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体言止めとは
体言止めとは「名詞で終わらせる表現技法」とのことですが、辞書ではたまに「大言止めなる名詞」が見られます。 使い方と語の例を挙げてください。
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- 1311tobi
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No.6でコメントした者です。 >「いとおかし(とてもおもむきがある」」 これは古い時代の形容詞の終止形でしょう。 現代の言葉にするなら、「とてもおもしろい」(これも形容詞の終止形)くらいでしょうか。何も問題はありません。 >文法的に使ってはいけないということではない そのとおりです。ただ、体言止めの話とは関係がないということです。 文末に来る言葉にどのようなものがあるのかを説明するのは、少しむずかしいかもしれません。 下記の表をご覧ください。 【伝言板【板外編7】デス・マス体が書きにくいワケ1】 http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-277.html 以下、かなりおおざっぱな書き方になります。 文末に来る言葉は、助動詞(「名詞+○○」の○○も助動詞です)、動詞、形容詞がほとんどでしょう。デス・マス体の場合は「形容詞」で終わると不自然なので「青いです」「おもしろいです」などの形になります(すでに書いたように、個人的にはこの形は使いません)。 「体言止め」は「名詞+○○」の○○を省略しているので、ややイレギュラーな形になります。↑のリンク先に書いたように、「助詞」終わる形や、「……」で終わる形もあります。これらもイレギュラーな形でしょうね。
- 1311tobi
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No.4でコメントした者です。 「海は青いです/海は青い」は体言止めとは無関係でしょう。 「青い」は形容詞ですから。 デス・マス体の文中に「海は青い」の類いが出てきたら、それは体言止めではなく変則形(デス・マス体の中にでデアル体をまじえる形)になると思います。 ただし、「青いです/青かったです」の類いをどう考えるのかは微妙です。 個人的にはよほどのことがない限り使いません。これもちゃんと書くととても長くなります。 詳しくは下記をご参照ください。 【57定番の質問──「形容詞終止形」+「です」 うれしいです うれしかったです】 http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n294195 以下は一部の抜粋(重言)。 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 「うれしいです」「悔しいです」などの〈「形容詞終止形」+「です」〉に関して、当方は「厳密には誤用」と考えている(「うれしかったです」「悔しかった です」なども同様)。ただ、「その根拠を示せ」と言われると、ちと困ってしまう。↑の【板外編7】の本多読本の記述でお茶を濁しているが、最近の資料は示 しようがない。最近の文法書や辞書は〈「形容詞終止形」+「です」〉を許容しているからだ。 なぜそんなことになったのかは、「文化庁の陰謀」じゃなくて「方針」のせいとしか言いようがない。 (中略) 下記のサイトが詳しいかも。 http://www.kyoiku-shuppan.co.jp/view.rbz?nd=1750&ik=1&pnp=101&pnp=113&pnp=566&pnp=1750&cd=17 (中略) Web辞書『大辞林』の記述です。 これはすばらしい〝です〟。 以前ひいたときには、こんな記述はなかったような……。 ついでに書いておくと、終助詞の「か」がつく形もアリでしょう。 http://kotobank.jp/word/です?dic=daijisen&oid=12697100 ================引用開始 (3) 形容詞の終止形に付く「楽しいです」「おもしろいです」は現在かなり広がっているが,多少ぎこちなさも感じられる。一方,それに終助詞を伴う「楽しいですね」「おもしろいですよ」などは普通に用いられる〕 ================引用終了 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
補足
>「青い」は形容詞ですから。 「体言止め」と辞書を引けば単に「名詞止め。」 とあります。この限りでは形容詞は体言止めの条件には入りません。 しかし和歌でよくみられる 「いとおかし(とてもおもむきがある」」 これは形容詞です。 だから文法的に使ってはいけないということではないと思うのですが。
- TANUHACHI
