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信長の居城変遷

織田信長は版図を拡げる毎に居城を中心部で交通の要綱に移してますが、最初から貰っていた那古野や尾張の府清洲は別として、自ら城下町整備に携わった小牧山以降の岐阜、安土に関しては山城が好みですね。信長は京都に住もうとしなかったし、もし本能寺の横死がなかったとしたら全国統一の主の居城としてよく巷で言われている大坂(平城)を選定したと思いますか?

みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11216/34842)
回答No.4

信長は経済の中心地(交通の十字路)を好んで居城に選びました。経済の中心地で交通の要衝にあたるところは、情報も素早く集まるところです。情報の重要性を現代人以上に理解していた信長はそういう場所を重視したでしょうね。 また、そうはいいながら新しい街を好む傾向もありました。既得権益が出来上がっている既存の街より、新興都市のほうが自分の望み通りに開発できるからでしょうね。彼が京都を嫌った(居場所としなかった)のも、既得権益の塊でなにか新しいことをやろうとすると必ず旧勢力の反発を招いたからでしょう。 そう考えると、淀川交通路と瀬戸内海交通路の交差点にあたり大規模な城も都市も築ける大阪はうってつけの場所だったでしょうね。現に大阪は戦前までは日本一の商業都市でしたからね。 もし天下統一を果たしたら、東アジア全体の経済圏ということを考えて博多に注目したかもしれないですね。

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回答No.3

信長が安土城を建てたのは本願寺への威嚇と言うのも理由のひとつ いずれ本願寺を滅ぼしたら石山(大坂)へ移城するつもりだったようです その証拠に安土城は秀吉の金の茶室のように解体して持ち運ぶ事が可能だったつくりである事が最近判明しています これは恐らく 後々石山本願寺跡への安土城の移築を考えていた証拠と思われます

sindengen9
質問者

お礼

どうも有り難う。 ご指摘の安土城解体可の事実は知りませんでした。

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  • titelist1
  • ベストアンサー率25% (712/2750)
回答No.2

安土は今では山城のようですが、北面は琵琶湖に面していたのです。陸と湖の要所を押さえる位置にあったのです。京都に入ると室町幕府のようになってしまうと考えていたでしょう。 信長はいずれは海外に出て行くことを考えていたので、大阪城を建てたでしょう。秀吉はそのことを知っていたので迷わず大阪城を建てたのです。

sindengen9
質問者

お礼

どうも有り難う。 信長の建てた大坂城、見てみたいものです。

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回答No.1

>選定したと思いますか? 秀吉の行動様式が信長のそれを模した。 というのはよく言われる話ですし、 当時から石山本願寺が近畿の要衝であったことは よくわかっいたでしょうから、 (石山本願寺のみ退去で許すといっていたような ところからも類推できると思います) まず、間違いなく大阪城の地に本拠地を移していたと思います。

sindengen9
質問者

お礼

どうも有り難う。 信長は山から下りないのかなあ、と勝手に思ってました。 なので大坂は堺と同じく直轄領として代官を置き、自身は山崎か飯盛山あたりに築城したのではと思ってました。

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