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なぜ原理主義がでてくるのか?
高等批評とか懐かしいのですが、 なにはともあれ、文献学とかで聖書も解体されているわけです。 それなのにどうして、 聖書に書いてあることと、やっていることが違うとか いうことになるのでしょうか? みんなわかっていて、からかうのが楽しいからそういう話になるのでしょうか? 高等批評 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E6%89%B9%E8%A9%95
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聖書が生まれて2000年が経過した そして 出来た世界が 現世界・・ そろそろ 聖書では駄目だと 気付かない方が おかしい
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こんばんは。回答番号3のplapotaです。聖書の話ではないのですが、関連したことを追記します。 このサイトを(自称)卒業なさつたcyototuさんが、『土佐日記』の作者は紀貫之であるといふ定説に疑念を抱いていらつしやるやうです。本文に、 「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみむとてするなり。」 (鈴木知太郎校注『土佐日記』岩波文庫 7ページ) と書いてあるのですから、作者は女性であるはずです。もしかすると、紀貫之はオネエだつたのかもしれませんが、私としては定説のとほりではないかと考へてゐます。 この問題は聖書の高等批評とも似たところがあるやうに思へます。書いてあることを素直に受け止めるか、それとも状況証拠によつて別の仮説を立てるか。私としては、聖書の読み方については、一般的には高等批評に傾きすぎてゐて、もつと素直な解釈が必要なのではないかと考へます。原理主義を擁護するわけではありませんけれど。
お礼
回答ありがとうございます。 聖書については昔のokwaveユーザーのほうが凄かったような気がします。 過去の質問を見たほうがいいかもしれません。
私はゆきすぎた原理主義に好感をもてませんが、逆に18世紀19世紀の古典批判精神にもとづく高等批評にも疑問を感じます。 ホメロスの歌つたトロイア戦争の世界を否定する風潮が高まる中で、シュリーマンはアキレウス、オデュッセウス、ヘクトール、アイネイアース、そして多くの英雄が活躍したことを信じて発掘をおこなひ、その可能性があることを示しました。 聖書の世界に対するクリティークについても、バランスの取れた見方が必要ではないかと思ひます。伝説によればモーセ五書はモーセが書いたことになつてゐますが、申命記末尾にはモーセの死の記述があり、この部分はモーセによるものでないことは明白です。文書仮説にしても「仮説」といふ名称のとほり、J資料とかE資料とかは、類推にすぎません。 >> なぜ原理主義がでてくるのか? 原理主義にせよ、原理主義批判にせよ、なにごともほどほどがよいのではないかと思ひます。
お礼
回答ありがとうございます。 私が思うキリスト教に対する疑問は 奇跡が起こらないということと、 世界が終わらないということなのですが それはともかく、 福音書もさまざまなものがたくさんあるようだし、 もっといろんな研究ができればいいのですが。
- pikaruche
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逐字霊感:聖書の一字一句がみな神様の霊感によって書かれたので、文字通りに信じるべき ふたつの可能性が考えられます: 1:逐字霊感が信仰になっているのですから、文献学的分析は仮説であって、否定されるべきもの(原理主義はこれかな、、、) 2:聖書が歴史的に文献学的にどのようにできたとしても、それは神様の導きであって、結局は聖書の一字一句正しくなるように起きたのだ、と信じる立場なら、学問がどうの分析がどうのということとは関係なくなるものなのかもしれません。 いずれにしろ、信仰と客観性を問う学問は別物です。 原理主義の先鋭化は、生活が苦しいとか、心理的葛藤とか、、、そういう鬱積したわだかまりから心を離して、書物に逃げ込むために起きるのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 信仰と学問の問題は今後も話題にしていきたいです。 高等批評なんていうものがあったのに 反動なのかなんなのか原理主義がでてきたのが不思議です。
お礼
回答ありがとうございます。 ですが聖書を否定すると今度はカルトだとかなんだとか なるので基本は聖書も認めないといけないのですが 批判するときにあまりに聖書に偏りすぎている感じはあります。