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いざ鎌倉・蒙古襲来!
蒙古襲来の際に、各地の武士(御家人?)が九州の大宰府に集結しに向かったそうです。集結した武士の中で一番遠方から来たのは、どの辺在住の武士でしょうか? 「ウチの地元の○○県からも、集結した逸話があります」みたいな情報でもOKです。
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ネットで検索したら、弘安の役の時の対馬の防衛に関して以下の文が見つかりました。 >弘安の役では、事前に派遣されていた「武幹の士」が島民と共に粘り強く戦っている。出身地も広範囲で、陸奥・出羽(東北地方)、上野(群馬県)、下野(栃木県)、信濃(長野県)、三河・尾張(愛知県)、遠江(静岡県)、近江(滋賀県)、丹波(京都府)、備前(岡山県)、筑前(福岡県)、日向(宮崎県)、肥前(佐賀・長崎県)、豊後(大分県)と、日本全土に及んでいる(『対馬島誌』)。 私は、「対馬島誌」と言うのを確認した訳ではないので、自信は無いのですが…。 ただ、九州・中国・四国の沿岸地域の御家人は、蒙古軍の上陸に備え自身の土地から離れる事が出来ず、結果として東日本の御家人が九州の防衛の為に送り込まれたと言う話を聞いた事が有ります。 また、九州で戦っていた部隊以外にも、後詰として近畿や中国地方にいた部隊や襲来の一報を受け西進した部隊を含めると、かなりの規模が動いた筈です…。
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- fumkum
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おはようございます。 参考までですが、鎌倉幕府は文永の役(文永11年-1274年)3年前の文永8年-1271年に、鎮西に所領を持つ東国御家人に、西国の所領への移住を命じています。下総の千葉氏も肥後の所領に移住しています(時期については各説あり)。東国御家人の西国移住については、蒙古襲来以前から北条氏との抗争に敗れて移住したとの説や、襲来を契機としたとの説などあり確定しませんが、この文永8年の命令の実行率が低かったことは確かですが、文永の役後、再度の襲来に備え、移住の強制力や、警護番への参加等もあり、一族を挙げてでなくとも、一族の一部が移住したことは多かったと思います。それらの移住組みを各地からの武士と見るのかによって考え方を違ってくると思います。 以上、参考まで。
お礼
>西国の所領への移住を命じています。 駆けつけただけでなく、移住もあったのですね~! 移住を命じられた上に、文永&弘安の役の恩賞が十分にされなかったら、御家人達が借金苦になったのもよく分かります。 都落ちした平家や、戦国の頃の領地変え以外にも、様々な理由・時代背景によって『武士の移住』があっていたのですね…。とても、参考になりました。 ご回答、ありがとうございました!
- hukuponlog
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一番遠いかどうかは知りませんが、相模(神奈川県)からも出陣しています。豊後の大友氏といえば戦国大名としても有名ですが、大友一族の元々の本貫(領地)は相模国足柄群大友郷です。これは、今で言うと神奈川県小田原市で、今でも小田原には「大友」(西大友、東大友)という地名が残っています。ちょうど小田原球場の周辺です。 元寇の当時の当主大友頼康が鎮西将軍に任ぜられて九州に赴任、二度の元寇を戦った後、九州に土着したのが豊後大友氏の始まりだそうです。
お礼
神奈川県からも出陣していたのですね!九州・中国・四国くらいかな…と思っていたので、驚きました。 「筑後川に、縄で繋いだ船で浮き橋を造り、鹿児島からも駆けつけた武士も渡った」という話を聞いたので、気になって質問させて戴いた次第です。 豊後大友氏の始まりも、興味深かったですw ご回答、ありがとうございました!
お礼
調べて下さって、ありがとうございますw 東北からも駆けつけていたとは!本当に、日本各地から集結していたのですね~! >かなりの規模が動いた筈です…。 学校の授業では(かなり昔の話ですが…)、「元寇が、台風シーズンと重なって、日本はラッキーだった」みたいな扱いで習った記憶があります。でも実際は、天候に恵まれただけでなく、日本の軍事力も優れていたのでしょうね。『かなりの規模』があれば、防塁・夜討ちetcの奇襲作戦が行えたのも、納得できます。 ご回答、ありがとうございました!