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江戸時代の身分と養子縁組について

江戸時代の身分制度で士農工商やえた・ひにんなどあるのですが。江戸時代は婿養子をとるとき、婿の家とお嫁さんの家のお互いの家の身分が同じくらいでないとできないのでしょうか。 私の江戸時代くらいの先祖の身分を知りたいのです。 戸籍謄本上に、 前戸主:高橋源七 前戸主源七の長女:はる 前戸主源七の義理の息子:源造 と書いてあり、源造の以前の前は北川博左衛門だったんです。(改名した)江戸時代ー左衛門とつく名前は武士か御家人だと聞いたことがあるのですが、その源造が武士が御家人やったら、前戸主の源七も武士の家計だった可能性が高いのでしょうか。

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  • oska
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回答No.3

>婿の家とお嫁さんの家のお互いの家の身分が同じくらいでないとできないのでしょうか。 その通りですね。 「家の格式」が、全ての価値判断の基準でした. ですから、嫁はんの家とつりあいが取れない旦那は、先ず(嫁はんの家と同格の)他家の養子になります。 そして、その養子先の人間として婿さんに入ります。 >江戸時代ー左衛門とつく名前は武士か御家人だと聞いたことがあるのですが 武士(旗本・御家人含む)とは、残念ながら限りません。 当初は、役職名でしたが、徐々に誰でも名乗っています。 豪農(庄屋)大店(オオダナ)の主も、代々左衛門と名乗っている場合があります。 ですから、代々武家とは限りません。 江戸時代は、身分制度がはっきりしていて武士は武士・農民は農民・・・と決まっていた様に考える人が多いです。 (現在は、政治家の子孫は代々政治家となる世襲制度がありますね) が、武士が農民・商人などになる例も多く、また逆に、豪農・商人が武士になる事も多かったのです。 例えば、幕府のお膝元多摩地方では、名主・豪農が「御家人株」を30両から50両で購入し、御家人となり「八王子同心」なっている例が多いです。 地方各藩でも、同様に身分の売買が存在していました。 例えば、高知の坂本竜馬を産んだ「才谷屋」。先祖が「郷士株」を購入し、下士(山内家家臣は上士で、旧長曽我部家臣は下士(郷士))となり武士身分を獲得しています。 1万石程度の小藩では、1年単位で商家・農家の次男坊三男坊を役人として採用しています。(武士の中でも、一番低い身分でしたがね) 先祖が武士だったか否か。 旦那寺の過去帖とか、先祖が使えていた藩の記録を調べた方が良いですね。 藩の記録(現在の、社員一覧表)は、その藩があった図書館で見る事が出来ます。コピーも可能。

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  • mabomk
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回答No.2

戦後暫くまでは「士族」「平民」という区別が戸籍に記載されていたとうちの爺さんが言ってました。だからといって、徴兵云々やその他の差別優遇は無かった。爺さんの代の戸籍まで遡れるなら調べてご覧下さい。

  • ESE_SE
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回答No.1

身分は家に依存していたようです。 また家は細分化を避けるため、長男以外は他所へ養子へ出すのが一般的だったようです。 例えば豪農が一人いたとしても、その一人に男子が3人生まれてそれぞれに遺産を相続すれば一人当たり1/3。同じことが次の世代で起きれば1/9。 そうやって資産が細分化してしまうと大規模な生産のメリットが無くなるので、農家に限らず武士や商人も資産は長男のみへ相続したそうです。 なら次男以降はどうしたか? 家柄の良い武士の家だと親戚で子の無い武士の家に、それが無ければ安定した生活をしている商家で子の無いところに養子として入るというのが一般的だったとか。 その際、つまり武士の次男・三男が商家に養子として入ると、身分は商人となります。 左衛門は確かに受領名の一種のようなので元々武家の出だったと考えられますが、それと元々の家が武家だったかどうかは別に考えた方が良さそうです。 受領名 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%97%E9%A0%98%E5%90%8D 高橋源七氏にこういった受領名があったかどうか、ですね。