- ベストアンサー
ヨーロッパ人の真理論は成っていない
- ヨーロッパ人の真理論について研究し、代表的な説を紹介する。
- 真理の整合説や明証説、実用説などさまざまな真理の理論が存在する。
- 真理の概念は相対的であり、主観的な要素も含まれることがある。
- みんなの回答 (15)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
お久しぶりです。とても勉強させていただきました。 さて、真理についてですが、真偽を問題にするとややこしいので、最初の段階では、それを捨象します。それと主観、客観も捨象します。つまり、以下の文には、ところどころで言葉に明示しますが、4つのケースがあるということです。(追記:善悪も捨象してますので8ケース) (a)真理から真を捨てれば、その概念の内容の型(タイプ)は、物象や事象でははなく、理象(理論)です。 真偽定まらぬ、相対的にして多数の(主観的/客観的)理論の流れがあります。 理論A1→理論B1→理論C1・・・ 理論A2→理論B2→理論C2・・・ ・・・ (b)この次元の流れがあるのとは別に、 理論A1→理論B1→理論C1・・・ ↓ ↓ ↓ 実践A1、実践B1、実践C1・・・ 理論A2→理論B2→理論C2・・・ ↓ ↓ ↓ 実践A2、実践B2、実践C2・・・ ・・・ という縦の流れがあります。予測どうりの成功も、また不測の失敗も、主観的にも、客観的にも生じます。 (c)それに、 唯一の絶対的理論 ↓ 唯一の絶対的実践 というのが、人間の能力を超えたところにあるのかもしれません。そのため、もしあったとしても人間には有用ではありません。たとえば「我が意識、生ずも滅するも、我関せず」という気がします。 (d)横の流れにとらわれていると、理論の実用性は偶然的になるかと思います。縦の流れ、実践を意識すれば、少なくとも蓋然性は高まるでしょう。 実践するという現実、そこに関わりがある、役に立つ理論(実用説)は支持され、(理論と実践の対応説)も支持されます。(整合説)のみの主張は批判されるでしょう。しかし、役に立つ理論(実用説)が支持されるということは、これはつまり「真なる理論」が尊重されるということでもあるのですから(整合説)も必要とされます。理論化から実践化の人間行為の流れの中に、実用性、対応性、整合性の各条件がすでに含まれているのです。 加えて、真なる理論を適用すれば同じことが再現するというということは、事実との対応がよくできているということになります。なので「整合性を基礎とする真理の実践説」なるものが、「群盲象を評す」中で、目の開いた人の真理条件の理論となるのではないかと思っています。 (e)理論の実践ということを考えて見ると、自然科学の理論は、その技術的な範囲内でいい線いってます(倫理的にではなく、事実とよく対応する理論と運用といいう意味で)。 これは西洋文明のおかげですから、その真理観は、成ってはないにしても、捨てたものでもないです。これを切って捨てようとするのは、実践面に目が向いていないということではないでしょうか。ですから、ぼくとしては、整合説(Coherence Theory of Truth)が優位を占めているんです。 コヒーレンシーは、(詳しくないのですが)概して言うと、光学機器の性能の示す基本的な特性で、光の波長や位相や振幅が一貫していて変動しないことや、他の波長の光と重ね合わせて利用するときの、相互の波長や位相や振幅の調和性(整合性)。その時間的な一貫性、空間的な調和性の精度の高いものが機器として高品質ということから、真理の有用性をいろいろ類推してみるとよいと思うのです。 理論的命題をひとつの波として思い描けば、その調和・整合性が理論(推論)の妥当性であり、一貫性は理論の一貫性(実用すれば現実の再現性、事実との必然的一致になる)。事実との対応によって理論が真になるのではなく、対応する事実に適用する理論が真であることが、理論が結論する事実との対応を生むのです。 理論の前提(こういう条件の時にというコトワリ(断り)) ━前提事実との対応━ 断っている条件に従って事実に適用(この対応は運用上の問題) あるいは、前提が真となる事実にのみ適用、と言い換えてもよい。 前提の真偽を事実対応させるというのは理論面でなく運用面で。 ↓ 理論の結論(その時にはこうなるというコトワリ(事象分割)) ━結論事実との対応━ 真なる理論は、正しく運用されれば、事実が理論の結果に必然的に対応する。 (6)(7)については。どちらも不採用。 P→(P→T)は真だけど、P←(P→T)は偽なので、同値じゃない。だから執筆者の誤解じゃないのかと思うんですね。 フレーゲ 「同値テーゼ」:「「文Aの表す思想は真である」の思想は、「文Aの表す思想」と同一である」 http://daigakuin.soka.ac.jp/assets/files/pdf/major/kiyou/18_jinbun1.pdf ラムジーと真理の余剰説 http://www.u.tsukuba.ac.jp/~hashimoto.kouji.fu/paper/Ramsey_on_Truth.html あと、ぼくなりに真理を定義しておきますと、「(人間の)真理とは、論理学的(あるいは数学的)に論理式(数式)が真であることが証明された、実践的理論の形式をもつ命題が表すところの、すなわち、タイプが意義ではなく意味であるところの理論である」(定義不可能説は不採用) そして、この定義を用いて、「真理を適切に運用すれば事実がそれに対応する」という実践的理論的命題をつくります。真理が実用的に機能するためには論理が、つまり必然性が必要で、整合説が最も重要なのです。 フレーゲの、命題の意義と意味の区別は採用する。 命題・・・形式・・・・・・・(実用)理論形式 事象・・・内容(意義)・・・(実用)理論を認識する思考(概念構造の整合性が重要) 現実・・・内容(意味)・・・理論を実用のものとする真偽判断(整合性の観点が重要) 現実・・・内容(意味)・・・理論の実践(運用基礎、前提条件を遵守) 現実・・・内容(意味)・・・理論に従う事実の再現 (5)については、前後しましたが、人は約束を破ることがあるので、合意は真理にならない。ただし、前提条件は合意に基づいても良い。約束を守るという仮定のもとに結論が事実と一致する。事実と一致しなければ、合意あるいは理論の運用が疑われる。真理は疑われない。理論が真理でない可能性は疑われる。 (3)明証性は、論理的証明性にかえる。前提条件で明証性を採用してもよい。理論の結論が一致しなければ、前提の明証性か、理論の運用を疑われる。真理は疑われない。理論が真理でない可能性は疑われる。 よって、合意性と明証性は理論の前提に関する条件として採用。 (8)規約主義は不勉強で、思うところなし。 「神の真理」には口を閉ざします。
その他の回答 (14)
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
君には君なりに、正しいことと、間違いというか、何らかの錯誤を仕分けする能力があるから、全ては間違いだとは言い得ないが。 あれもない。 これもない。 このような指向性で否定すると何もかも失う無の境地にたどりつくだろう。 今更うれしいことじゃないよね。 それで、この論説はこんな一面がある。 他もそうだと。 そんなやり方を検証しているが、いろんな説に自分なりの見解を示すのは大した能力だよ。 旧人類は一部の説のみに、自分なりの見解を持ちうるが全体は判らないとかお粗末な事を言う。 私の説はこうだよ。 自然科学から真理の探究をしようという輪郭は、あながち間違いじゃない。 自然界は裏切らないからだ。 森羅万象全てが、本物だ。 ここで現実に偽物が混ざると言う錯誤は、心の方に錯誤の原因があり、その錯誤の実践が現実を調和からとうざける間違いを起こすからだ。 実際は現実の現象には間違いはない。 ここで、真理と言われた目標として、現実と心の一致、または身心の一致を実感しないと、NHKの娯楽科学番組でやっているように、現実のみで、心は脳の化学反応だとか何とか言う説になる。 西洋で全ては無だという科学万能信仰を研究しているとでもいおうかな。 こう言う事柄は、社会的合意形成の一部分で、世に語るための説だ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ここで現実に偽物が混ざると言う錯誤は、心の方に錯誤の原因があり、その錯誤の実践が現実を調和からとうざける間違いを起こすからだ。 ☆ 認識の落ち入り得るマチガイですね。人間の能力には限界があるから。 つまりは 真実――主観真実でしかない――は あやまちうるものと決まっています。 あやまち得ないものではなく そうではなく あやまち得る実際とあやまち得ないという理念とを綜合したかたちにして しかもこのアヤマチということ自体からまったく自由な場を想定する。これが 真理です。 真理と真実とは分けてあつかうのがよいと考えられます。
