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織田信長の宗教観の変遷とその分析

初期の信長は対今川戦において熱田神宮に詣で神助を祈願しています。 しかしそれ以後延暦寺、石山本願寺、一向宗徒との戦いでは宗教人の殲滅を目的のように徹底した行動をとっています。 ところが安土築城の頃は自らを神格化する所までに至りました。  しかもヤソ教には寛大な保護政策を採っています。 時代の流れに伴う戦略的な考えの変化は理解できるのですが、彼の宗教観の変化の原因、精神分析はどう理解すればよいのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • charpon
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回答No.2

基本的に織田信長の宗教観に大きな変化は無かったのではないでしょうか。 信長自身は、禅宗でありますが、確かに無神論者といわれるようなところがあります。というのは、政治権力を宗教勢力の上に置いたことです。 浄土宗、日蓮(にちれん)宗の宗論を安土城で行わせ、日蓮宗を非としたことは、日蓮宗の安土城下や京・堺で折伏主義を唱える法華宗が町衆社会に大きな勢力を持ち、これらを屈服させることが、信長の都市政策を大きく推進させる契機となりました。 比叡山延暦寺や槇尾寺焼討ち、高野聖斬殺、一向一揆の徹底的弾圧など、自らの政治権力に抵抗する者には容赦しなかったわけです。 キリスト教については、ヨーロッパ文化への興味と一向一揆との対抗のために保護を加え、安土にセミナリオ、京都に南蛮寺の建設を認めています。日本既存の宗教勢力への牽制政策と考える方がよいでしょう。 彼の神格化とは、そう見寺の神体として自身の代わりに「盆山」と呼ばれる石を堂内に置いたということを指していると思います。しかし、この記述は、ルイス・フロイスが書いた「日本史」だけなのです。「信長公記」などには、そのような記述はありません。フロイスの記録は、僧侶や寺社に対して敵意に満ちた記述をするなど、宗教にかかわる部分については誤解や偏見が多々見られ、現在、この神格化の通説は否定されています。ちなみに、そう見寺の本尊は木造十一面観世音像です。 http://osaka.yomiuri.co.jp/azuchi/ca990423.htm 初期信長は、まだ家中においても権力を確立できていない時代でもあります。保守的な家臣や兵達もいますので、当時の風習に則り、尾張の地元の神社に詣でるのは、当然といえるでしょう。 つまり、信長は常に織田政権の権力下に宗教勢力を置くという態度が一貫しているのです。安土城の建造など、寺社に付属する番匠や大工などの職人も多く利用しているところなどから、宗教を政治に利用し、そう見寺の安土城域の建立などからも無神論者であっても、宗教を否定はしてはいなかったのではないでしょうか。 精神分析については難しいですが、基本的には政治権力者としての考えを優先したと考える方が、無難ではないでしょうか。

ss79
質問者

お礼

懇切なご回答有り難うございます。 信長は徹底した合理主義者だったので、宗教的に無宗教に転向していたのではと疑ったのです。 一級史料である「信長公記」に記述がないとすると確かに疑わしいですね。 フロイスの記述に偏見があるとのご指摘は大変参考になりました。 信長の神格化は、重臣達が後年大身になつてきて保身や忠誠心の退化を恐れて対策として打ち出した事は十分考えられると思ったのですが・・・ 神格化の否定はどのようにされたのでしょうか?

その他の回答 (3)

  • charpon
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回答No.4

#2の回答者です。 >神格化の否定はどのようにされたのでしょうか? 謝らなくてはなりません。あまりに断定的すぎましたね。 この件に関しては、諸説ありますが、朝廷との関係を考慮に入れないわけにはいきません。 これは正親町天皇譲位問題や三職推任など朝廷権力と織田政権との諸問題があります。 従来、信長が天皇権力を超越する権力を欲していたとして、天皇制を廃止など朝廷との対立が取りざたされていたようです。 しかし、信長は通常官職名を名乗り、旧秩序の枠組みである官位体系の中に自らを位置付けています。長子信忠の官位にも興味を持ち、出世を喜んでいたようです。 また、安土城には天皇の行幸を迎えるための建物もあったことが明らかになっております。 そして、信長は天皇を利用し、朝廷も経済的に信長を利用する協力体制を築いていました。 信長の神格化は天皇との問題が発生するので、生前に信長自身が、神格化を図るのは考えにくいということです。 というのは、秀吉・家康の神格化も死後、朝廷による神号が贈られて、神格化されているのです。 フロイスの「日本史」の記述をどのように位置付けるかが、一番の大問題となるのは勿論ですが… 信長の天下統一後の朝廷とのあり方については、結局生前の信長と朝廷との関係から想像する他ないので、朝廷との友好関係を考えれば、神格化の否定は妥当な考えかといえるのではないでしょうか。 もちろん、朝廷との関係について裏向きは、対立関係があったと考えると、全く別の論理も成り立つと思います。 >信長の神格化は、重臣達が後年大身になつてきて保身や忠誠心の退化を恐れて対策として打ち出した事は十分考えられると思ったのですが・・・ 考えられなくもありませんが、天皇との問題と織田政権の構造分析を進めないとなんとも言えないと思います。

ss79
質問者

お礼

重ねてのご回答有り難うございます。 信長は嘗て足利義昭が感謝を表現するため官位の昇任を図った時これを断っています。 官位の権威主義を嫌ったと思ったのですが、後にはお説のように朝廷を積極的に利用し、本願寺との停戦にも成功しました。 いわゆる蜜月時代を演出して安土にも行幸の間を準備していますが真に朝廷を尊崇したとは考えられないのです。 腹の中では否定して、利用できる間は利用する考えで居たのではと思います。 彼は既成の権威を破壊してきたのですから朝廷も例外ではないと見るのですが・・・ その証拠ともいえる本能寺の変の策謀に公卿の画策があったとする説もあります。 いずれにしても憶測の域を出ませんがこれが歴史の醍醐味ではないでしょうか・・・

  • rczd
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回答No.3

#2の方のご意見に賛成です。 1点補足します。 桶狭間の戦いの時に、信長は確かに熱田神宮に立ち寄りました。 >熱田神宮に詣で神助を祈願しています。 というのは、小瀬甫庵の記した「信長記」にのみあります。一度甫庵の「信長記」の熱田祈願の部分を読んでみて下さい。あまりの嘘臭い内容に辟易すること、間違いありません。熱田神宮にも祈願文は残っていません。 一方で太田牛一の「信長公記」をご覧になってみて下さい。確かに熱田に立ち寄っています。東を見て煙が立ち上っていることの記述はありますが、祈願を行ったという記述はありません。 ということで、若かりし頃も首尾一貫していたと考える方が妥当と考えます。

ss79
質問者

お礼

ご回答有り難うございました。

  • rey-aw
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回答No.1

当時、「箸が折れると死ぬ。」こう言う迷信がありました。 織田信長は、、単三電池以上の太さの箸を使っていました。 どうも、完全には、「迷信だ。」と、断言出来ていなかったようです。 もちろん、細かい事にまで逆をして死んでしまっても面白くはないでしょうから、 「念を入れておく」 この程度」だったかもしれません。 むしろ、自分の考える「仏道」があり、 武器を持って人を殺す「仏法僧」が 「仏の道を侮辱する大悪人」に映り、 反対を押し切って。 「やっちゃった」 と言うのはどうでしょうか?

ss79
質問者

お礼

ご回答有り難うございます。 箸の話は初めてうけたまわりました。 敵対するものには根絶やししてでもやり遂げるという哲学で武力による統一を急ぎすぎた嫌いはありますが・・・

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