• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:古代~中世の開祖を奉じる利益集団系統について)

古代~中世の開祖を奉じる利益集団系統について

このQ&Aのポイント
  • 古代~中世において、役小角を奉じる利益集団は修験道者だけでなく、産鉄集団や山師集団、諏訪神社を祀る集団など多様な顔を持っていた。
  • 役小角を奉じる集団の中には、不動明王を祀る集団や氷川神社とセットで祀る集団、妙見さんや弁財天さんを祀る集団など、さまざまな系統が存在した。
  • 役小角や賀茂氏の利益集団は、各地で寺院を開きながら鉱山との関わりもあり、鉱山の周辺で活動していたという特徴がある。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#224207
noname#224207
回答No.3

No.1.2です。 役小角と採鉱集団との関係について下記のようなサイトをみつけました。 中央構造線(1)南朝と修験者 - 豊橋市図書館 www.library.toyohashi.aichi.jp/oshirase/sonota/H21.kin-oni.k... 三輪山、葛城山が聖域とされるのは何故か?この地の水銀=辰砂が大和 ... www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202862 上記サイトの見解に従えば、地学的には辰砂(朱、丹)と中央構造線との関係て説明がつくのではないのかと思います。 地学と鉱石に関する知見が乏しいので申し訳ありませんが、辰砂を採集できる地層というのは他の金属資源の採集も可能なのではありませんでしょうか。 そもそも川というのは断層帯に形成されるものではないのでしょうか。 単に地表の凹凸に従って流れたものが時間経過だけで渓谷を形成するとうのは、よほど柔らかくて水流で切削され易い地質でない限り、地質学的な時間変化と比較した場合無理があるのではありませんでしょうか。 日本列島は火山帯が数多くあり、同時に大陸プレート上にあることから地層の変形というのは地質学的な時間感覚からすれば頻繁に生じているのではないのでしょうか。 考古学や歴史学の時間巾でも地層の変形や海面の上昇や下降の影響を受けます。 断層が多少なりとも動けば地下水脈は簡単に変わり地上へ湧水するようなことが起きるのは自然ではないのでしょうか。 採鉱跡地を巡られておられるとのことですが、傾斜地や窪地の周辺の断層帯との関係は如何でしょうか。 役小角と修験道との関係は歴史学的には相当に無理があるのではないのかと考えています。 役小角なる人物に関しての文献史料は皆無に近く、全て伝承を取りまとめた文献のみです。 実在した人物か伝承上の人物かについては、後者の見方が主流です。 最近は聖徳太子も伝承上の人物ではないか、と提唱されていますので、歴史学的には珍しいことではありません。 そもそも、役小角なる人物がいたとされるのが7世紀です。 一方修験道といいますのは、密教教義を基盤としています。 密教が日本に渡来したのは9世紀初頭です。 神仏習合すなわち本地垂迹説が現れるのは11世紀です。 山岳信仰と密教思想が結びついた修験道は10世紀~11世紀にかけて成立発展したと考えられます。 役小角と弁財天との関係などは本地垂迹説抜きには考えられない伝承です。 文献史料を離れて精神史的な見方をすれば、修験道が始祖を役小角としたことは充分にうなずけます。 役小角のイメージというのは道教の神仙思想と重なります。 神仙思想では、山岳居住と不老長寿がメインテーマです。 辰砂は不老長寿の妙薬として知られています。 現在の漢方薬の処方の中にも含まれています。 これらのことを総合すれば、山岳を巡回していた修験道者が辰砂に関わりを持ち、採鉱集団とも関わり合いがあったことは充分納得できます。 金屋子神信仰における遺骸の取り扱いについては、伊勢神道や仏教思想にたいするアンチテーゼではないかと考えています。 伊勢神道では記紀にも記載があります通り黄泉国は地下にあります。 仏教思想の地獄も地下にあります。 採鉱はこの地下へ積極的に侵出していく作業です。 伊勢神道信者や仏教徒からすれば、死者の世界に通じる人ということになってしまいます。 これでは採鉱の後継者育成などは無理です。 独自の死生観、宗教観が必要になります。 その結果として生まれた信仰ではないかと考えています。 高野山や比叡山からは密教の傍系あるいは外道とされた修験道と心情的に結びつくのはごく自然な思考かと思います。