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あらぬ方向に議論が進んでいる模様ですので、横レスの形になります。 >極論すると、文末に来るデスはすべて取っても構わない 僕はこの形に疑問を持ちます。文末まで読まないとそれが平叙文であるか否定文であるか疑問文であるか反語文であるのかがわからないとの日本語が持つ特性によるとの理由です。 もし「富士山は日本一高い山だ」との文で、述部を外してしまうならば、富士山が日本一高い山であるのかどうかは不明となってしまう可能性もあります。 こんなことを言ってしまいますと、それは揚げ足取りだ!とお叱りを受けるかもしれません。けれども「富士山が日本一高い山である」とは暗黙の事実としてそれを知っている人には当たり前の話ですが、それを知らない人が聴いたならどの様な反応を示すか。これが文法と関連してくる問題です。 実際に、中国の観光客が瀬戸内海を見た時に、日本にも河があるのかとの言葉を発したそうです。瀬戸内海が海であることを日本人ならば知っていますが、それを初めて見た人がどう感じるかはまた別問題です。その人の祖国にある河が大河であり、向こう岸が見えないほどの幅の広さがあったなら、内海を河と勘違いしても不自然ではありません。 もし「日本一高い山は富士の山」がそのままあったなら、これを試験で出題するには不適切ともいえ、それは述部がないよとの理由によります。仮に「富士山は日本一高い山であることは既に知られている」としたならば、富士山の高さが日本一であるとの事実を誰しもが知っているとの文意になります。けれども述部がなかったなら、文の意図を確定することは困難です。 ところで話は最初の質問に戻りますが、「大言止めなる名詞」の「なる」がどうしてここに使われているのかとの疑問を感じています。よろしければ、その事例が掲載されている辞書と版元をご教示願えないでしょうか。
補足
ご回答ありがとうございます。 揚げ足取りどころか、重要なご指摘です。 「富士山が日本一高い山である」というのは周知している限りのことであって、体言止めにするのは適切ではないということに納得です。 となると一部では「あたりまえ」としていることがそうではないということとなり、体言止めを使うことには慎重にならざるをえませんね。 「大言止めなる名詞」とは辞書には書いてません。 http://www.weblio.jp/content/%E4%BD%93%E8%A8%80%E6%AD%A2%E3%82%81 ここに「名詞止め」とありましたので、大言と変換違いした私の適切な使い方ではないと思いますが「なる」という言い方が適切でなければもう少し詳しく教えていただけますか?
- 1311tobi
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No.3でコメントした者です。 まず訂正とお詫びです。No.3に書いた「詩歌、文学作品のタイトルで使われるほか」の「、文学作品」は削除します。たいていの場合は「(形容詞句+)名詞」と考えるほうが素直そうです。申し訳ありません。 No.3への「お礼」に関して。 >「名詞+デス」については初耳でしたので検索してみましたら「デス族」というのですね。 当方が意図したのはそういうことではありません。 「総称のことです」を「総称のこと」にするフツーの体言止めです。たぶん一番多いのでは。誤解を招く書き方で済みません。 「デス族」ですか……。 「両親に感謝です」の類いは、現段階では誤用・俗用の類いではないかと。これの「です」を削除すると、2)と同じ形になります(笑)。 >2)は「富士山は日本一高い山だ」 これの「だ」をとったものは1)のパターンです。 2)は「両親に感謝します」を「両親に感謝」にする形のことです。 >3)東京郊外の二子玉川はターミナル住宅地だ」 その形も想定できますね。当方は「二子玉川は東京郊外のターミナル住宅地だ」を原形と考えていました。どちらもありそうです。ちなみに、このままの語順で文末の「だ」をとるなら、1)のパターンになります。 いずれにしても微妙な話ではあります。 今回はこのあたりで失礼。 ↑パターン2)かな?
お礼
回答ありがとうございます。 「名詞+デス」については単に「海は青いです。」ということだったのですね。(違ってたらご指摘を) ですが私はそういう文法があるのかと思い検索をしたらたまたま「デス族」があったわけですね(笑) 「富士山は日本一高い山だ」 については「だ」を取り忘れていました。 「二子玉川は東京郊外のターミナル住宅地だ」 なるほど、そういう形もありますね。
- 1311tobi
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「我が辞書にないのは不可能の文字」 「私の能力は神並み」 あたりなら「体言止め」で「大言止め」でしょうね。 単純に間違いでしょう。「どういったところで関連があって誤植となったのか」……とくに関連はありませんが、音が同じだからでは。 この質問以外に「大言止め」の用例が多数あることにビックリしました。これだからネット上の情報は……。 http://www.google.co.jp/search?client=safari&rls=10_6_8&q=%E2%80%9C%E5%A4%A7%E8%A8%80%E6%AD%A2%E3%82%81%E2%80%9D&ie=UTF-8&oe=UTF-8&gfe_rd=cr&ei=3CrjU7K8H8WD9AXj8oCwBw#nfpr=1&q=%E2%80%9C%E5%A4%A7%E8%A8%80%E6%AD%A2%E3%82%81%E2%80%9D&rls=10_6_8 〈使い方と語の例〉は、体言止めのほうでよろしいでしょうか。 詩歌、文学作品のタイトルで使われるほか、新聞・雑誌の見出しにも頻出します。なかには不自然に感じるものも多々あります。 