• ベストアンサー

陳祗と費禕(諫言)

陳祗って劉禅に対して 「諫言を行わず、人材を推挙せず、宦官(黄皓)を用いた」   http://dic.nicovideo.jp/a/%E9%99%B3%E7%A5%97 (ニコニコ大百科) とあります。 それに対して、費禕は立場も違いますが、安定した時代ではありました。 費禕は遊び人で投降兵に刺されます。 姜維の軍事活動も自由で、と大変な時代になりますが、陳祗にすればその行動は適正だったんでしょうか? 縦を守って従順ともいえますが。組織の上下の秩序を維持できても、組織自体が崩壊していきます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9601)
回答No.1

pkuobe99さん、こんばんは。 実は蜀の命運は孔明の死とともにすでに定まってしまったのです。劉備の死後、孔明は政治・軍事を一手に握りました。 その影響力は蜀の皇帝ですら、かすんでしまうほどでした。これほどの権力を持ちフルに活用しなければ、魏に対抗することは不可能だったでしょう。 しかし、彼は病に倒れ、劉備の死後10年間で寿命が尽きてしまいます。しかし、彼の死後もその影響力はすごく、彼の作った規則がそのまま維持され、30年も命脈を維持することができました。 それは軍事をつかさどる姜維と内政をつかさどる文官(武官の職も兼任していましたが、)蒋琬、費禕、董允の関係でした。 この3人のいる間は姜維もコントロールされていました。 しかし、20年間で相次いで文官側が死亡し、後任の人材が払底したため、宦官(黄皓)の出世の道が開け、姜維をコントロールすることができなくなりました。 一説によると蜀は国力が小さく、そのうえ政権基盤が劉備の旗揚げ時代、徐州時代、荊州時代、そして益州閥の寄せ集めなので、人材が育たないうえ、多年の戦などで、大量の物資や兵士が戦死したりすることが多かったので、ほかの国に比べて疲弊気味だったと聞いています。陳祗にすればその行動は適正だったかはわかりませんが、彼自身は適正だったとしても 三国のうちで一番早く滅亡するのは国力のない蜀なのは自明の理です。

関連するQ&A