Ligandable
質問者

お礼

 遅くなって済みません。 土日に向け騒いでおりました。  水銀の情報ありがとうございます。 スカルンは遠いのですが、5Km離れた 同じ向斜谷(地溝帯?)に銅山を見つけました。 >傾斜地や窪地の周辺の断層帯との関係は  現地の地表部は15000年~7500年前の中新世の深い海に形成された海成層で、 火山灰を母岩とする、容易にベントナイト化する泥岩と、その風化物だらけで あちこち地滑りです。そこを割って出てくるところには出てくるのですが、鉱液 を受け止めてスカルン化する石灰質が見られません。アカサビゴケが崖を占める 所もあるのですが、鉱脈として成立するには難しいようです。 水銀があるとす れば、芋辰砂となるかもしれません。  しかし、神仙思想 説得力があります。山形県天童市の水晶山は祭神が役小角で 公式にはありませんが、辰砂を得たとの記述があったはずです。  同じく山形県尾花沢市丹生川周辺の御所神社(群)も、祭神は役小角で、近くの 丹生川は東北有数の水銀鉱山だったそうです。    金屋子のご指摘ありがとうございました。アンチテーゼについても、もう少し 考えてみます

Ligandable
質問者

補足

 大変ありがとうございました。  昨日現地に行って参りました。宗教的なものでは愛宕神社や芭蕉の句の祠を 見た位でしたが、地滑りの方は良いデータがとれました。  またよろしくご教示ください

その他の回答 (2)

noname#224207
noname#224207
回答No.2

No.1です わざわざお礼を記入頂き有難うございます 質問のご趣旨が良く分かりました。 お礼の中に 「地質的には面白いのですが、なぜ地滑りだらけのここに人々の基盤があるか、不思議になりました。 単に霊場だったからかもしれませんが、不動さんや妙見さん、金屋子さんだと、何となく近くに「あーこれだ」が見つかるので、よろしくお願いします」 とありますので、推測も加えて説明をさせて下さい。 古い採鉱地の周辺に特徴のある神社がある、とのことですが、おそらく産鉄出雲系と呼ばれる神社ではないかと思われます。 氷川神社の祭神を須佐之男尊とされておられますが、一般にこの他に大己貴命すなわち大国主命も祀られています。 神社名の氷川も出雲の簸川(ひかわ、現:斐伊川)に由来するとされています。 諏訪神社の祭神である建御名方神(たけみなかたのかみ)は大国主命の御子とされています。 弁財天は仏教においては、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)と同一視されることがあります。 妙見信仰と呼ばれる信仰は密教やその系譜である修験道で大切にされていますが、世俗では眼病に霊験のある神としても信仰されています。 火焔を扱う製錬では目を傷めることが多かったのと、煙や炎の色で管理していて目視能力は不可欠だったことにもよるのではないのでしょうか。 妙見はアメノミカヌシとされていますが、記紀神話にいは登場しない不思議な神です。 おそらく伊勢神道から外れる出雲系の神だったのではないのでしょうか。 金屋子は金山彦・金山媛や天目一箇神と同様に製鉄の神そのものです。 以上のような点から採鉱製鉄に携わる人々が祀っていたのは、いずれも砂鉄の産地である出雲の系譜を引いているのではないのかと思われます。 不動明王は常に火焔を背負って描かれます。 製錬の火焔との連想はごく自然ではなにでしょうか。 新しい鉱脈を発見するのには露頭を見つける以外に方法は無かったのではないのでしょうか。 人里離れた山岳地帯を巡り歩く必要があります。 山岳地帯を修行と信仰の場としていた修験道者がもたらす情報は極めて貴重なものだったでしょう。 この修験道者が妙見菩薩を極めて重要視していました 傾斜地に集落後があるというのは、むしろ地質学の方からある程度の説明はつくのではないのでしょうか。 古代の採鉱の鉱脈というのはスカルン鉱床と呼ばれる地質のところではありませんでしょうか。 地面を垂直に掘るよりは、傾斜地を横から掘るほうが簡便ではないのでしょうか。 鉱脈の露頭も見つけやすいのではないのでしょうか。 製錬に当たりふいご(たたら)が開発されるまでは風が吹き込みやすい傾斜地に炉を設けたのではないのでしょうか。 古代の採鉱 製錬技術等につきましては下記に詳しく記載されています。 長登銅山 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/長登銅山 農耕地の村落とは離れた場所にあるのは幾つかの要因が考えられます。 現在見られるような村落の様式というのは室町時代に発生して江戸時代に完成した生活様式です。 稲作や稲作に必要な水を確保するための灌漑や河川の管理(堤防工事等)には、人力だけが頼りですから常に共同作業が必要不可欠でした。 広い面積の田に均一な水深で水を供給したり管理するというのは個人が勝手にはやれません。 常に村落全員の協力が必要です。 この為に極めて早い時代から村落を統治する自治組織を保有していました。 同時に村落に定住しない人間や農耕に寄与しない人間は常に排除の対象とされました。 採鉱や製錬のような仕事に従事する人々は農耕を主体とする村落に居住することは極めて困難であったことをご理解願います。 採鉱技術というのは極めて高度で特殊な技能を要します。 つまり特殊技能集団として採鉱地の近隣に集団で居住し、彼ら独自の神を祀っていたというのはある意味で極めて自然な姿だったのではないのでしょうか。 鉱物資源は支配者にとっては必要不可欠な物です。 農耕をしなくても衣食住が確保できるように、全て外部から運び込まれていたと考えられます。 製錬された鉱物資源は相当な重量物であると同時に貴重なものですから、搬出して支配者の元へ届ける運輸流通に携わっていた人もいたのではないのでしょうか。 すべてが支配者層の庇護の元にあったと考えられます。 採鉱集団を特別視するのはあくまでも農民の価値観です。 採掘した土の排除や湧水の汲み出しなどの単純で過酷な労働に犯罪者などが従事させられたことが蔑視の原因になっていたかと思います。