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
真理については、 Oxford Dictionaryの定義 ~~~~~~ 1.1 (also the truth) That which is true or in accordance with fact or reality: 1.2 A fact or belief that is accepted as true: http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/truth ~~~~~~ 以上のことは語れない、と思うんですよ。 fact(事実、真実?)、reality(現実)という経験(事象)を判断の根拠におかざるを得ないでしょ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ・ 真理: 《非知》:絶対・無限:人が信じる ・ 事実: 《知解(認識)》:相対・有限:考える ・ 真実: 事実認識としてのわれの主観真実 および 真理(=神)を受け容れるときの主観真実 OED の定義は 《事実認識としての主観真実が 多くの人びとにあって認められ共有されたもの》でしょうね。 社会科学的な真実より自然科学的な真実のほうが より多くの人びとにあって妥当だと認められ共有されるものと考えられます。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
「思惟の整合性」=公理系が完全である (全て公理系内で証明し得る)と、 「事物との対応」=公理系が無矛盾である (Aと非Aを同時に導かない)が両立する 事が「真理」の要件であるが、 ゲーデルの不完全性定理において「完全な 公理系は矛盾する」、あるいは「公理系は 不完全である場合のみ無矛盾である」とい う証明がなされた。 それは不確定性原理における「存在を把握 よりしようと、ある値(たとえば位置)を 確定しようとすると、その値に存在的意味を 与える別の値(位置の可能性である運動量) は無限不確定に発散する」という、相補的 不確定性=事物をいい加減に捉えた時のみ 有限な存在は生じる、という本質につながる。 換言すれば「無だと分からない事が有」。 即ち、真理とは「事実を正確に知る」事では なく、それらがいかにいい加減か=全てを 無に還元する過程でしかない。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 即ち、真理とは「事実を正確に知る」事ではなく、それらがいかにいい加減か=全てを無に還元する過程でしかない。 ☆ まづ《真理》とは この場合も 経験事象について人の認識した真実のことだと見ます。 事実認識についての検証可能性におけるマチガイの無さや信憑性といった真実のことだと見ます。観察者の主観真実であり だれが観察しても 同じ事実認識になるとすれば 普遍的な認識内容であると認められるということ。 そこでそのような《正確に知った事実(つまり 表現された認識事実)》は 《いい加減に捉えられて 存在として生じた状態》について言っているのだということですよね。 つまり その事実認識は まだ《誰もが共有しうる主観真実》ではあっても 言ってみれば《完全な普遍性としての事実=真実》ではないのだということですよね。 けれども ★ 事物をいい加減に捉えた時のみ有限な存在は生じる、という本質につながる。 ☆ という判断は 《本質》という用語をつかっています。 ★ 換言すれば「無だと分からない事が有」。 ☆ これが 本質ですか? ★ それらがいかにいい加減か=全てを無に還元する過程でしかない。 ☆ 《いい加減に事実を捉えた》というのなら それはそれでよいとします。けれども《すべてを無に還元する過程》とは一体どういうことでしょう? あなたがこれらの事実を無に還元したのですか?
