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陰間茶屋
陰間茶屋といえば、江戸時代の「可愛い男の子と楽しい一時を過ごす場所」ですが、 陰間茶屋がその名称として登場するのは江戸時代からなのでしょうか。 もしそうならば、 戦国時代、室町後期など、特に可愛い男の子を寵愛する男性が一般的に容認されていた頃には、 その類の店はなんと呼ばれていたのでしょうか。 室町時代にはまだお店として確立されていなかったのでしょうか。
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日本の「男色」に関係する歴史や文化は、専門に研究している人がおり、研究書もあるはずですが、わたしはそういう本は見たことがありません(西洋の「同性愛」の研究書、とりわけ古典ギリシアの少年愛( phaidophilia と言います)などは、幾らか参考書を見ていますが)。 日本の同性愛の歴史については、日本には、西欧にあったような、キリスト教・ユダヤ教的「禁忌」としての「同性愛の否定概念」が文化としてないため、ごく当然のこととして、古代より存在した為、特筆するような事件性や話題性がないため、記録が少ないのだとも言えます。 ---------------------------------------- ところで、質問の本題に戻ると、「陰間茶屋」というのは、江戸中期の「元禄文化」の産物で、これ自身が非常に特殊なものでした。 若い女性を集めて、これを娼婦として客に供する「娼館」は、平安時代には明らかにありましたし、奈良、飛鳥時代にもあったと考えられます。高級な「娼館」と下級の「娼館」があり、これ以外に、単独で売春行為で生計を立てる娼婦の存在も普通にありました。 単独で春をひさぐ少年・青年や、また親方の元で売春をさせられる少年・青年というものはいましたが、見目麗しい美少年を集めて、これを客に供応する、専門の「男娼館」というのは、多分、江戸時代の元禄文化において、初めて出現したのだと思えます。 それ以前には、専門の「男娼館」そのものがなかったので、「名称」もなかったと思われます。 「男娼館」ではないが、それに準じるものとしては、各地に巡業する芝居の一座などがありました。室町時代も無論そうですが、俳優となるのは大体美男子が基本で、役者になるための修行は、師匠の元への弟子入りで、しばしば、どこからか浚って来た少年などを、役者の弟子として育成しました。 当然、「見目麗しい少年」たちなので、芝居の上客が要求すると、男色の相手をするのが普通で、芝居の一座の経営のため、素質があって、将来、役者として育成している少年と、素質がなくとも、春を売るのに十分な美貌を持った少年と、この二種類を抱えていた芝居の一座は多かったのです。 このように、芝居の世界では、都に本拠を持つ高級な一座から、田舎の一座まで、役者は、修業時代も、一人前となってからも、客の男色の相手をするのが普通で、すべてがそうではありませんが、芝居の役者は、大体、「男娼」でもあったと言えます。 もう一つ、古代から、実質的に「男娼」に該当する役割をする少年等を抱えていた組織は、仏教の寺院がそうです。仏教寺院が抱えていた「稚児」と呼ばれる少年たちは、仏僧となる修行をしているとも言えますし、女色が原則禁止されている仏僧たちの少年愛の対象として、寺にいるとも言えます。 豊臣秀吉は、若い頃、ある寺院の稚児をしていましたが、それを伝え聞いたさる女が、いまは成人して一応の武士となっている秀吉に縁談を持ち込むが、秀吉と実際に会ってみて、こんな猿男は話にならないと、縁談が流れたという話もあります。「寺の稚児」をしていたからには、さぞハンサムな男なのだろうという前提があったということです。 ---------------------------------------- などなど色々な話があります。「陰間」という言葉も、元々、晴れの舞台で演技する一人前の役者に対し、蔭で雑用したり、師匠の演技を見習っている者を指した言葉で、別に、「色子・稚児」というような意味ではなかったのですが、すでに述べたように、役者は大体、美男と決まっていて、陰間は美少年と決まっているので、自然に、男色の相手の呼称になって行ったのです。 「陰間茶屋」にも、それほどランクの高くないものもありましたが、それでも元禄文化における、文化の精髄への憧れで成立しているもので、性欲を、青年や少年相手に処理する場所ではなかったのです。 対して、女性に対する性欲を処理する施設などは、上級から下級まで無数にあったと言えます。例えば、大抵の大きな宿場には、「飯盛り女」と呼ばれる、客が求めると下級売春婦として応じる女中を備えた旅籠が多数ありましたし、専門の娼館も普通ありました。 しかし、男娼専門の館とか施設は、事実上なかったはずです。美少年・美青年が自分で個人営業で春を売るか(丁度、按摩などが、笛を吹きながら街をまわるように、こういう個人営業の稚児は、それらしい衣装で街をめぐって、客の呼び出しに応じて相手をしました)。または、親方がいて、その指図で春を売るか、あるいは、田舎などを巡業する芝居の一座には、当然、稚児・色子がいるということになります。 江戸時代・元禄の男色文化を描いた作品集として、南条範夫の『五代将軍』という短編集があります。すべての作品が「男色・稚児」を扱ったものではありませんが、元禄文化がどういうものであったか、かなり鮮やかに分かります(現在、絶版のようですが、EasySeek などで探すと見つかるでしょう)。 >「五代将軍」(双葉文庫) 南条 範夫 (著) >http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4575660159/qid%3D1085749430/250-6819949-1049860
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- k-i-r
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江戸時代以前は衆道は僧侶、貴族、武士のものなので、特にお店などないみたいです。 まあ、個人営業の男娼はいたみたいですが。 http://www1.ocn.ne.jp/~yasumi/sub26/sub27/ensyu3-2.htm 参考にしてください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 なかなか返答がございませんで、ちょっと気落ちしていたところでした。
お礼
大変楽しく拝見させていただきました。 秀吉に稚児の経験があるとは初耳です!歴史に残る猿顔を稚児として受け入れた寺もすごい心意気だと思います。 芝居一座に男色を売る事もしばしばあったとすると・・・ 私の模索するところが多くなりそうです。 ありがとうございました。