Ligandable
質問者

お礼

 ichikawaseiji様、何度もご丁寧にありがとうございます。  役小角により特定される内容が得られないことは残念でしたが、限定しすぎなどを ご指摘いただき感謝します >氷川神社の祭神を須佐之男尊  さいたま大宮区の氷川さんや、飯能市あたりの氷川さん、茨城の諏訪鉱山、宮城県 気仙沼市本吉の大谷鉱山(今は神社ごと無い)と、鉱山を求めて徘徊したところは全て スサノオさんで、フライングしていました。 そうですね 建御名方さんのお父さんは 大己貴命さんでした。ありがとうございます。 >新しい鉱脈を発見するのには露頭を見つける以外に方法は  よく言われるのが遠目にも分かる「下枯れの相」鉱毒で山体下部の樹木が育たない ←銅や鉛山 と、 U字崖。カールではなく、岩質が垂直に近く切り立つ・言われて みると確かにそうなります←金山 です >古代の採鉱の鉱脈というのはスカルン鉱床  スカルンは銅以下の卑金属が主となります。金等貴金属はは結晶分化の働き http://www.jasdim.or.jp/gijutsu/ganseki/fujita/fujita.html 及び、熱水の働きとなります。後者の場合、硅石など石英脈に付随しやすくなります >傾斜地を横から掘る  地層を谷川が浸食するため、路頭を見つけやすくなる点はご指摘の通りですが、 地滑り地帯(つまり凹部)なので、それが通じないのです。いずれ、褶曲の凹部も 凸部も、地割れが多く、地下からの湧出を誘う可能性は高いのですが、それが何な のか、そちらの手がかりがないのです。  ちなみに金は当初風化集積帯に蓄積した- 崖下の窪地に溜まり、砂泥は水に 流され、重い金属のみが残った>金・白金・ウランで、 鷹の巣堀りの様に上から 掘ります すぐ尽きるので、先見衆は必須だったようです。 >風が吹き込みやすい傾斜地に炉を設けた  確かにそうです。ありがとうございます。そういえば、和銅の里で、鋳造に失敗 した枝銭や、変形コイン?などが里の下の谷から出てきたといった 地学の大先輩の 報告もありました。 でも、鉄3里・炭7里。材料が遠いと立地できません >村落に定住しない人間や農耕に寄与しない人間は常に排除の対象とされました。  はい、毒水問題が解決しないため、多くの人が潜っているとき、鉱口を落とした という地区もありました… >特殊技能集団として採鉱地の近隣に集団で居住し、彼ら独自の神を祀っていたというのはある意味で極めて自然な姿  はい ただ、その系統を小角さんで知りたいのです。尚、書き遅れましたが村内の神社 の祭神は稲荷さんです  また何かありましたら是非ご教示ください ありがとうございました。