補足
《公理系》と《想定》とは 微妙に違いがあります。 なぜなら 公理は 経験事象について論証抜きでみんながそれを前提とすることに同意するものですが 想定は・そしてのここでの想定は あくまで経験事象を超えた場についてのものだからです。 だから 不完全性原理とは 別です。
ブラジュロンヌさんは、 信じていた世界観が崩壊したことはありますか? 信じようが無いというのはわかりますか? アイデンティティなどといっても自己も世界も無い。 そんなものはない。とっくの昔に崩壊してしまった。 弱さのニヒリズムだろうが強さのニヒリズムだろうが。 別なものを選んでも「自己超克」してしまう。 崩壊を止めようが無い。
お礼
《崩壊》するものがまだあるってことですね。 ご回答をありがとうございます。
- 1
- 2
お礼
あともなどすさん こんにちは。そう言えば 先日どこかでお名前をお目にかかったと思っていましたが 考えてみればずいぶんお久しぶりにもなるかと思います。まづは なつかしいですね。(論理学としては この質問の主題をあまり考えていなかったものですから なつかしいと言いますか 論理学の視点からもお聞きする姿勢になっているべきだったというような)。 ご回答をありがとうございます。 なにしろこのたたき台について オボカタ・タイプだと言われてしまいましたので張り切ってさらに精進してまいります。 さてあたまから読み継いで行って 次の見方になるほどと思いました。: ★ 理論化から実践化の人間行為の流れの中に、実用性、対応性、整合性の各条件がすでに含まれているのです。 ☆ 整合性のない内容は まづ理論とは言わないでしょうし その内容が事実や事象と対応していないなら 理論の整合性は 絵に描いた餅ですし またその対応のあり方が 実用性に乏しい場合には あまり理論が求められないのかも分かりません。 実用性は ただしどうも 類としての問題ではなく 種ないし〔個別だとは言わないとしても〕特殊の場合に問われるというようには思います。つまり 二次的な問題であるかとも考えます。 あるいは もう一点思ったのは 理論と言っても じつは実践や現実の事象について要素を抽象しつつ形づくるのでしょうから 実践や事実との対応性がないというのも じつはおかしい。たぶん既成の理論を突き抜けるあたらしい内容のことが焦点となっているのでしょうか。つまり 理論の実践化においてはです。 かくして: ★ 加えて、真なる理論を適用すれば同じことが再現するというということは、事実との対応がよくできているということになります。なので「整合性を基礎とする真理の実践説」なるものが、「群盲象を評す」中で、目の開いた人の真理条件の理論となるのではないかと思っています。 ☆ この場合の《真理》は 《事実》を認識した理論内容が広く整合性にも対応性にもそして実践性にも富んでいるという意味であり わたしの用語では《真実》ですが そのとおりにわたしも考えます。 なぜ《目の開いた人》の場合でも 真理と言わず真実と言うかと言えば ★ ~~~~~~~~~~~~~~ (c)それに、 唯一の絶対的理論 ↓ 唯一の絶対的実践 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という《絶対性》を持つ理論も実践も 現実にはないと見るからです。この《絶対性》については 《非知》として《真理》を当てています。どうでしょうか。 ★ これ(自然科学の実践性)は西洋文明のおかげですから、その真理観は、成ってはないにしても、捨てたものでもないです。これを切って捨てようとするのは、実践面に目が向いていないということではないでしょうか。ですから、ぼくとしては、整合説(Coherence Theory of Truth)が優位を占めているんです。 ☆ ええっとですね。舌足らずの早とちりだったんですが それでも言おうとしたことは 自然科学が けっきょく良きにつけだけではなく悪しきにつけても 要素還元の志向性がきつ過ぎる場合が多い。という一点でした。 カジノを日本にもつくるかどうかが課題になっていますね。自然科学的にその経済社会的な理論を打ち建てて実践面でどうかと考えるわけですが いろいろ考えられているようです。 マカオや韓国にもあるそうですね。そこより魅力的な(?)施設が出来るか? 世界の賭け事好きを呼び寄せられるか? 施設をつくったときその地域の商店街はさびれてしまう事例がある。そのことを考えると カジノを含むリゾート施設が新しい雇用を生むとしても 経済効果はプラスマイナス差引ではそれほど期待できない。 あるいは ギャンブル依存症の人間を一定数において生むという経験事例が観測されている。 日本人がお客となるのでは 全体の GDP を押し上げることは出来ないと予測されている。 つまり 要素による分析は 捨てたものではなく実践的であり実用的です。と同時にそれら要素の側面だけから考えても よい判断は得られないかも知れない。高度に政治的な観点から・いえ と言うよりは生活世界の観点からしっかりとした判断をする必要があるのではないかと思います。いつもそれだと言うわけではありませんが やはり直観も大事だと思います。 