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天下普請で大名の財力を削ぐことができましたか。
- 天下普請に参加した大名の財力削減について疑問がある。
- 豊臣恩顧の西国大名の財力がそぐという目的があったが、果たして達成されたのか。
- 大名にとっての天下普請は負担になったのか、また例外的な事例は存在するのか。
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天下不信には外様大名の財力を削ぐ目的はあったと思います。関が原の敗戦で領地を縮小させられた毛利や薩摩や上杉らの大名には負担は少なく、勝ち組であった浅野や黒田や前田や伊達や加藤らの外様大名は多くの工事をさせられています。しかし、指摘のように各大名家はほとんど衰えていないのも事実です。もちろに領内からその資金を捻出したのでしょう。年貢の取立ても厳しくしたのでしょう。 現在でも公共工事が国を衰えさせるとは限りません。お金は天下の回り物ですから、城下でも土木工事をすれば城下が発展します。土木工事の代償として江戸に大きな上屋敷を持ち豪商との取引で利益も得たのでしょう。戦国大名は凄かったのです。
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- ithi
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kouki-koureisyaさん、こんばんは。 池田輝政の財力が枯渇することを望んだのでしょうか。 枯渇させることは狙っていないと思います。ただ、窮乏するのは考えていたと思います。初期の徳川の将軍は結構身内にも非常でしたから、そこまでは考えていたと思います。何せこの時代は政治体制の急速な変更が行われたため、いろいろな出費がかさみました。この中には入っていませんが、江戸における屋敷の整備なども項目に入ると思います。 なにも天下普請は江戸城だけではありません。駿府城や名古屋城、丹波篠山城や江戸期の大阪城などもそうですね。こうしたことからも出費は酷くかさんでいたと思います。今までは備蓄金や備蓄米を取り崩して何とか財政的に持っていたものがだんだん勝手不如意になっていったのでしょう。 そういえば、福島正則が池田輝政に家康に頼んでもう少し割り当てを減らしてほしいと頼んだ時輝政はそれなら戦争の準備をしろといったといいますから相当苦しんだと思います。
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しつこい質問者に付き合ってくださって真にありがとうございます。 質問の原点に返りますと、諸大名は御手伝い普請に駆り出されながら同時に領国経営の基盤となる城郭の建設と城下町の整備をしています。 天下普請(御手伝い普請)は、大名の財力を削ぐという目的もあったとされています。 事実、資金不足で借銀した大名もおれば、福島正則のように愚痴をこぼした例もあります。 慶長期、大名が財力を減らしたことは事実でしょう。 天下普請でそうなったのか、自国の基盤整備の方にはるかに多くの費用を掛けたからではないか、という疑問です。 福島正則の場合についてwiki抜粋です。 慶長6年(1601年)3月に芸備に入封した正則は、慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復させ、慶長8年(1603年)安芸最西端の地に巨大な亀居城の築城を始める。慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加した。 毛利氏の上方への侵攻を防ぐために安芸国西部に城を造ることとなり1603年に山陽道を押さえる要地に築城が開始され。5年もの歳月をかけて、非常に巨大な堅城として完成した。 同時に広島では、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりが本格的に行われた。外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城となった。城の北側を通っていた西国街道を城下の南側を通るように付け替えるとともに雲石街道を整備したといわれ、町人町が拡大した。この大規模な城整備と城下町作りは徳川家康を怒らせ、1609年(慶長14年)正則は謹慎を言い渡されている。 池田輝政、福島正則の例では御手伝い普請で財力が削がれたとするよりは、自国の開発・整備事業に多大のカネを使ったからではないでしょうか。
- ithi
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kouki-koureisya さん、こんばんは。 確か池田輝政はとても倹約家だったといわれています。52万石の大大名であったにもかかわらず、費えは5万石の大名と同じくらいだったということですから、そのくらいの財力が自然に溜まっていったと思います。これは孫の光政も真似ています。また、城下町の整備、河川の改修、なかには寺社の修復などを行えば、自然に財力はなくなると思います。 詳細は下記のURLを参照ください。 池田光政 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF
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再度のご回答ありがとうございます。 >また、城下町の整備、河川の改修、なかには寺社の修復などを行えば、自然に財力はなくなると思います。 それは、御手伝い普請のせいで財政的に厳しくなったと言えないでしょう。 家康は、池田輝政の財力が枯渇することを望んだのでしょうか。 輝政は、家康の女・督姫の婿です。 関ヶ原後、西国へ封じられる外様大名の中で、大坂・京に近い播磨に置かれるのは異例中の異例です。 52万石の意味は、西国大名の抑えになるとともに大坂を牽制する役目が期待されたからでしょう。
- ithi
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kouki-koureisyaさん、こんばんは。 上記28家の大名の財力を削ぐという目的そのものがありましたか。 あったとすれば、目的を達しましたか。 達成しました。中には自分の領国内の城や町、河川工事などを行っていたため、莫大な出費を強いられたと思います。まだ戦国の気風のある時代だったので、手を抜くと噂が立って他の大名に対して外聞が悪いためほとんどの戦国大名上がりの大名は城は計画通り、築いていたと思います。しかし、福岡城のように幕府に遠慮という形で天守閣を立てるのをやめた大名もいるみたいです。 詳細は下記のURLを参照ください。 福岡城 http://okwave.jp/answer/new?qid=8824004 江戸城 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E
お礼
ご回答ありがとうございます。 Wiki「江戸城」の記述では、慶長期の天下普請で「諸大名は著しく疲弊した」とあります。 私の疑問は「著しく疲弊した」と言い切れるか、ということです。 例えば池田輝政と姫路城。 Wikiを全て信じる訳ではないですが、一応wikiを抜粋します。 池田輝政は、徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて、慶長6年(1601年)から慶長14年(1609年)にかけて姫路城を大規模に改修する。姫路城と同時進行で加古川流域の改修も始め、加古川の上流の開発事業や下流域の高砂の都市開発事業を行った。また慶長11年(1606年)の江戸城普請、同14年(1609年)の篠山城普請、翌15年(1610年)の名古屋城普請など、天下普請にも従事。1609年には火災で焼失した伊勢神宮の摩尼殿を再建。 輝政の財力を削ぐ目的で天下普請を命じたのか、疑問です。 福岡城についても、wikiを抜粋します。 黒田長政は、慶長6年(1601年)国替えにより、豊前より筑前に入府。 慶長6年(1601年)築城開始、7年後の慶長12年(1607年)に竣工した。50近い櫓や門を備えた広大な城郭。 天守があった可能性がある。徳川氏の大坂城普請に諸大名が築城に駆り出されたことから、天守を解体し築城資材として投入することによって幕府の信任を得ようとしたと言う説も上がっている。 御手伝い普請と同時進行でこれだけの工事をやっています。 御手伝い普請のせいで築城に7年もかかったのだ、と言われるとそれまでですが。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >現在でも公共工事が国を衰えさせるとは限りません。お金は天下の回り物ですから、城下でも土木工事をすれば城下が発展します。 なるほど、そういうことですね。 江戸城の石垣がいくら巨大だといっても28家の大名が分担したのですから、たいていの大名家にとっては、大きな負担ではなかったのではないか、と思い質問しました。 もちろん疲弊した大名家もあったでしょう。