ言えなかった。  シガラミ――伝統?――の中で あたらしい試みを打ち出して行くよりほかには すすむ道は見えなかった。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なにかをするわけでもなく、 坐禅という何かをしているようで、何もしていない ようになった。

回答No.2

 道元としては さとりが過程的でそのつどの動態であると言いたかったのだと見ます。  つまり 即得往生と言うのとその効果や結果としては 同じことだと見られます。  さとりがああだこうだとか 死に際して菩薩が迎えに来るとかどうとか そういう形而上学にはいっさいこだわることなかれと言っています。  生活世界が 第一であると。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 道元の問題だとすると、 なぜ道元は 仏教を否定してしまったのか 疑問です。 あと、非常に個人的な観点ですが、 坐禅という言論より身体を服従させるという方法に 抵抗感があります。 型とか礼とかそういう文化なのかもしれませんが。

回答No.1

座禅を布教ではなく普及させているのです。 自分自身を深く顧みることを促しているのです。 結果的に、日本の仏教を世界に広める役割を果たしたのです。

noname#207067
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 日本の文化として坐禅が普及するのはいいことだとしても、 仏教を否定しているような気がして、違和感があるというか。