もっと実際のこととしては その現地に暮らす人たちの考えをよく練って行くことが大事なのではないか。それには 科学的な理論としての判断資料が必要である。こういうことだと思います。 ★ コヒーレンシー ☆ にはそういった光学の現実性があったのですか。(そう言えば ついこのあいだ デ-コヒーレント理論と言うのを聞いたばかりです。記憶にマチガイがなければ 光子がぶつかって量子がさだまった状態になるそのような確定は 人間のおこなう認識による場合だけには限らない。とか)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ ━前提事実との対応━ 断っている条件に従って事実に適用(この対応は運用上の問題) あるいは、前提が真となる事実にのみ適用、と言い換えてもよい。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは きびしく言うと自然科学の場合ですよね。モノ・コトを扱う場合だと思うのです。 想定外のことが発生することを 社会科学や人文学では 大前提としなければならない。というより一般に科学ないし理論としては 一定の前提事実について法則性を取り出すのでしょうし 例外なる事態の発生についてはその《想定》も限られたものとしてもう良しと見限るのだと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ あと、ぼくなりに真理を定義しておきますと、「(人間の)真理とは、論理学的(あるいは数学的)に論理式(数式)が真であることが証明された、実践的理論の形式をもつ命題が表すところの、すなわち、タイプが意義ではなく意味であるところの理論である」(定義不可能説は不採用) そして、この定義を用いて、「真理を適切に運用すれば事実がそれに対応する」という実践的理論的命題をつくります。真理が実用的に機能するためには論理が、つまり必然性が必要で、整合説が最も重要なのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《真理》は たぶんそのまま学問の世界では使われ続けると思いますが わたしの区分としては《相対的なものごとについての真実》のことだと捉えて 同意します。 そしてもし相対真実だとすれば 理論(つまり人間による事実認識)と事実とは 互いに同等の重要性において位置づけられるとも考えます。どちらが優位であるといった見方はしない。もし言うとすれば 人間は奇妙なる事実の発生につきその事実のほうに重きを置いて捉えなければならないと思われます。 ★ (6)(7)については。どちらも不採用。 ☆ このフレーゲとラムジーにつきましては 参考論文を読んで補足欄にて――あまり分からないと思うのですが――応答いたします。多少時間がかかると思います。 ★ フレーゲの、命題の意義と意味の区別は採用する。 ☆ このあとでもさらに考えますが ということは《意義》は出来るだけいわゆる《客観性》に近づいたと見なされるところの〔ふつうは主観的な〕《意味》のことである。でしょうか? ただし 《再現》をめぐる《意味》は 客観的な意義に重なるとも思えて来ますが。・・・ ★ (5)(真理の合意説)については、前後しましたが、人は約束を破ることがあるので、合意は真理にならない。 ☆ ううーむ。この場合の《合意》とは 理論内容について妥当であると同意する――主観を共同化する――ことだと思うのですが どうなのでしょう。約束というような意味合いがからまっているのでしょうか? 言いかえると 《同意ないし合意》が・つまりその判断が間違っていたということもある。というだけのことだとは思うのです。もっともここに《整合性》を入れて捉えなければ 話はあまり始まらないとは思われます。 ★ (3)明証性は、論理的証明性にかえる。前提条件で明証性を採用してもよい。 ☆ けっきょくですが 明証性だけでは 整合性があるとは限らない。という問題に帰着するのではないかと。どうでしょうか。 ★ (8)規約主義は不勉強で、思うところなし。 ▲ (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。 ☆ 確かに個々の《言語》にそれほどにまで特殊性を持たせるのなら 言語どうしの相対性が崩れるかも知れませんね。 ★ 「神の真理」には口を閉ざします。 ☆ あぁ。ここにわたしの言う狭義の真理が出て来ました。
補足
▲ (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。 / フレーゲ ▲ (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。 / フランク・ラムゼイ ☆ これらについて 次の文献を参照して思ったことを述べてまいります。 ◆ 平 石 美 喜 子:フレーゲ論理主義の認識論的意味付け ■ 橋本康二:ラムジーと真理の余剰説 (そ) ◆ ( p.376 ) ~~~~~~~ 真なる思想の表現は真なる真理値を意味しているので、フレーゲによれば、真である真理値を‘2^2=4’や‘(1+1)2=4’の「意味 Bedeutung」と呼ぶことができる。