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日本語の「受身」について
「雨に降られた」は自然であるのに、「財布に落ちられた」が不自然なのは何故でしょうか。
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通常、受け身は他動詞につきます。例「人に押される」 それに対して、自動詞に付く受け身があります。例「雨に降られる」「降る」は自動詞なのですが、それが受け身になると、「被害の受け身」「迷惑の受け身」といって、その主語になるもの(多くは人間)にとって有り難いものではないわけです。(もっとも、場合によっては有り難いこともあります。例えば、暑い日に「風に吹かれる」)そのように、主語は有情のものであって心理的受け身ということになります。この自動詞の受け身は(他の言語でもないとは言えませんが)日本語の場合に問題になることが多いようです。 さて、問題の「財布に落ちられた」はちょっとよくわからない表現ですね。「飼い犬に逃げられた」なら、分かります。犬は逃げ出すことが出来るわけですから。しかし、財布は勝手に落ちるものではありません。落とすことはあっても。(「落ちる」は自動詞) どうして、こんなことを考えつかれたのかと推測すると、受け身の話が出るとよく例に挙げられるのが、「私は彼に財布を盗まれた」という文があるのです。この受け身(受動態)を能動態にすると「彼は私の財布を盗んだ」というのが常識なのですが、それを再度受動態に戻すと、「私の財布は彼に盗まれた」となって、元に戻りません。これは「私は彼に足を踏まれた」の場合も同様です。日本語と他の言語(たとえば英語)とが受動態においてうまく対応していないという例なのです。 話が余談にわたりましたが、「財布が落ちる」ことはあっても、「煉瓦に落ちられる」と同様に通常は「財布に落ちられる」(いわゆる自動詞の受け身)とは言わないものだということですね。
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- suzumenokox
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こんにちは。 前者は「雨を降らす主体として神に類する存在を想定して成立した用法」だから自然。 つまり、雨を降らされたでは罰当たりで その上で、神様に対して人間は受け身でしかありえないという感覚の表れ。 後者は「財布を落とす主体は存在せず、偶然によるものだから不自然な用法」。 財布を落とす偶然に神が出てこないのは 用法が成立した時点で 天候は生命の維持に大切な収穫に重要な意味があったのに対して 落し物程度のことはそれほど重要なことではなかったのではないか。 という解釈が可能だと思います。
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自然現象かどうかの違いでしょう。
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主語を書きますと、 私は雨に降られた、は正しい。 東京都は雨に降られた、は不自然。なぜなら東京都には主観が無いはずです。 私は財布に落ちられた、は不自然。財布が落ちることは財布と地球の関係であって私との関係ではありません。 ポケットは財布に落ちられた、と言うなら、そういいたいのならば正しいとも言える。ポケット君の物語です。 私は財布に逃げられた、は正しい。
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- kurosansan
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言語学は全然わからないので、素人の勝手な考えですが、対象のモノが動くものか否かで決まるような気がします。 雨は、もともと降ってくるものなので、動きがありますが、 財布は、動くものではない、との違いかな、と思いました。
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お忙しい中でのご回答、ありがとうございました!
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