体言止めに関して詳しくは下記をご参照ください。 【板外編10】体言止めの使い方〈1〉~〈3〉 http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-769.html 以下は一部の抜粋(重言)。 文末に変化をつける方法のひとつに、体言止めがあります。 ただし、「名詞+デス」の形が続くのを防ぐために体言止めを使うのは、あまりおすすめできる方法ではありません。根本的な解決策は次項で紹介しますが、その前にしておきたいのは、体言止めの使い方の話です。 体言止めの使い方は論理的に説明するのがむずかしく、ほとんどが経験則に基づいた記述であることを、あらかじめお断りしておきます。そのため、ほかの項目以上に例外が多くなるはずです。 念のために、体言止めの辞書的な意味を確認しておきましょう。 体言とは、名詞、代名詞の総称で、副詞などを含めることもあります。通常なら文末の体言の直後につくデスやデシタなどを省略した形が体言止めです。体言止めにはいくつかの形がありますが、ここでは3つに分けて考えます。 1)後ろのデス(デシタ)が省略されている形 例 体言とは名詞、代名詞などの総称のこと。 2)後ろのシマス(シマシタ)が省略されている形 例 自然の美しさを実感。 3)「倒置」によって生じた形 例 東京郊外のターミナル住宅地、二子玉川園。 この3つのうち、よく目にするのは1)の形です。 第1章で、「体言止めは、デス・マス体の文章にはなじみにくいのではないでしょうか」と書いたのは、あくまでも個人的な感覚にすぎません。極論すると、文末に来るデスはすべて取っても構わないとさえ思っています。自分でデアル体の文章を書くときには、デアルやダは音の響きが強すぎる気がするので極力使わないようにしているぐらいです。しかし、体言止めが連続する文章は、箇条書きのようなヘンな印象になります。 では、体言止めはどのように使えばよいのでしょうか。次の3つの例文を比べてみてください。 1)まず体言止めの問題。この問題を論理的に説明するには工夫が必要です。なかなかひと筋縄には行きません。 2)まず体言止めの問題。この問題を論理的に説明するには工夫が必要。なかなかひと筋縄には行きません。 3)まず体言止めの問題です。この問題を論理的に説明するには工夫が必要。なかなかひと筋縄には行きません。 おそらく、3つの文章のうちでもっとも自然なのは1)です。2)のように、体言止めが続く形は避けるべきでしょう。3)が1)に比べてなぜヘンなのかをあえて説明すると、体言止めには次の性質があるからだと思います。 ・文章中にあるよりも、文章の始まりにあるほうが自然 ・長い文で使うよりも、短い文で使うほうが自然 この2つを原則にするとよさそうです。ここで「文章の始まり」と書いたのは、全体の始まりのことだけではありません。小見出しや改行の直後の文章の始まりも、全体の始まりに準じます。 少しヘンな感じになることが多いのは、文章の終わりにある体言止めです。付け加えるニュアンスの一文(注意書きなど)を最後に添える場合を別にすると、尻切れトンボの印象になってしまうことがあります。余韻の残ることが多い「変則形の文末」(★ページ参照)が文章の終わりに向くのと対照的です。 2)は後ろのシマス(シマシタ)が省略された形でやや特殊ですが、新聞ではよく見かけます。デス・マス体の文章で使われることはほとんどないため、後ろのスル、シタが省略された形というほうが正確かもしれません。タイトルや小見出しなど、字数が極端に制限されるとき以外に使うと、言葉足らずの印象になります。 たとえば、先に比べた例文の最初の一文を「まず体言止めの問題から開始」にしても問題はないのかもしれませんが、安易に使わないほうが無難です。この形は、新聞の文章のなかでお手本に向かない例のひとつだと思います(新聞の文章に関しては★ページ参照)。 3)は「二子玉川園は東京郊外のターミナル住宅地です。」の主語である「二子玉川園」を、後ろに移動したと考えられる形です。「倒置」によって生じた形というのは妥当な表現ではありませんが、便宜上こう呼んでおきます。1)と違い、文末に省略されているはずのデスが加えられません。この形の文は、文章の途中では使いにくく感じられるのに、なぜか文章の始まりにもってくるとヘンではなくなります。さらに、ふつうは長い文章の文末を体言止めにするのはおすすめできないのに、3)の形は多少長くてもおかしくなりません。 (中略) 辰濃和男は『文章の書き方』(p.183)で次のように書いている。http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-768.html ================================ 歯切れのいい文章にしたい、という理由もあるのでしょう。体言止めを使うといかにも新聞記事らしくなるから、という人もいるでしょう。たしかに、体言止めを上手に使うことで、独特の味をだした新聞記事があることは認めます。ですから体言止め、助詞止めをいっさい使うなというつもりはありません。乱用はいかがなものかといっているのです。 ================================ 本多勝一は『日本語の作文技術』(P.217)で次のように過激に決めつけている。