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蒙古襲来
大河ドラマはみてないのですが、 「元寇」は最初優位に戦いを進めていた蒙古郡が、「神風」にあって海に沈んだと言われています。 ところで、疑問なのですが、本来の蒙古軍団なら、戦闘の後、船に戻らず、テントを張っていると思うのですが・・・。
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元寇は前半の「文永の役」と後半の「弘安の役」の2回に分かれていますが、 船に戻ったとあるのは、「文永の役」の方ですね。 No.2では意図的に船に引き上げたという趣旨の意見かと思いますが、 先月のNHK番組「その時 歴史が動いた」でも、文永の役では威嚇が 目的であり、最初の戦闘に元軍が勝った後、威嚇の目的を果たしたので 予定どうりに引き上げ、帰る途中で暴風雨にあったという見解を述べて いました。 弘安の役は、威嚇ではなく本格的な戦争です。 迎え撃つ日本側も、石累を築いて水際で防衛する作戦を取り、高麗から 来た部隊は、博多湾に上陸することができませんでした。 そこで中国からやって来る部隊と平戸付近で合流するわけですが、 季節はまさに台風シーズン。そこに暴風雨が直撃して、海の藻屑と化し てしまったわけです。 しかし元軍とは言えども、大半は元南宋の軍隊であったり高麗の軍隊で あったりするわけです。直接は日本と関わりないのに、無理やり異国の 遠征に駆り出され、負けて死んでしまったわけですから、かなりの同情 を覚えます。 参考URLで、元寇について詳しい説明があります。
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- kawakawa
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神風によって云々‥ということが一般的に言われていますが、当時の日本守備隊は非常に目覚しい活躍をしています。その結果、蒙古軍は弓矢などの消耗が多すぎて、結局は補給が続かずに負けてしまったというものですネ。 兵站の確保ができておらず、追加の補給も間に合わなかったというのが日本の勝因です。 当初優位に戦を進めたのは、鉄砲(てつはう)などの兵器の威力が大きかったためなのですが、地形の違いや兵の練度の違いから守備隊が巻き返しています。 占領地には野営をしていたようですが、日本守備隊は日夜連続で攻撃を続けていましたので、野営地は休まるところではなかったでしょうネ。 予備兵力の確保と兵站の確保という基本を守らなかった蒙古軍は負けるべくして負けたといえるでしょう。 また、蒙古軍の兵力は当時、元にとって邪魔であった朝鮮半島の成人男性をかき集めて作った兵力であったことも事実ですネ。 以上kawakawaでした
- myeyesonly
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こんにちは。 上陸軍が海岸線で野営陣を敷くのは、洋の東西、いつの戦いにおいても非常に危険なことです。 理由は、 1)軍勢が多いほど海岸線と平行に横に長い陣地になりやすく、夜襲などで突撃されると軍団が分断されてしまう。 2)情勢が不利な時、撤退する手段が船しかなく、迅速、効率的な撤退ができない・・・有名な「背水の陣」というやつで、もっとも避けなければいけない陣形として孫子だったかな?の兵法書でも述べられています。 3)隠れるところが全くなく、相手からは丸見えになる。 ですから、どんなに陸地の戦になれていても有能な将軍であるほど、ある程度進行できないうちに海岸で野営することはしないでしょう。 すでに述べられている通り、2回目の元寇では長~い石垣が築かれていたのですから、実際それは無理だったでしょう。
- searchingboy
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1.草原での戦いとは異なり,海上からの攻めではモンゴルは馴れていないと思います. 2.かって知らない土地での戦闘では 地理に詳しくないと不利ですから,いつ敵に夜襲を掛けられるかもしれません.防備上を船の方が少ない人数で見張りができます. つい最近のイタリアのG8で船でテロからの攻撃を防ぐ方法を取りましたね.ソレと同じですね. 3.船に乗っていたのは,高麗の人達がおもでしょうね.それと、中国の南宋の人も駆り出されていたので,あまり戦意がなかったように思います. 【神風】だけではない様です.
- m_chappy
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2回目の方ですよね? 1回目の方は、神風があったかどうかも疑わしい(無かったとする説が有力なように見える)ようなので。 上陸に関してですが、モンゴルにとっても海を渡っての侵攻(敢えて侵略とは言わない)は、経験が無かったのでは? つまり”本来の蒙古軍団”は分からないと思います。 次に、戦略的見地から考えてみると、私は素人なんでよくわかりませんが、ただ、一旦上陸したのに船に引き揚げるのは、確かに不自然ですよね。城門を突破した城の外に野営するようなもんですよね。 あくまでの推論ですが(類似した推論も多いと思う)、モンゴルは日本を蹂躪して占領しようと考えてなかった、ってのはどうでしょう。朝貢させるのが目的なら、自ずと後ろ向きな戦略を取るような気がします。他の方の回答にもあるように、モンゴル軍の本体が侵攻して来たのでもない様子。これらの相乗効果で、帰還命令を待ちならが、一旦命令がでたら直ちに帰還できるような戦略を取ったのではないでしょうか。 どんなもんでしょう?
- Eivis
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ドラマは私も見ていませんが、九州玄海灘の海岸には今でも日本軍の[水城:ミズキ]という石を積んだ石塁が残っていますが、 夜間に蒙古軍は海岸に上陸したまま野営するのはリスクが多かったと思います。 それに司令官のほとんどは、蒙古でなく朝鮮人だったといいますから、蒙古風の設営はしなかったかも知れません!!
お礼
短時間のあいだに貴重なご回答ありがとうございました。まとめてお礼させていただきます。 「陸上より海上のほうが安全」ということは、モンゴル軍が大陸を制覇した経験からすると、ないように思います。サミットの警備は、海岸線も警備隊がおさえたうえでの海上警備ですが、木造船の時代に「火矢」でもうちこまれたらいちころです。海岸を敵に渡して海上に去る、というのは、確保した陣地を放棄することになり、これでは永久に侵攻できません。 始めから威嚇して帰るつもりだった、ということであれば、当然、補給の必要がないので、てつはうが切れたらおしまいですね。軍隊自体が使い捨てというかんじですかね。 2回目のときは、防備も充実して、有利に戦えたわけですね。ただ、防備のために出費がかさんだ鎌倉幕府の力が失われたわけですから、単に、鎌倉幕府いじめのためなら、「攻めるぞ、攻めるぞ」とみせて何もしないのが一番だったかもしれません。(野球で、走るそぶりでピッチャーをけん制して、打者に集中できずに四球で自滅、というのはときどきあります) ところで、「神風」の話はあとから作られたのでしょうか?まったくのフィクションでなくても、針小棒大で。動員された武将の手柄より、「神風」のおかげだといったほうが、幕府にとって都合がいい、とか。