貴族側に勝った者がいた、という認識が間違いです。
少数、負けなかった貴族もいたでしょうが、大半の貴族は負けたのです。
後醍醐天皇が中心になって、鎌倉幕府を倒し、昔同様の貴族による政治=「建武の新政」という政治をやり始めました。
鎌倉幕府を倒し、幕府や幕府側の武士が横領していた荘園はもちろん、日本中の武士が横領していた領地を取り戻し、貴族だけで分配しようとしたのです。
「領地を返せ」と言われてビックリした日本中の武士たちは、足利高氏らに不満を述べ、せっついて、建武の新政に対する反対運動を起こしました。
高氏は、後醍醐天皇から「尊氏」という名前をもらって喜んでいたのですが、武士たちの声に推されて、建武の新政の反対運動を起こしました。
つまり、後醍醐天皇側の新田義貞や楠木正成らと戦い、何度も負けて、命からがら九州あたりまで逃走し、その地の武士たちの援助で軍団を再編成し、京に上り後醍醐側を打ち破りました。
命がけで戦ったのは南北両方の武士たち。貴族は南北(持明院統、大覚寺統)どちらの側も、お経を読んだり祝詞を上げたりして逃げ惑うばかり。
勝っても報償をもらえない新田らの武士は本気になれずに敗れて、武士自身のために戦った尊氏が勝って、足利幕府が成立して、日本国土はこれまで通り、武士たちの支配する所として確定しました。
つまり、貴族たちの収入は全然増えなかったのです。貴族は負けたのです。
おまけに戦費捻出のため、武士たちはそれまで貴族に渡していた少額の年貢さえ渡さなくなってしまいました。
京都で飢えた貴族。縁のある武家を頼って各地に散らばるしかなかったのでした。
> それぞれ大名に取り立ててもらったり
それぞれ「の」大名に、重臣に取り立ててもらった者はいるかもしれませんが、大名に取り立ててもらった人はいません。大名になったのは、すべて武家です。北畠家(北畠顕家:追贈従一位右大臣)が例外的に貴族で大名になったと言っていいかもしれませんが、すぐポシャりましたからね。
> 戦国時代にも没落した、公家はいましたし、江戸時代末まで公家で
> いられた人は、
位階のどこまでを公家というかにもよるでしょうが、天皇と一応の会話ができるのは従五位まで(それ以下は会釈:偶然出逢って天皇のつぶやきを聞く形)ですかね。
そこまでとすると、100家はないと思います。武家だと、「従五位下」の大名はザラですが。
補足
大名に雇ってもらったとしても、下級武士という可能性もあったってことですかね