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元寇(蒙古襲来)

下記のことを教えて下さい。あるいは、あなたのお考えを教えて下さい。 (1)2回の襲来を「文永の役」、「弘安の役」と呼ばれていますが、何故「戦い」ではなく「役」なのでしょうか?「防衛の役目」というような意味合いがあったのでしょうか? (2)「文永の役」、「弘安の役」という表現はいつから使われ出したのですか?当時から、このような表現だったのですか? (3)当時の武士は、元寇をどのように認識していたのでしょうか?勝利の恩賞として、「土地」が得られるとは思ってなかったでしょうが?

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回答No.1

鎌倉幕府の成立は、武家が初めて施政権を握った革命でした。 当時、地方の実力者は、朝廷や貴族から寄託され、荘園の管理に当たっていた大・小名でした。 これら地方豪族化した武士階級は、自分の支配地の完全掌握と、幕府による支配権の公認に「一所懸命」でした。 幕府からの命令で役務を課せられる、中でも恩賞が与えられるのは、戦場で手柄を立てることでした。 上位の支配者から課せられる「戦役」から、後に戦争状態そのものを「役」と呼ぶようになったかと思われます。 朝廷または幕藩支配体制の存亡に関わる戦闘行動には「役」が、支配体制内部の権力闘争や地方での反乱には「乱」の称呼が与えられたかと思われますが、明瞭な線引きは出来ないようです。 元寇は国そのものの存亡に関わることですから、それまでの「戦乱」とは、明らかに性格が異なり、支配体制を揺るがす事件でした。 「文永・弘安の役」は、鎌倉時代末頃には既に使われていたかと思います。 当時の地方武士は、自己の支配地を安堵して貰うことに命を賭けていました。領地安堵こそが、最大の恩賞でした。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 azuki-7 さんのご回答にも、「区分が難しい」とありましたし、。 kantansi さんのご回答にも、蒙古合戦、文永合戦、弘安合戦と使われていたようです。いずれにしても、明瞭な線引きは出来ないようですが、「役」の微妙な意味合いが分かりました。 「領地安堵こそが、最大の恩賞」ということは、当時、「土地を巡る争い」というのが多かったということですね。恩賞としては、「新たな土地」だけではないということですね。しかし、「土地を巡る争い」の仲裁というのは、むしろ戦よりも難しかったのではないでしょうか。(*^_^*)

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  • kantansi
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回答No.4

(1)「役」は、明治前期よりも以前の他国との戦争や辺境(周縁地域)での戦争に対して使われます (2)「文永の役」「弘安の役」と言うのはいつごろから使われだしたかわかりませんが、後世になってからのようです。 元寇については、鎌倉・室町時代の日本の文献中では、蒙古襲来、異賊襲来、蒙古合戦、異國合戦などと表記されており、文永の役、弘安の役については、それぞれ文永合戦、弘安合戦と表記されています。 (3) の質問の意味はよくわかりませんが、武士たちは当然恩賞を期待していました。 文永の役で日本側が勝利したとは言え、物質的に得たものは無く、わずかな恩賞は御家人たちを不満にしたとされています。なかには、竹崎季長のように鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得ている武士もいます。  弘安の役でも、武士に対して十分な恩賞給与がなされず、九州北部周辺へ動員された異国警固番役も鎌倉時代末期まで継続されたため、戦費で窮迫した武士たちは借金に苦しむようになりました。 それに対して、幕府は徳政令を発布して武士の困窮に対応しようとしましたが、武士の不満は解消されませんでした。 そして、武士(御家人階層)の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、御家人らの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが次々と登場するようになりました。これらの動きはやがて大きな流れとなり、最終的には鎌倉幕府滅亡の遠因の一つとなったのです。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 戦に「役」という言葉が使われていたし、蒙古合戦、文永合戦、弘安合戦とも使われていたのですね。 (3)については、意味が分かりづらく申し訳ありません。m(_ _)m戦いの恩賞として、「土地」というのは重要なものだと、私は認識していました。しかし、蒙古襲来では、「新たな土地」という恩賞は期待できません。そのことは理解していたと考えます。それでも戦わなければならなかった当時の人は何を考えながら、何を期待しながら戦いに参加したのだろうか?ということに関心がありました。

  • titelist1
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回答No.3

執権北条時宗は恩賞には苦労したのです。蒙古軍の再来に備えて、恩賞を与えて士気を鼓舞す必要がありました。120人の御家人に自分の所領を裂いて恩賞を与えています。 また、興味深いのは「異国征伐」の準備を命じています。その準備のできない者には防塁の建設を命じています。すなわち、勝利の恩賞は異国に領地を与えると言っているのです。異国はどこなのかの記述は残っていないが、蒙古軍の主力軍が高麗軍であったことから朝鮮半島であったのでしょう。秀吉の朝鮮征伐に似た発想ですが、口先だけとは言え、国内にはもはや分け与える土地は無かったのです。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「120人の御家人に自分の所領を裂いて恩賞を与えています。」……時宗の人物像を知る上で大変興味深いですね。ついつい現在の政治家と比べたくなります。(*^_^*) 「国内にはもはや分け与える土地は無かったのです。」……私もそう思います。もっとも、いつの時代も同じでしょうが。 大変参考になりました。

回答No.2

秀吉の朝鮮出兵も「役」だから防衛の役目という意味ではないと思います 戦い 乱 変 役など色々ありますよね 区分が難しいです 2に関しては当時は「蒙古襲来」と呼んでいたようです 文永の役 弘安の役は後世に付けられた呼び名でしょう

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 実は、質問し忘れたのですが、他に「役」が使われている例を知りたかったのですが、「戦い」、「乱」、「変」、「役」などいろいろあって、区分が難しいとのこと、参考になりました。

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