http://1311racco.blog75.fc2.com/blog-entry-137.html ================================ 例外的な場合とか特別な目的がある場合は別として、第一級の文章家は決して体言止めを愛用することがない。体言止めは、せまい紙面でなるべくたくさんの記事を押しこむために、たぶん新聞で発達した形式ではないかと思う。(中略) 素直に考えてみよう。いったいだれが、実際の会話の中で「…… 景気は回復。」とか「……という前提での予測。」というような体言止めの話し方をするだろうか。そんなに体言止めが好きなら、カギカッコをはずして間接話法にすればよろしい。 ================================ 要点は2つだろう。 ・第一級の文章家は決して体言止めを愛用することがない ・会話の中で体言止めを使うのはとくに不自然 「多用するのはよくない」というのもほぼ事実だが、「多用」か否かを示す指標がないので、どうしても論調は弱くなる。 これが一般的な年配者の意見。そのとおりだと思うから逆らう気はない。 個人的な話をすると、当方は若い頃はあまり体言止めを使わなかった。「いい加減さ」や「第一級の文章家でないこと」にかけては人に後れをとる気はないんだけどさ。
お礼
大変参考になるリンク先のご紹介とご回答をありがとうございます。 リンク先みましたら 「もしかして: “体言止め”」 と言われました。大言止めはやはり誤用ということですね。 「名詞+デス」については初耳でしたので検索してみましたら「デス族」というのですね。 「本来であれば、動詞を使って表現すべきところを、『名詞+です』の形にするというのも、デス族の特徴だ」と言う。「両親に感謝しています」の代わりに「両親に感謝です」という表現…」 ということですが >通常なら文末の体言の直後につくデスやデシタなどを省略した形が体言止め としか思ってなかったので以外でしたが、この形も「体言止め」なのですね(ですからこのようなことも辞書に載せるべきと思いました)。 >体言止めの使い方は論理的に説明するのがむずかしく そうなのですか… > 2)後ろのシマス(シマシタ)が省略されている形 例 自然の美しさを実感。 3)「倒置」によって生じた形 例 東京郊外のターミナル住宅地、二子玉川園。 2)は「富士山は日本一高い山だ」 3)東京郊外の二子玉川はターミナル住宅地だ」 ということですね。 >極論すると、文末に来るデスはすべて取っても構わない 同感です。 私個人としては気持ち良いんですよね、体言止めで結ぶのは(笑) >デアルやダは音の響きが強すぎる気がするので極力使わないようにしている これについても同じです。主張を強くしたい場合以外、上から目線的に聞こえてしまうのなら逆効果ですから。 >3つの文章のうちでもっとも自然なのは1)です。 私もそう思いました。でも3)も結構自然に思われます。なぜならば体言止めである「工夫が必要。」という箇所は、強調したいがためと思わせるからです。 文章中の多用は確かにおかしいですが、この投稿欄などでは回答に余韻をもたせるために、文章全体の最後に 1)後ろのデス(デシタ)が省略されている形 は個人的に多用している次第です(笑)
- OKAT
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>使い方と語の例を挙げてください。 「新古今和歌集」には「体言止め」が多いので有名ですね。次の三首とも「秋の夕暮れ」で終わっています。これを「三夕(さんせき)の和歌」と呼びます。 「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」定家 「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮」寂蓮 「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」西行 勿論これ以外にも多くあります。現代でも「詩」・「小説」・「映画」のタイトルは「体言止め」が普通ですね。歌の歌詞もそうですね。しかし、このようなものはあまり新鮮味がありません。かと言って小説は客観的な描写を目指すものが多く、見つけるのは大変。やっぱり詩歌ですね。とりわけ俳句などは語数の関係もあって、半分以上が「体言止め」です。芭蕉の俳句で知っているものを思い出してみてください。 「古池や蛙飛びこむ水の音」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
お礼
ご回答ありがとうございます。 なるほど、詩的に使え、そして文章で使われていても詩的に聞こえますね。 ということはあまり、客観的な文を述べる場合などではあまり多く使わない方がよいのでしょうね。主張したいことが「効果的」となる場合にとどめておけばよいのでしょうか。
- TANUHACHI
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「体言止め」が名詞及び相当語句で文末を止めることは明らかですが、「大言」は大言壮語のように、大袈裟な言い方をしたり大風呂敷を広げる様な物の言い方をする場合に使われる言葉です。 恐らくは誤植でしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 体言、大言と「おと」は同じですが、どういったところで関連があって誤植となったのか知りたいところです。
お礼
いろいろと参考になりました。ありがとうございます。