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北朝側の公家

南北朝の争いに勝利した北朝側、だけど理由がわかりませんが、室町時代のうちに没落してしまって、関東各地にも散らばって大名に仕えることになった公家が結構いたそうです。なぜ勝ったのに、没落して関東にも散らばり、それぞれ大名に取り立ててもらったりしたのでしょうか? 戦国時代にも没落した、公家はいましたし、江戸時代末まで公家でいられた人は、どれくらいいたのでしょうね

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  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.2

 貴族側に勝った者がいた、という認識が間違いです。    少数、負けなかった貴族もいたでしょうが、大半の貴族は負けたのです。  後醍醐天皇が中心になって、鎌倉幕府を倒し、昔同様の貴族による政治=「建武の新政」という政治をやり始めました。  鎌倉幕府を倒し、幕府や幕府側の武士が横領していた荘園はもちろん、日本中の武士が横領していた領地を取り戻し、貴族だけで分配しようとしたのです。  「領地を返せ」と言われてビックリした日本中の武士たちは、足利高氏らに不満を述べ、せっついて、建武の新政に対する反対運動を起こしました。  高氏は、後醍醐天皇から「尊氏」という名前をもらって喜んでいたのですが、武士たちの声に推されて、建武の新政の反対運動を起こしました。  つまり、後醍醐天皇側の新田義貞や楠木正成らと戦い、何度も負けて、命からがら九州あたりまで逃走し、その地の武士たちの援助で軍団を再編成し、京に上り後醍醐側を打ち破りました。  命がけで戦ったのは南北両方の武士たち。貴族は南北(持明院統、大覚寺統)どちらの側も、お経を読んだり祝詞を上げたりして逃げ惑うばかり。  勝っても報償をもらえない新田らの武士は本気になれずに敗れて、武士自身のために戦った尊氏が勝って、足利幕府が成立して、日本国土はこれまで通り、武士たちの支配する所として確定しました。  つまり、貴族たちの収入は全然増えなかったのです。貴族は負けたのです。  おまけに戦費捻出のため、武士たちはそれまで貴族に渡していた少額の年貢さえ渡さなくなってしまいました。  京都で飢えた貴族。縁のある武家を頼って各地に散らばるしかなかったのでした。 > それぞれ大名に取り立ててもらったり  それぞれ「の」大名に、重臣に取り立ててもらった者はいるかもしれませんが、大名に取り立ててもらった人はいません。大名になったのは、すべて武家です。北畠家(北畠顕家:追贈従一位右大臣)が例外的に貴族で大名になったと言っていいかもしれませんが、すぐポシャりましたからね。 > 戦国時代にも没落した、公家はいましたし、江戸時代末まで公家で > いられた人は、  位階のどこまでを公家というかにもよるでしょうが、天皇と一応の会話ができるのは従五位まで(それ以下は会釈:偶然出逢って天皇のつぶやきを聞く形)ですかね。  そこまでとすると、100家はないと思います。武家だと、「従五位下」の大名はザラですが。

sokoo0823
質問者

補足

大名に雇ってもらったとしても、下級武士という可能性もあったってことですかね

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その他の回答 (1)

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2334/5192)
回答No.1

>南北朝の争いに勝利した北朝側 これは、北朝側朝廷が勝利した訳ではありません。 あくまで、武家連合軍として南朝に勝利したのです。 そもそも、後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼそうと企んだのは「慣例を破って、我が子を次期天皇に即位させる為」でした。 質問者さまがご存知か否か分かりませんが、天皇家は「持明院統・大覚寺統」に分かれていました。 天皇家の内紛を防ぐために、2代づつ交互に天皇に即位する慣習があったのです。 後醍醐天皇は、2代目の代打(正統の2代目は、死去)ですから「息子は、天皇に即位する権利は無い」のですね。 そこで、鎌倉幕府に対して執拗に「息子を天皇に!」と嘆願しています。 鎌倉幕府としては、慣例の通り次期天皇を承認する事になっていたのです。 怒った後醍醐天皇は、討幕を目指すようになります。 当初は、後醍醐天皇に従った武家は失望して北朝側(慣例に従って即位した天皇)として戦います。 ここで、(法的には)正規軍と反乱軍(亡命政権)の関係になるのです。 >なぜ勝ったのに、没落して関東にも散らばり、それぞれ大名に取り立ててもらったりしたのでしょうか? 一言で言うと「生活の為」です。 天皇家・皇族は、そこそこの生活が出来ます。 が、多くの中級・下級公家は庶民なみの生活です。 地位の低い武士が、優雅な生活をしているのを見ると・・・。 地方に行くと、未だ公家としての地位が保たれる・・・。 そこで、地方の荘園に出向いて戦国武将化したのです。 補足的に言うと、江戸時代初期は「朝廷費用は3万石」でした。 たった3万石で、天皇家・皇族・貴族の全ての生活を賄ったのです。 これでは、御所(建物)の維持管理も出来ませんよね。^^; >江戸時代末まで公家でいられた人は、どれくらいいたのでしょうね 実際の資料は、存在していません。 が、公家の再就職は厳しいものがあった様です。 娘がいれば、有力大名・有力豪商に嫁いで実家の面倒をみてもらう事が出来たようですがね。 多くの中級・下級公家は「内職」で生活していた様です。 「武士は食わねど爪楊枝」ならぬ「公家は食わねど爪楊枝」。 討幕を計画した公家の多くは(三条実美をはじめ)下級公家さんです。

sokoo0823
質問者

補足

室町時代、地方の大名家にいき、重臣もしくは、家臣として雇ってもらったわけですが、生活のためにしたことなんですね

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