noname#224207
noname#224207
回答No.1

ご質問の趣旨が今一つ掴めません。 「質問:役小角を奉じる集団は、修験道者であるほかに、どのような顔を持っていたでしょうか」 とありますが、修験道の開祖を役小角という人物だとしているだけです。 「修験道者であるほかに」とされておられますが、修験道者が何か修験道以外の事柄に従事されていたとお考えでしょうか。 「産鉄集団、山師集団・・・ 妙見さんはひたすら掘る集団でしょうか?」とありますが、それぞれ職業や技能には守護神がいるという考え方が主体です。 神仏のへの信仰と職業、技能に従事する人との関係はどのようにお考えになられておられるのでしょうか。 「本題。役小角 または賀茂氏の利益集団としての顔はどのような物でしょうか?」 農業であれ漁業であれ、生活手段としての職業や技能をどのように位置付けておられますのでしょうか。 畏れ入りますが「利益集団」という言葉のご趣旨を補足で再度御説明願います。 宗教に従事することを利益目的の行為とお考えになられておられるということはありませんでしょうか。 真に失礼ですが、医学や気象学、地学などの学問や技術が未発達な時代の価値観と現在の価値観とを混同されておられませんでしょうか。 尚、修験道者は自己の修行以外には下記のような社会的役割を果たしていました。 〇民間信仰の加持祈祷厄払いなどの萬の相談を請けて実施していました。 〇要望や必要に応じて観音経や阿弥陀経などのお経を唱えました。 〇病気平癒の呪いを行ったり施薬治療などをしました。 〇神楽舞など芸能を伝達指導していました。 〇求めに応じて文字を教えるなど子弟の教育を行っていました。 全国を行脚していましたので、情報の伝達者としての役割も果たしていました。 金銭の取得を目的として修行をしていたのではなく、修行の結果得た知識や技能を提供していました。

Ligandable
質問者

お礼

 ご回答ありがとうございます。  また、返事が遅れて、加えて主旨の通りにくい表現ですみません。  興味は地学からの物です。(自然放射線の分布への興味から) 昔の鉱山跡を回る内、 宗教的遺物が付随することが多く、加えて(役小角さんを数に入れていなかったのですが、 3系統にまとまるような気がしていました。  特に産鉄という手順の試行錯誤を常とした、時に屍体を背負って踏鞴のまわりを回る など脇道にそれることはあったとは言え(青銅器へのリン供給?の誤解釈?)、全体に 知識レベルの深い集団が、加持祈祷施薬などを担い、同時に鉱脈や製錬のための炭が 尽きやすいことから先見衆を送るなど、 鉱産物を利益の中心として繋がった集団が いたといった感覚を持っています。  現在、向斜軸上の陥没と地滑りだらけの山の中の集落付近をみています。  地質的には面白いのですが、なぜ地滑りだらけのここに人々の基盤があるか、不思議 になりました。 単に霊場だったからかもしれませんが、不動さんや妙見さん、金屋子 さんだと、何となく近くに「あーこれだ」が見つかるので、よろしくお願いします >学や気象学、地学などの学問や技術が未発達な時代の価値観と現在の価値観とを混同  十分あると思います。 ただ、長年にわたり利益無しに人が動くことはないと つたない感覚を持っています

関連するQ&A