また同様に、偽なる思想の表現は偽である真理値を意味し、‘1^2=4’や‘3^2=4’の「意味 Bedeutung」と呼ぶことが可能である。この真理値には、真か偽かという二つしかない(真偽二値の原理)。 それでは、同じく数4を意味しているのにも関わらず、‘2^2’‘4’‘(1+1)^2’とでは表され方が異なることについてどのように説明するのか? フレーゲはこの相違を「意義 Sinn」と名付けた。そしてこのような表現のことを真理値の「名前 Name」とし、真理値の名前の意義を「思想」と呼ぶことにした(GGA §2)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このことに――つまり 意味と意義とに――違いはないとわたしは考えます。 (た) ◆ ( p.378 ) 何らかの記号が意味する対象そのものは意味であり、他方、表示されたものの与えられる仕方を含み、対象と記号の間に位置するものが、意義である。 ☆ すなわち シルシとわれ あるいは 対象とわれ これらの間に位置するものも 大きく広くかつふつうに《意味》です。あるいは《意義》と言ってもよい。 (ち) おそらく日本語では区別する必要はないと考えます。《表示方法 あるいは 自己表現の仕方》 これらの内容も 意義であり意味です。 (つ) 言いかえると シルシが〔誰もに認められているかたちで〕持つ意味は そのシルシ(≒ことば)を用いる主体であるわれとのあいだで――ということは結局 文脈にかかわって――いくつかの異なった意味にもなります。これを 意義と言ってもよいでしょうが 日本語では 意味です。区別する意味がないと思います。 (て) ◆ ( p.379 結びに代えて) ~~~~~~~~ 算術的真理についてフレーゲが述べたことから、算術的真理の正当化は如何にして証明されうるのか? その根源はどのようなものなのか? その方法の妥当性がどのように求められるのか? そして、 論理学や算術の哲学がどれほど有用であるのか? という問題に対する解答が垣間見えるのではなかろうか。あくまで客観的に推論されることで獲得されるということによって、心理主義や経験主義に拠ることなく認識するという可能性を示唆しているのではないか、と筆者は考える。 概念記法によって、判断から原初的論理的真理へ推論する。そのことで、人間が一体どのようにして認識を獲得するのか、あるいは拡張するのか? その認識は妥当であるのか? という問題について考察することが可能になるだろうからである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここには 意味はないと考えます。 《原初的論理的真理》とは 公理のことだそうです。論証以前に真だと見なされる命題。そこへ概念記法によって推論すると言っても 何も言ったことにはなりません。 (と) もともと 《その認識は妥当であるのか? という問題について考察する》ことから出発したものです。 (な) 《客観的に推論される》と安易に言い過ぎです。 ■ ( 1. 序) ~~~~~~~~~~~~~~ 本論文では二つの区別をもうける。 一つは、命題の真理と信念の真理の区別である。 これは、実質的真理論が真理性質を帰属させる存在者(真理の担い手)の種類に関する区別である。 簡単に言うと、命題とは物質と異なる形而上学的な存在者であり、信念とは心理的生理的な人間の状態の一種である。 もう一つは、真理をめぐる存在的議論と言語的議論の区別である。 これは、世界のあり方を検討する中で出てくる真理に関する議論を、我々が現に所有し使用している「真である」という述語の意味に関する議論から区別するものである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (に) わたしはこの区別も要らないと考えます。あるのは 《事実》と《われ》と《シルシ(≒ことば)》であって それらのカラミとしての関係は ワレが存在するかぎり・表現者として介在するかぎり 《存在者にとっての主観的な意味》が問題になる。こう考えます。 (ぬ) すなわち 《命題》と《信念》とは つねに絡まっています。 (ね) すなわち 《存在者》と《言語表現》とも つねに切っても切れない関係にあります。 (の) 《「真である」という述語の意味》は 表現の主体であるワレの意志や意図とつねに絡まっていると見ます。その主語なる対象にしても ワレと絡まっています。 (は) その表現者なるワレの意図は むろん相手やその情況に応じて 意味を変えたかたちで 発せられます。それは 活きています。 (ひ) ワレの意図としての意味が初めに来て あとは 相手とのあいだで・つまりは相手がどう受け取るかで さらに初めの意味が――活きたかたちで――変化する場合があります。誤解があれば それも――事実として起こったかぎりで―― 真実の意味でしょうし さらにこの誤解をただすことも ワレにとっての真実の意味になると考えます。 (ふ) 成功ゆえの真実説(《サクセス真理論》)もそしてあるとすれば失敗ゆえの真実説(フェイリャ真理論)もあり得るはずです。その意味では 《実用(有用)真理論》は 二次的な議論であると考えます。